「……隆星。隆星!」
「は、はいッ!?」
少し落ち着きのある低い声が聞こえ、俺ははっと振り返る。厨房との間にある対面カウンターの向こうで、焦げ茶色の髭を一つに束ねた獅子人が困ったように溜息をついていた。
「どうしたんだ。今日、ずっとその調子じゃないか」
「…すみません、篤さん」
注文されたハヤシライスを手に待ったまま、篤さんは困ったように笑う。俺にその皿を渡すと、カウンター越しに俺の肩を叩いた。
「しっかりしろよ。深星に笑われちまうぞ」
深星というのは、俺の親父の名前だ。今は厨房の奥の方でオーダーされた料理を調理している、はず。この篤さんは、親父と昔からの友達だ。小さなころからよくうちにも遊びに来ていたから、俺もよく知っている。
篤さんはこういうふうに優しく声をかけてくれるのだが、親父と喫茶店で会話をしたことはほとんどない。あるとすれば、それはほとんど俺を怒るときだ。普段でも十分小難しいのに、この厨房では親父はほとんど鬼に近い態度になる。それだけ仕事に誇りを持っているのだか何だか知らないが、俺からすればただの癇癪持ちにしか見えない。それでいて、作る料理はみんなうまいもんだから余計頭に来るのだが。
「ハヤシライス、お待たせしました」
「ん。ご苦労さま」
ハヤシライスと付け合わせのサラダ、それにスープをお盆に載せて、注文した猫人のもとに運ぶ。この店に来る人はほとんどお得意様だから、もうはっきりと顔を覚えてしまっていた。この人は、斜め向かいの雑貨屋さんの店長だ。
「隆星くん、ちょっと」
「あ、はい。何ですか、武洋さん」
「唯、ちゃんとやってるか?皿割ったりとかしてないか?」
唯、というのは、この武洋さんの妹で、ここで春からバイトを始めた子だ。俺の一つ下で、同じ大学の一年生である。年の離れた妹ともあってか、武洋さんは毎日うちに来て唯の様子を観察している。若干、心配し過ぎな節もあるが。
「なんかあったら、遠慮なく言ってくれよ。最近彼氏と別れたらしくてな…むしゃくしゃしてるんだ、あいつ」
「誰が別れたってのよ?だ・れ・が!」
「いッ!?」
俺の手から銀色のお盆が消え、武洋さんの頭にクリーンヒットした。お盆はいい音をたてていたから、結構痛かっただろう。
「ちょっとケンカしただけだってば。もう、お兄ちゃんったら…」
俺の横にいきなり現れた唯は、腕を組んで兄を睨んでいた。かなり華奢な体だが、スタイルはそれなりに良い。お菓子を作るのが上手で、店に置いてある洋菓子のいくつかは唯が考えたものも混じっている。残りは、篤さんが考えたものだ。
「まあまあ、唯。一応お客さんなんだから、殴ったらダメだろ」
「あ、ごめんなさい…一応、お客さんですもんね」
「一応じゃなくても客だろ!ったた、まったくもう…」
「お店だから謝ってるだけだからね。外で言ったらひっぱたくから」
「勘弁してくれよ、唯ぃ…」
武洋さんはうなだれると、言い返すのを諦めたのかハヤシライスを食べ始める。一口ほおばると、満足したようにうなずいていた。
「んー、やっぱりいつ食べても美味いなぁ」
「当たり前でしょ。店長の料理はいつだって美味しいんだから」
「隆星くんも、早く手伝えるようになるといいな」
「あ、はい…」
そうなんだ。俺は、早く料理を作るのを手伝いたいだけなんだ。親父の味を継ぐために、一緒に厨房に立ちたいだけなのに。
親父は、どうしてあんなに頑なに俺を突っぱねるのだろう。
「まあた深星と喧嘩したのか。いつもながら面倒な親子だなぁ!」
がはは、と豪快な笑い声を上げ、風月の父・海さんは缶ビールを一気に飲み干した。うちの親同士ももともと幼馴染だったらしく、たまに一緒に飲みに行くのを見かける。日塚家は家族全員空手で段位を取っており、海さんは風月より一回り大きな体をしている。グレーの寝巻の上からでも、張りつめた筋肉が一目で分かるほどだ。
「オヤジみてぇに単細胞でできてねぇからな。ま、そのおかげでうちは平和だけど」
「なんだと、風月。俺が何でできてるって?」
「いふぁいいふぁい、やめろおやふぃっ」
海さんは親父とは違って、ものすごく単純明快な人だ。怒るところは思い切り怒るし、楽しいときは思い切り笑う。たいてい気難しい顔をしている親父とは大違いだ。
視線を戻すと、海さんは風月の頬をつねりながら言い寄っているところだった。その様子を微笑みながら見つめ、俺は麦茶に口をつける。そしてつい我が家の親子関係と比べてしまって、ため息を漏らしてしまった。
「親父、なんとかなんねぇかなぁ」
「お前ん家の問題だろ。自分で何とかしろっての」
「だ、だってよ…」
「だっても何もねぇって。隆星はそりゃ厨房で働きたいんだろうけどよ、そのために何かしたことあったか?料理人の息子なら、料理で示したらどうなんだよ」
「料理……」
あまり考えたこともなかった。親父の料理は親父に教えてもらうのが全てで、ヒヨっ子の俺が勝手に親父の味に踏み込むなんてことは許されないことだと思っていた。
「…そうか、料理か」
「なんだよ、急に笑いやがって。気色悪ぃなぁ…」
急に表情を緩ませた俺を見て、風月はわざとらしく身を引いて露骨に嫌そうな顔をした。でも俺はそんな事が気にならないほど、新鮮な気持ちで満たされていた。
「台所、貸してくれ」
「お…お前、今からやんのかよ?」
「頼むよ。な、いいだろ?」
「台所くらい貸してやれ。冷蔵庫にあるもん、好きなだけ使っていいぞ」
「あ…ありがとう、海さん!」
嬉々とした気分で、俺は日塚家の台所に足を向ける。心配そうに俺を見つめる風月と、その背中をばしばし叩く海さんの姿が視界の端にちらりと見えた。
「ったく。一度決めたら止まんねぇな、あいつは」
「おう。ここまで親子が揃って似てると、からかい甲斐もあるってもんだ」
にやりと笑うオヤジの顔をうんざりした顔で見た後、ご機嫌そうに台所に立つ隆星に視線を戻した。
「隆星のオヤジさん、相当頑固そうだしな。確かに似てる」
「そのくせたまにガキみてぇにはしゃぎやがる。扱いが難しいが…見てて飽きねぇな」
ふたつめのビール缶に口を付けたオヤジは、感慨深げに隆星を見つめていた。
「ま、これで深星をからかう理由がまたひとつ増えるってもんだ」
「呑気だなぁ。親父に似なくて本当にに良かったぜ」
「あぁ?十分似てるだろうがよ」
どこが、と言って振り向いたオレの顔の目の前に、ちょうどオヤジのにたりと笑う顔があった。
「ああいう奴にどうしてもお節介を焼きたくなる。違うか?」
「…へいへい。前言撤回しますよ」
親子はどこまでも親子か、と思いながら、オレは少しぬるくなった麦茶の残りを飲み干した。
「隆星、お前何作るんだ?」
決まってるだろ、と少し高めの大きな声が台所から聞こえてくる。
「ハヤシライスだよ。うちの看板メニューだ」