蒼の涙

蒼の涙-6

『お、お前……』
「何で戻ってきた、ってか?そんな顔しといてよく言うぜ」

 数歩前にいるシエルは、驚きを隠せずに口を開けて俺の姿を見ている。それもそうだ。こんな状況で、建物もどれだけ持つか分かったものではない。

「さっきはああ言ったがな、本当は無茶苦茶怒ってんだよ、俺。何でだか、分かるよな?」

 シエルに向かって俺は牙を剥く。シエルはそんな俺に対して感情を露わにせず、ただ黙って俺の言葉を聞いていた。

「おかしいと思ったんだ。あれだけの腕があれば、最初に襲われた時だって怪我を負いはしても軽く賊をひねれたはずだ。だが、お前はそれをしなかった。確実に、安全に、自分を犠牲にしてでも、ネージュを守れる方法を取った」

 聞き取れないことがないように、この上なくはっきりと言葉をつなげる。それでもシエルは顔色一つ変えず、腕を組んでただ立っている。

「…かけていた結界にかかった代償は、お前の命。そうだろう?」

 沈黙を固く守っていても、表情を見ればそれが同意に変わらないとすぐに分かる。ふっと緩めたシエルの表情は、小さな子供が駄々をこねているのを傍から見るかのような、少し曇った笑顔だった。

「お前みたいに生真面目な騎士の連中は主を護ることしか考えねェからな。自分の命なんざ、何とも思っちゃいねェ」
『過ぎたことだと思うだろう。そう思われても、私は構わない。私は、私は…ネージュが無事ならば、それでいいんだ』
 シエルに向けて、勢いよく拳を叩き込む。俺の手は、簡単にシエルの身体をすり抜ける。俺の目からはいつの間にか涙が出ていたけれど、シエルはそんな俺を見て静かに微笑むだけだった。

「誰かを守って死んでいく奴はいつもそうだ。自分はあっさり死ぬくせに、満足そうに笑って死にやがる。残った奴が、どれだけその笑顔に囚われるか知らないで…!」

 途中から、八つ当たりに変わっていることは分かっていた。でも、止められなかった。
それを認めたくなかった。でも、きっとそれは無理だった。

『ヒトはいつであっても、必ずさよならを告げる日が来る。私達は、いつだってそれに怯える』

 膝をついてしまった俺の前にしゃがみ込み、シエルは言葉を紡ぐ。赤い目はさっきと違って幼子をあやす暖炉の柔らかな火のようで、俺はそれをただじっと見つめていた。

『幸せであり続けることなど、できはしない。だが、悲しみだけに囚われるのは、余りにも愚かだ。その矛盾を知っているから、お前は義賊をしていたのではないのか?』

 泥に手を突っ込むように、一言一言が俺の頭にずぶずぶと沈みこんでゆく。奥へ奥へとそれは入り込み、思考を侵食してゆく。
 悲しみを背負うため。代わりに少しでも長く、幸せを残すため。
俺のしていることは、シエルのしたことと少しも違わなかった。

『お前は、私にも幸せを残してくれたろう。それだけで、十分だ』

 俺の頭を、淡く光る大きな手が撫でる。触れていないはずなのに、なぜだかそれは暖かかった。
 結局、俺も誰かに救ってほしかったのかもしれない。自分のしていることの矛盾を受け入れて、それでも全てを許してくれる誰かの手によって。

「…分かってんなら、そんなに悲しそうな顔…するんじゃねェよ」
『お前の方が、酷い顔をしていると思うがな』

 わざと顔をくしゃくしゃにして、シエルに笑顔を見せる。俺の方が、ずっとみっともない顔をしていたことだろう。

『だが、やはり―』

 シエルの手が、俺の頬に触れようと伸びる。それはすうと俺をすり抜けて、力なく下ろされた。

『触れられないというのは、悲しいことだな』

 困ったように、シエルが微笑む。その表情は、万の言葉よりも強く俺の心に強く刻まれた。

 空気が唸るように震え、崩壊が加速してゆく。この様子だと、もう幾刻ももたないだろう。

『行け。……もう、時間がない』

 シエルの身体が、段々と強く光る。どうやらこちらも、そろそろ限界のようだ。

「しょうがねェな。奪ってやるよ、あいつの背負う悲しみも」
『腕前を見られないのが残念だ。…頼んだぞ』

 もう一度出口で振り返った時に見たのは、眩しいくらいに笑うシエルの姿だった。

「ネージュ」

 駆け寄ってきたネージュに向かって、俺は笑いかける。身体からすっかり力が抜けてしまって、座り込んだままその頭を撫でる。

「一発怒ってやろうと思ったんだがな。逆に説教されちまった」
「…意地っ張りだからね。何を言ってもきかなかったでしょう?」
「まったくだ。憎々しいくらいにな」

 俺を見つめるその瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。ネージュは、ちゃんとわかっていた。俺と同じで、認めたくないだけだった。
 だがその瞳には、確かにあいつが宿っていた。途方もなく儚く、悲しいくらいに強い。これ以上泣かせてはならないと、思った。

「僕を、連れて行って。僕の、知らない世界に。…お父さんの、ところに」
「…俺は、あいつみたいに馬鹿がつくほどのお人好しじゃあねェ。それでも、いいのか?」

 ゆっくりと、目の前の顔が縦に振られる。どうしたらいいか分からなくて、俺は小さな身体を力一杯抱きしめた。

「…今のままで、十分過ぎるくらいお人好しだよ」
「ふん。…そうかもな」

 ぎゅっと強く腕に力を込めて、震える身体を宥める。涙でぐしゃぐしゃのまま俺を見上げたその顔は、精いっぱいの笑顔を浮かべていた。
そのまま気を失ってしまったネージュの頭を、優しく撫でる。ほんのり甘い匂いのする肩に顎をのせ、小さな身体の温度を感じる。

 誓う事が、またひとつ増えてしまった。とても重いものだけれど、嫌なものではない。
 確かに触れ合っているものを、決して手放さないように。

「…ったく。やっぱり、こういうのは苦手だぜ」

 自嘲気味に笑って、俺もまた、瞳を閉じる。
 どれだけ深く眠っても、腕の中には確かな暖かさがあった。






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