目の前の光景を他人事のように見ながら、俺は奇跡ともいえる光景を体験していた。指の先まで確かに自分の身体なのに、その内を自分ではないモノがざわざわと駆け巡っている感覚。それに俺は抵抗するでもなく、ただ行く末を見つめているだけだ。
シエルの剣捌きは鮮やかという以外に言葉が見つからず、まるで歌劇の一場面であるかのように賊を次々と薙ぎ倒してゆく。大剣はやはり斬ることよりも吹き飛ばしたり叩き潰すことに重点を置いているようで、ある者の胸であばらの骨が何本も折れる鈍い音が聞こえ、ある者の持っていた斧は柄の真ん中から折れるばきりという音がした後に勢いよく壁に突き刺さった。
「ば、化け物めッ…!」
頭領は次々と倒れる己の配下に苦渋の表情を浮かべながら奥歯を噛み締めている。持っているのがよく賊の持つ斧でないのは、元が傭兵か何かだったからだろうか。
「化け物?…ふん。確かに、そうかもしれないな」
こちらに襲いかかる気のある者は、一人を除いてもういない。まだ生きているものは、半分くらいだろうか。絶望と哀れさを乱暴にかき混ぜたような表情を自分に塗りつけて、ただただその身を震わせている。
大声で吼えながらこちらへ走ってくる頭領に、憐れむような顔を向ける。力一杯振ったその剣さえも一太刀で弾き飛ばして、その頭を片手で力を込めて掴んだ。
「ど、どうか、命だけは」
「ああ、奪わないでおいてやる。その代わり、一生消えぬ苦しみを施してやろう」
一瞬緩んだ頭領の表情が、すぐに一縷の光を失う。頭を掴む手に力を込めると、そこが熱くなったのは一瞬のことだった。
「っぁァ…ァァぁぁ゛あ゛ぁ゛ァ゛ァ゛ア゛アッッ!!」
丁度目の位置にあった手のひらから発されたのは、シエルの怒りのように静かに燃える青い炎。俺の手を焼かないそれは、嫌な臭いを発しながら包む両の瞳を焼いてゆく。
「しっかりと身に刻め。お前が、どれだけ……!」
俺の眼からは、いつの間にか涙があふれていた。シエルの思いに共鳴して、俺の心にもすべての感情が流れ込んでいく。後悔と自責を怒りの炎で焼いたその心は、俺には余りにも重く、濃く、苦かった。
掴んでいた頭が俺の手からずるりと滑り落ちる。気の狂うような苦しみが体中を駆け巡っているであろうそいつはその辺をのたうち回り、悲鳴を上げながら自分の身体を掻きむしっていたが、子分の数人に連れられて逃げ出していった。他の動ける賊は既に尻尾を巻いて逃げ出し、残っているのは数人の動かない肉塊と、生きている二人だけになった。
『ッ……すま、ない』
我に戻ったシエルが俺から抜け出したために、膝をついてその場に座り込んだ。俺の身体は魂すら抜けてしまったように力が入らず、息をするのでさえ精一杯だ。
後ろからネージュが駆け寄ってくる音が聞こえたが、そちらを振り向くこともできない。どうやって弁明しようかとかろうじて働く頭を回していると、目の前にネージュの姿が現れた。
開いている瞳は確かにこちらを向いているが、決して俺を見ているわけではない。何も映っていないその眼にも、感情は存在しているのだ。
今にも崩れそうな顔で、俺の顔を撫でる。見る代わりに、確かめるように俺の顔を隅から隅まで撫でて、さらにその顔を崩れさせた。
「…シエルじゃ……ない、んだね」
「わ、私は……」
「わかってる。わかってるよ。嘘をつかなくて、いいから」
顔を伏せて泣かれてしまったら、もう弁解の余地はない。俺はせめて頭を撫でてやろうとして、すぐにその考えを飲み込んだ。俺はこいつを知っていたとしても、こいつからしたら俺はただの見知らぬ奴だ。頭を撫でてやる権利など、ない。
「そうじゃないかと思ったんだ。何日も待って、でも…会えなくて。寂しかった、すごく。もう会えないんじゃないかって、思った」
涙を流しながら俺の方を向いて話すネージュは、きつく両の拳を握りしめている。掌に血が滲んでいるのも気にせず、言葉を続ける。
「あなたが来たとき、ほんとは信じてなかったんだ。あなたは、全然シエルみたいじゃなかったから。でも」
確かにシエルのものである鎧を、ネージュは撫でる。滲んだ血が銀色を曇らせても、全く構いもしない。
「あなたは…限りなく、シエルに似てた。だから、信じたかったんだ。また、シエルが僕を護ってくれてるんだって」
本当は見えていないはずなのに、俺は視線で体を射抜かれたように身動きが取れない。俺が部屋に入った時から分かったひとつひとつの手がかりを積み上げて、目の前の少年はある絶望的な正解を導き出そうとしている。そしてそれは一番悪い予想で、一番認めたくない結果だ。
「でもッ。シエルは……シエル、はッ」
隠し通せるはずはなかった。この二人の絆は、俺が小手先でどうにかできるほどのものではないのだ。
シエルがどうしているのかは見えなかったが、きっと顔を背けている。漏れそうになる声を必死に抑えるくぐもった唸りが、俺には聞こえていた。
「ほんと、馬鹿だよね。自分のことなんて全部放り出して、こんな僕のために…何で」
鎧を叩く音が、何度も響く。怒りも悲しみも通り越して、何を感じているのかすら分からないのだろう。鎧越しに胸を叩かれるたびに、ナイフで心臓を突き刺されているかのような熱さが俺の中ではち切れんばかりに膨らんでゆく。
こんなに近くにいるのに、届かない。両方の姿が見える俺には、二人の間の距離が絶望的なくらいにはっきりと見えた。
「確かに、シエルはお前を護った。命をかけてな。それは、残された奴には一番辛い」
泣いていたネージュが、突然喋り出した俺の話に反応して顔を上げる。眉間に深い皺を寄せながら、また顔を伏せて黙った。
「主のため、愛する人のため。色々理由をつけて死んでいくが、自分が死んだ後相手がどう思うかなんざちっとも気にしちゃいねェ。結局は最高の矛盾だ。笑っちまうほどにな」
生と死との隔たり。それは、愕然とするほど大きく、厚い。だがそれを感じたのは、俺も初めてではない。それを感じることが一生ない奴なんて、一人もいない。
「だがな、全部を失うわけじゃねェ。そういう奴は必ず何かを残す。…お前には、とっておきのものが残ってる」
びくりとネージュの体が跳ねる。俺の腕を掴んでそのあとの言葉を聞き漏らすまいと待つが、俺の視線はネージュのつけていた首飾りへと向けられていた。
「…どこかで覚えがあると思ったぜ。盲目の主と騎士の契約において生まれる蒼き石。騎士の光の半分と引き換えに主に光を宿す秘宝、か」
鎖を引きちぎり、ネージュの顔の目の前に蒼い石を掲げる。お伽話のような物語と共に語り継がれていた秘宝の一つであるそれは、主に反応して眩いばかりの光を発していた。
「これ、は……?」
「…お前のために、あいつが残した光だよ」
蒼い石は光の玉となって、それを守っていた檻を抜けて空中に浮かぶ。それはさっきよりも強い、やさしい光を放ちながら、ネージュの左目へ吸い込まれてゆく。光を吸い込んだその眼に焦点が宿り、ゆっくりとその眼が俺を見つめる。文字通り目を点にして何回もまぶたをしばたいたあと、俺の顔を食い入るように見つめていた。
「ぁ…あッ……」
その左目には、しっかりと俺の姿が映っている。ネージュはその瞳にいっぱいの涙を浮かべて、声にならない泣き声をあげた。
『…さあ、そろそろ、時間だ』
建物全体が、大きな唸り声をあげる。地響きに気付いて顔をあげると、天井からはぱらぱらと石の欠片が落ちてきた。恐らく、ここはじきに瓦礫の山となるのだろう。
「役目を終えた城は崩れる、か。囚われの姫を連れ出すのにこの上ない理由だな」
『守る主を亡くした城も寂しがるだろうからな。丁度良い』
重々しく、かすれるような声で言ったシエルは、うっすらと笑顔を浮かべる。
『行け。いつまでも、過去に留まってはいかん』
邪魔者を追い払うようにひらひらと手を振って、シエルはそっぽを向く。俺は立ち上がって、ネージュの手を引いた。
「…立てるな?」
「…………うん」
こくりとネージュは頷き、もう必要のない杖を取らずに立ち上がる。そのまま腕を掴んで、俺は全力で玄関へと走った。 次々と支柱が倒れ、床が隆起し、屋敷は原形を失ってゆく。何とか玄関の戸まで辿り着くと、閉じかけていた戸を思い切り蹴破った。
ネージュを先に外に逃がし、後ろを振り返る。こちらを見ていた騎士は、さっきまでは決して見せなかった、困ったような笑顔を浮かべていた。
顔一杯に未練を滲ませながらも満足そうに微笑むその表情は、俺の歩みを止めるには十分すぎるほどだった。
「どう、したの?」
不安そうにこちらを見つめるネージュに、俺はシエルがしていたのと同じような笑顔を向けて見せた。
「離れて待ってろ。…少し、あいつに説教をしなきゃ気が済まねェ」
気づけば、崩れ始めている建物の中へ、俺は再び走り出していた。