神の住む社

神の住む社-1

 息が、できない。俺は、どうしてしまったのだろう。

「っ……ぁ…………」

 わかっていた、すべて。わかっていた、つもりだった。でも、どうしたらいいのかだけが、どうしてもわからなかった。

 目の前に広がる、すべての生を失った集落。無邪気に駆け回っていた子供も、それを微笑ましく見つめていた大人たちも、今はもうただの意思を持たないカタマリと成り果ててしまっていた。

 自分が、そうさせてしまったのだ。たった一つの命のために、皆のココロを壊してしまった。失わせたものの重みが俺を踏み潰すようで、逃れられるはずもないのにひたすら叫ぼうとした。出そうとした声は、ずっと前に枯れてしまっていた。

 壊れてしまえばいいと思った。何も考えたくなかった。だけど、感じずにはいられなかった。今までの記憶が全て脳の中で甦り、反芻され、焼き付けられていく。この惨状と引き換えに胸に刻まれた歪な印とともに、決して忘れ去らせないようにさせるために。もし俺が壊れようがそうでなかろうが、一生この記憶が背中について回るのだろう。

「ぁ……ぁあっ……がっ……」

 異常なまでに腫れあがった喉から血が出て、苦々しい鉄の味が口中に広がる。きつく歯ぎしりをして、俺は声にならない声で叫んだ。叫んで、叫んで、叫んだ。

 忘れないと、誓った。でも、忘れたいと、願った。叶わなくても、よかった。

 でも、ただ、願うしかなかった。薄れゆく意識の中で、俺は最後に空を仰いだ。

 涙で滲んだ瞳に落ちる雨は、俺を洗い流してはくれなかった。




















探していたのは あなたのその優しさで




















神の棲む社




















 山の中で、もくもくと煙を上げる建物がひとつ。それが、俺の家だ。

「ふあぁ…さて、今日もいっちょやりますか」

 目を覚ました俺は朝日の射す台所へ寝ぼけ眼で向かい、棚から昨日仕込んでおいた生地を取り出す。毛が混じらないように手袋をはめ、空気を食って膨らんだ生地を練り直した。

 海に面した、大きく広がる森に囲まれた港町。辺境にある町だから、戦事に巻き込まれることもほとんどない。市場には活気があって、石畳の通りはいつも人でいっぱい。朝捕ってきた大きな魚を捌いたり、まだみずみずしい香草の匂いで満たされた店があったり。そんなのどかな町の外れ―この町と内陸の都市を繋ぐ細い道沿いに、俺はちょこんと店を開いている。
 丁度町が見下ろせる場所にあり、旅の途中に一息ついていく人々を相手にするのが俺の主な仕事だ。森で採ってきた薬草を調合した薬や簡単な退魔の札とかを店先に並べて、それで生計を立てている。

「よし。窯も、ちゃんと暖まったみたいだな」

 でも、一番売れ行きが好調なのは俺が焼くパンだ。俺は毎日一種類のパンを焼いて、それを朝食にする。余ったものを棚の端に置いておいたのが始まりだったのだが…なぜか、うちで一番の品物になってしまった。嬉しいには嬉しいのだが…道具屋が本業の俺としては、少し複雑な気分である。

 窯に入れたクロワッサンが食欲をそそるバターの匂いを漂わせ、丁度良く焼けたことを知らせる。熱された金属のトレイごとパンを取り出すと、湯気とともにこんがり焼けたクロワッサンが目に入った。

 店に出す分はそのまま籠へ入れ、残った二つのクロワッサンにはナイフで横から切れ目を入れる。焼けるのを待っている間に準備しておいた塩漬け肉と少し苦い香草の葉を挟んで、取っ手付きの別の籠へと入れた。これは、ここでは食べない。  とっておきの、場所があるのだ。

 店を兼ねる木造の家の横にある細い細い道を、俺はさっきの籠を持って進む。昔は手入れの行き届いた道だったようだが、今は辛うじて石の埋まった道の跡が見えるくらいだ。ここに店を造った時にこの道を見つけ、以来毎日この道を通っている。目指すところは、この道の先だ。

 長い草の生い茂る階段を上り切ると、開けた空間に建っている社が視界に入った。さっきまでは青々と草が生い茂っていたのに、この敷地には雑草一つ生えていない。目には見えない大きな力がはたらいているような、重厚な空気を感じる。
 こぢんまりとした社は少し古びた色をしていて、でも完全な形で残っている。障子の張られた戸はぴたりと閉め切られており、歪み一つない。中に誰かがまだ住んでいても不思議ではないくらいだ。こんなに立派な社なのだから、よっぽど高名な神様が祭られていたのだろう。ずっと前に雑貨屋の爺さんに話を聞いた時も、確かそんな事を言っていた気がする。
 正面にある障子張りの戸の前に置いてある空の皿を片付け、籠から新しい皿を置く。その上にクロワッサンのサンドイッチをひとつ置いて、俺は焦げ茶色の木でできている床に腰を下ろした。
俺はここで朝食をとる傍ら、毎日作ったパンをここに置いておく習慣ができた。誰にも来てもらえない神様というのもかわいそうだったし、なんだかこの社に愛着が湧いたというのも理由のうちだ。愛着と言ってしまっては、神様に怒られる気がしないでもないが。

「今日も一日、清々しく過ごせますように。…いただきます」

 もう一つのクロワッサンを取り出し、大きい口を開けてかぶりつく。澄み切った朝の空気の中で食べる朝食は格別で、俺は一度思い切り伸びをした。初夏の心地よい風が、俺の頬を撫でてゆく。

 かたん。かたんっ。

 クロワッサンを食べ終わった頃、俺の後ろで音がした。衣を擦りながら歩いてくる足音のような、静かな音。とてもかすかな音だったが、俺の長い耳はその音をはっきり捉えた。

「ま、まさか…神様じゃない、よな?」

 かたん、がたん。足音は次第に大きくなり、俺のすぐそば―戸の前でぴたりと止まった。唾を飲み込んで戸を見つめていると、かたん、と戸が音をたてた。
 ひっ、と叫び声を上げかけた自分の口を、慌てて右手で塞いだ。軽そうな扉はわずかな音を立てて、少しずつ開いていく。 戸は十数センチ開いたところで、ぴたりと止まった。そこから現れたのは―

緑色の鱗を纏う、細い腕だった。

 動くことができなかった。自分の目の前で何が起きているのかが全く理解できず、俺の頭の中が真っ白になってゆく。これは一体誰の腕で、何のためにこの社の中にいて、何をしているのか。めまぐるしく俺の中で疑問が駆け巡り、積み重なっていった。
 それはそのまま下の方へ腕を伸ばすと、俺の持ってきたクロワッサンを掴んだ。崩れないようにそっとそれを持ち上げると、ゆっくり戸の中へ腕を引っ込めようとする。

――なんで、俺の置いたクロワッサンをこいつは取っているんだ?

 ここで、俺は一つの結論に達した。俺が毎日置いていっているパンは、全部コイツに食われているんだ。来る時必ず前の日に置いたパンが無くなっていたのも、それで説明がつく。腕の太さからして、コイツはまだ子供だろう。家がないのか保護者がいないのか、この社に住み着いたのだろうか。
 なんてことを考えているうちに、ソイツの腕はほとんど戸の内側に収まりかけていた。俺はさっきの恐怖心が嘘のように消えていって、代わりに静かな怒りが心を満たしていた。確かに捧げる目的でパンを置いているが、それはコイツの為じゃなくてここの神様のためだ。ここは一発説教でもしてやろうと思い、俺は近い側の戸に手を掛けて一気に開いた。

 社の中は簡素な造りになっていて、奥の方に祭壇のようなものが見える他には目立った物は見当たらなかった。屋根はとても太い木材で組まれていて、十分な頑丈さが伺える。
 一瞬社の中を見渡した後に視線を下に向けると、そこにはさっき見たのと同じ深緑の鱗の腕を持ち、簡素な紫の着物を纏った竜人の子供が、クロワッサンを頬張ろうとしている所だった。

「ヌシだったのか、狼の仔よ。このワシに、毎日旨い朝飯を持ってきていたのは」
「お前っ、それはここの神様に供えてる大切なだな…」
「知っておる。―ワシが、ヌシの言う『カミサマ』だからな!」

 ソイツはにっと笑顔を浮かべると、大きく口を開けてクロワッサンを噛みちぎった。






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