蒼の涙

蒼の涙-1

 かたん、という音と共に、手元の杖が床に落ちる。てっぺんから先まで滑らかな感触で、ひんやりと冷たいそれを拾い上げると、僕は深くため息をついた。
 椅子から立ち上がり、杖をつきながら窓際へと歩いていくと、外からの少し冷たい空気が感じられた。外に吹く風の音は穏やかで、とても静かな夜だ。時期からすると、そろそろ雪が降るかもしれない。
 外の様子を窺うのをやめ、壁伝いに本棚へと歩を進める。一冊の本を手に取ると、僕はぱらぱらとページをめくった。内容は覚えているけれど、僕には読めない。読めるはずもない。  僕の眼に、光はないから。

 壁一面にある本棚の内容は、もうすべて覚えてしまった。大昔から伝えられてきた大昔の神話、吟遊詩人の語った英雄の活躍する物語。どれも、僕の心を弾ませ、躍らせたものばかりだ。小さなころから少しずつ、少しずつ。僕に優しく語ってくれた彼は、数日前から来なくなった。
 僕の家は、昔から代々続く魔法使いの家系らしい。成人するまで部屋から出てはいけなくて、僕は生まれてからずっとこの部屋で過ごしてきた。大きなベッドと本棚、部屋な真ん中に置かれた小さなテーブルと椅子。あとは、窓際に置かれた大きなピアノ。これだけのものしかない部屋が、僕の世界のすべてだ。

 親兄弟とも会えない代わりに、僕の世話は代々仕える騎士の人がしてくれる。何もすることのない僕のために、毎日毎日相手をしてくれた。服の着方から食器の使い方、色々な言葉も。文字は読めないけれど、僕の頭には彼が話してくれた言葉が沢山詰まっている。
 でも、その彼が突然来なくなった。一日、二日と過ぎるたびに、僕はそわそわすることが多くなった。ドア越しに人を呼んでも誰も返事をしないし、開きもしない。でも、食事だけはいつの間にか部屋にあって、いつの間にか片付けられていく。どうしていいか分からないまま、何日も日々が過ぎていった。

「……シエル」

 気配すら感じない彼の名を小さな声で呟きながら、僕は本を胸に抱えて座り込んだ。




















瞳に見えぬのは 悲しい程にやさしい心




















蒼の涙




















「よ…っ、と。中々簡単に忍び込めるもんだなァ」

 鍵のかかっていない窓から屋敷の中に忍び込んで、俺は辺りを見回した。とても大きな屋敷で、廊下はかなり広いのに、どこにも人の気配はない。誰かが遠くを歩く足音さえ聞こえない。
 ただ、内部はこれ以上ないくらいに荒らされていた。廊下に飾られていたのであろう置物は見事に床に砕け散り、赤い絨毯はぐちゃぐちゃになっている。大方、付近に居城を構える盗賊にでも襲われたのだろう。ただ、あってもおかしくない死体がひとつもないのと、壁に備え付けられた燭台には全て火が灯されているのは妙だった。

「気味の悪い場所だな。まァ、そんなことも言ってられねェか」

 山を超えた向こうの街を目指して道を歩いていたものの、いつの間にか迷ってしまってすっかり日も暮れてしまった。そこで、たまたま見つけたこの屋敷の片隅ででも一晩泊めてもらおうと、忍び込んだのだ。普通に宿を乞うなら正面から入れてもらえばいいのだが、生憎それは俺の性分ではない。
 俺の生業は、義賊。金持ちから金品をかっさらって、貧しい人々に配るあれだ。傍から見ればそこらへんの賊と変わらないのかもしれないが、弱い奴らから何もかもを巻き上げる下賤な奴らと一緒にされるのはどうも心地が悪い。まあ、仕方ないのは分かっている。それが貧しい人々を救う最善の方法でないことくらい、俺だって理解しているつもりだ。

「こりゃァ、相当荒らされた後だな。館の主には気の毒だが、少しだけ居させてもらうぜ」

 これだけ凄惨な状況では、金目のものは残っていないとみて間違いないだろう。もちろん、まだ命をもつ生物もいるとは思えない。だが、野宿よりも一晩をずっと楽に過ごせる場所くらいはあるはずだ。少し埃っぽい廊下をゆっくり歩きながら、俺は今夜の寝床候補を探す。万が一何かが出てきた時のために、俺の左手は濃紺色のマントの下に提げた剣に当てられていた。
 どうやら、一階はホールや食堂、それに召使い達の部屋になっているらしい。金目のものはおろか、あるのは割れた食器や薄汚れた家具ばかりで、とても居心地がいいとはいえない状態だった。だが、やはり人の死体はどこにもない。これは、妙だ。

「血の跡さえも無しか。…こいつら、家を捨てたのか?」

 この荒れ模様はきっと賊の手によるものだろうが、そいつらがわざわざ全員を奴隷商人に引き渡すなどという面倒なことをするはずはない。きっと、何人かの口は封じてしまうはずだ。それがないということは、一族が何らかの事情でこの家を離れた可能性の方が高い。だがどちらにせよ、金目のものが残っている確率は変わらない。期待しない方がよさそうだった。

 一階の部屋に見切りをつけ、玄関ホールを通って二階への道を進む。銀と青で彩られていたであろうその装飾はほとんどその面影を見せず、突き刺さるように冷たい印象を与える。完全な姿を見られたなら、きっと荘厳な格式を誇る見事なホールだっただろう。すっかり埃のかぶった銀製の手すりには手を触れず、一段ずつ階段を上る。石でできているのか、軋む音は全く聞こえなかった。

 念のため人がいないことを確認して、二階の廊下を見渡す。廊下には一階と同じくがれきが転がっているだけで、特に変わった点は見受けられなかった。
 だが、目に見えないある異変を俺の鼻は察知した。

「この匂い……まさか、料理か?」

 空気の流れに沿って俺の鼻に入ってくるのは、焼けたチーズのような食べ物の強い香りだ。丁度減っていた俺の腹が、それに反応してぐうと鳴き声を上げる。だが、明らかに何かがおかしい。こんな荒れ果てた建物で料理の匂いがするということは、それは明らかに先客がいるということだ。でもその割には全く物音がしないし、気配も感じない。日頃から生き物の気配を察知することには長けていると思っている俺の感覚が、注意信号を自身に送る。
 でも、そんな奇妙な状況に対する好奇心には勝てなかった。もし賊ならば逃げればいいし、旅のものならば寝首を掻かれない程度に親しくして床につけばいい。何しろ、一日中歩いて体が疲れているのだ。寝心地の悪い外で一晩を過ごすのは、できる限り勘弁願いたかった。

 匂いのする方向へ、ゆっくりと一歩ずつ歩き始める。足音が聞こえないように最大限注意を払って、目的の部屋を探した。  匂いのもとは、十数歩先にある少し戸の開いた部屋のようだった。おそらく、館の主用に特別にしつらえた厨房のような場所なのかもしれない。壁を背で這うように近づき、中の様子を窺った。
 見える範囲では、誰かがいる気配はない。もちろん俺に気付いて息を潜めている可能性もあるわけだから、過信はできないが。
 覚悟を決め、一呼吸置いたのちにドアを蹴って中に入った。人の姿は、ない。あるのはかまどの上で軽く焼かれ、柔らかくなっているチーズと、高級そうな皿に綺麗に盛られている野菜だけだった。
 今一度少し狭い部屋を見回してみても、誰もいない。人が隠れている様子も、隠れられそうな場所も、ない。あるのは皿の置かれた作業台のような大きなテーブルと、戸の開いた食器棚だけだった。

「…。やっぱり、覗かねェ方が良かったか…ッ!?」

 突然、後ろに気配を感じた。一瞬のうちに短剣を身体の前に構えると、かきんという金属音と共に何かが落下した。落ちたのは、さっき作業台の上に乗っていた包丁だった。

「くそッ…何だってんだよ!」

 それが合図であったかのように、その場にあったすべてのものが俺めがけて飛んできた。食事に使うフォークやナイフからチーズを焼いていた小さな片手鍋まで、包丁以外はおよそ殺傷能力はそれほどなさそうなものだったが、飛んでくるスピードの速さを考えれば十分傷をつける原因になりうる。俺は右手にも同じ形をした短剣を持つと、食器の群を避けつつ弾きを繰り返した。
 それがしばらく続いた後、ようやく飛んでくるものがなくなった。俺は息を切らしながら、必死に辺りを見回す。物に触れずにこれだけの量のものを操ることができるのは、相当訓練を積んだ者であるに違いない。

「出て来いよ。テメェだけ姿を現さねェなんて卑怯だぜ」
『後ろだ』

 虚を突かれたように低く威圧感のある声が聞こえ、俺はとっさに後ろに振り返って短剣をそいつに突きつける。視線の先に映ったその姿を認識して、俺の呼吸が一瞬止まった。

『斬りたいのなら斬るがいい。刃が届けば、の話だがな』

 確かに声を発しているはずのそいつの身体を通して、向こうの壁が見えた。そいつの身体は、透けていたのだ。
 幽霊、という単語が一瞬で頭に浮かぶが、そんな事を抜きにしても、俺には驚くもっと大きな理由があった。

 青い鱗を持つ体に、炎のように赤く輝く瞳。竜人と呼ばれる、一人のヒト。
 当の声の主は、俺そのものの形をしていた。






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