蒼の涙

蒼の涙-3

『この屋敷には、まだ主の子息であるネージュ殿が生きておられる。どこか、安全に生活できる場所まで連れて行ってはくれないか』

 シエルの頼みは、いたって単純なものだった。しかし、俺はいくつもの疑問を持たざるを得なかった。

「よく逃げなかったな、その…ネージュって奴は」
『私が結界を張って音も衝撃も遮断しているからな。恐らく、私が死んだことにも気付いていなかったはずだ』

 幽霊になってさっきのように物を動かす力を手に入れ、かろうじて余っていた食材で食事を出すことはできたようだ。だからといって、当然そのままというわけにもいかない。主が戻って来るか、俺のような連中が寄るでもしない限り、ここを訪れる人はほとんどいないのだから。
 仮に誰かがここを訪れたとしても、俺のように話を聞いてくれる連中だという保証はない。経った日数から考えても、俺が最後の頼みの綱なのだろう。

「まあ、これで断るほど冷徹な訳じゃねェ。頼みを聞いてやってもいいぜ」
『ならば、ネージュ殿を―』
「ただし、だ」

 俺の言葉を聞いて表情を緩めたシエルに向かって、俺は手で制した。面食らった顔を見せたのち、シエルにまた怪訝な表情が現われる。

「俺も一応義賊って職があるんでな。こんな状況になってる所で悪いが、報酬の程を聞こうか」

 こちらも一応裕福ではない身なのだ。シエルには悪いが、次の街にたどり着くまでに今ある食糧で二人分持つかどうかも危うい。その上安全に身柄を引き取ってくれる場所を探すとなれば、俺の稼ぎではとても賄いきれないのは明らかだった。
 シエルはしばらく記憶を巡らせていたようだったが、少ししてようやく口を開いた。

『…私の使っていた剣と鎧を。少し重いが、強い魔力を持ったものだ。それなりの金にはなるだろう。それでも不満なようなら、…エリティア家に伝わる宝を』

 後者の方はあまり口にしたくなかったのか、自ら守っていた大きな門を自分で開けるかのような苦々しさを含んだ言葉をシエルは絞り出した。
 そこまでして守っていた宝を通りすがりの人物、まして自らの身と主の一族を壊滅させられた賊と同列の俺に渡すのは、きっと俺の想像以上に屈辱的なことであるに違いない。だがまだ生きている命と比べるならば、その天秤が動く方向は明らかだ。
 それに加え、シエルは自らの剣と鎧までを渡すと言った。誇り高き騎士にとって、自らの武具は守るべき主の次に大切なものといっても間違いではない。自分が死ぬまでその身と連れ添うそれらは、騎士の魂そのものなのだ。

「分かった。俺が、責任を持ってそいつを連れて行く」
『…すまない。頼む』
「これだけ聞かされて、今さら放っておけるかよ。こんな身の上の俺が騎士の真似事をするなんざ、姫を攫う怪盗になった気分だぜ」

 相当の覚悟には、相当の行動で報いなければならない。皮肉交じりの言葉には、シエルへの敬意を込めたつもりだった。

『ならば、怪盗らしく私に化けられるよう努力するんだな』
「俺はしがない賊だからな。せいぜい化けの皮が剥がれねェようには頑張るさ」

 こんな中でも皮肉に反応できるシエルの強さにはとても敵わないと、俺は肩をすくめて思った。






 シエルの案内で厨房を出て更に奥へと進むと、右へ曲がる突き当りに出た。それを曲がってしばらく歩くと、道の突き当たりに何やら銀色の細長いものが突き立てられているのが見える。

『私の剣が刺さった先の部屋が、ネージュ殿の居る寝室だ』

 おそらくあの剣が、ネージュの部屋を守る結界を作る役割をしているのだろう。魔法の知識に疎い俺でも、鋭い殺気に気圧されるような寒気を覚えるほどだ。シエルの想いは、それだけ強かったのだろう。
 一歩ずつ歩いて行くうちに、視線の先に大きな剣が見えてくる。騎士が持つのにふさわしい程の圧力を放つ銀色の刀身は、所々血で汚れて本来の輝きを失っている部分もあった。

 そしてその剣に付いた血の先にあるものを見たとき、俺は両の足が凍りついたように足を止める。
 忘れていた。この館の奇妙さに紛れて気付けなかった、と言った方が正しかったかもしれない。
 剣が刺さっているということは、そこでステラがネージュを賊から守っていたということ。そしてネージュを守るために、命の消える前に結界を張ったということ。その他に、もうひとつ重要なことを忘れていた。

『…すまない。無様な姿を、見せてしまったな』

 剣の傍にうつ伏せになって倒れていたのは、宿る魂を失った一人の騎士の身体だった。

『私以外の者は、何とか外に埋めてやることができたのだが…どうしても、それだけは、できなかった』

 その声が震えていたから、シエルがの心境は痛いほど感じられた。目の前に横たわる自分の身体を見つめて平静でいられる人物など、どこを探してもいるはずがない。
 俺は少し考えた後、ひとつとひとりの傍にゆっくりと近づいた。そのまま片膝をついて、すっかり冷え切ったその腕に触れる。

『…な、何をしているのだ。早くネージュ殿を』
「何言ってんだ。ネージュって奴を生きてるはずの俺自身に転ばせる気か?」

 氷のように冷たい鎧の下に俺の身体を滑り込ませ、よろけながらも無口な巨体を背負う。心の無い抜け殻は、見た目よりも大分軽く感じられた。

「…今度通りがかったら、花くらい置いてやるよ」

 後ろを振り向かなかった俺は、シエルがどんな顔をしていたか分からない振りをした。






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