cross,lovers,lost,world.
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魔王城はもうすぐそこにまで迫っていた。遠景ですら禍々しかった岩塊はこうして間近に見ると胸を明確な重量をもって押し潰してくる。
「大丈夫?」
俺の異変に気付いたのか、ファシャルは心配そうな顔をして聞いてくる。
「心配するな。お前こそ、こういう緊張には弱いだろう?」
「え、それは、そうなんだけど……うん……」
ファシャルは言い淀んだ後、俺の手をきゅっと掴んだ。
「あのね、その……あなたがいるから、大丈夫、なの」
「そうか」
俺は何気ない風を装ってはいたが、ファシャルの言葉は胸に来るものがあった。ただ、柔らかな手のひらを、きゅっと握って確かめる。その柔らかさが、響く。
「ちょっとお二人さーん。見せつけないでほしいんですけどー。あたし一人身なんですけどー。寂しいんですけどー」
「えっ、あっ、いやっ、クォリナさんすいませんっ!」
ファシャルは慌てて頭をさげ、クォリナはローブをはためかせてケタケタと笑う。いつもどおりのやり取りだ。俺はファシャルの金色の髪をかき混ぜ、クォリナの紫色の唇がまた何か喋る前にねめつけてやった。
「クォリナ。ファシャルは俺の女なんだから、文句は俺を通してもらおうか」
「あらお熱い。その熱をもうちょっと下げてくれると嬉しいんだけど」
「それは無理な相談だな。なあファシャル」
「え、えっと、あ、はい!」
「はいって答えてどうすんのよ、馬鹿ねぇ」
クォリナが笑い、俺も吊られて苦笑する。一人ファシャルだけが会話についてこれずに、頬を膨らませていた。
この国は今、魔王の脅威に晒されている。奴が出現してからというもの、辺境の一部でしか見られなかった魔物どもは人間の村々を占拠するまでにその勢力を増長させている。その魔力。その統率力。その存在を許しておけば人間が生きていられなくなるのはもはや明確だった。戦に国は荒れ、多くの人間が様々な想いを胸に抱き戦火に身を投じている。その中で最強との誉れを勝ち取り、勇者の称号を賜ったのが俺たちだ。俺が聖剣で、ファシャルが聖賢、クォリナは聖言。俺たちは揺るぎない実力とチームワークで人間様に歯向かう魔物どもを蹴散らし、遂に今日、諸悪の根源である魔王と戦うこととなったのだ。
「しかし、今日まで長かったわよねーほんと」
「そう……だな。長かった」
クォリナの言葉には過去の臭いがこびりついている。今でこそ勇者様なんて呼ばれているが、昔の俺は山では山賊として隊商を襲い、街では詐欺師として人を騙し、糊口を凌いでいた。クォリナはもっと上で、禁術クラスの人体実験をやったとかなんとかで指名手配されていたような極悪魔術師だ。なぜ、どう考えても世のため人のためにならないような二人が人類の英雄にまで登りつめたのか。奇跡の原因は今も俺の手をぎゅっと握ってくれている。
ファシャル。いつも必死な女だ。どう考えてもろくでもない俺たちに真摯に向き合い、語りかけ、願った。共に戦ってくれるよう懇願し、一緒に歩いてほしいと手を差し伸べた。その純粋さに俺たちは惹かれ、救われ、乗せられて、こうなった。この女に出会わなかったら俺はけちな小悪党を続けていたか、野垂れ死んでいたか、いずれにしてもろくな最後は迎えなかっただろう。
魔王城の門は開かれていた。
「罠かな」
「今更罠もへったくれもないわよ」
クォリナは投げやりな調子でうっそりと笑う。口ではそんなことを言っていても、裏では魔術で念入りに調査しているのがこの女の怖くて頼もしいところだ。
「よし、じゃあ突入の前に作戦を確認するぞ。俺は突っ込む。クォリナは魔術攻撃。ファシャルは俺を中心に防護。質問は?」
「最後まで適当よね、あたしたちって」
「それで失敗したことがないんだから、いいんだよ」
「そうだよね。ここまでこれたみんなだから、大丈夫だよ」
ファシャルはうんうんと頷き、クォリナもにやりと頷いて中を指さす。本当に何もなかったらしい。入って来い、負ける気はない、ということか。
俺は剣を抜き、ファシャルは白い杖を握りしめ、クォリナはするりと指に呪力を秘めた指輪を嵌めていく。全員の準備が整ったところで、俺はわざと声を震わせた。
「ああ、それとだ。魔王を倒したら何をするか、各自発表すること。命令な」
「何よそれ」
まっさきにクォリナが噴き出したので、俺はサラを譲った。俺はもちろんトリをやるつもりだ。
「どうぞどうぞ。その御高説をもって俺たちを啓蒙してくれ」
「……いちいち厭味ったらしいわね、あんたは。いいわ、言ってあげる」
フフンと鼻で笑い、クォリナは謳うようにすらすらと喋り始めた。
「国王に言って塔を建ててもらうの。村人じゃまずいから、死刑囚やらなんやらを送ってもらって、そいつらで楽しい楽しい実験をするわ。あんたたちが想像もつかないような、死んだ方がマシなほど楽しいのを、ね」
「そんなに楽しいことを知ってるんですか? クォリナさんってやっぱり物知りですね!」
「……そうね、あんたには必要ないくらい楽しいことよ」
吐かれた毒はファシャルによって見事に浄化されてしまった。さすがに予想外だったのか、クォリナは苦笑して首を振っている。
「ファシャル、お前は?」
「え? え、えーっと……えーっと……」
「ほら、具体的なのでいいのよ。毎日ご飯が食べられる生活がしたいとか、いっそのこと若くていい男をたくさん侍らせたいとか」
「ねーよ。それは俺が許さん」
「言うと思った」
「あ、えっと、あの、言っていいですか?」
考えが纏まったらしいファシャルは、なぜか俺の腕をぎゅっと掴んで離さない。肩を抱いて抱き寄せてやると、頬を真っ赤にして喋り出した。
「えっと、私は、世の中が平和になって……救貧院とか、もうちょっとお金をくださいって、国王さまにお願いして、それと、それと……だ、だんなさまが、ほしい、です」
始めは比較的元気がよかったのに、最後の方は小声でほとんど聞き取れなかった。それでも内容はだいたいわかってしまう。自分に向けられたものなのだから、わからないほうがおかしい。そういうものだ。赤くなりかけた頬を擦ってごまかすとクォリナのニヤニヤ笑いはますます深くなった。
「俺は金も欲しい。権力も欲しい。とはいえ俺は勇者だし、よほど下手を打たない限りこれらのことはなんとかなるだろう。それにどちらにしろ、俺にはもっと欲しいものがある。何だかわかるか、ファシャル」
「ええ? えっと、えっと、なんだろう……」
本当に思いつかない様子でファシャルは眉根を寄せて考え込んでいる。俺は彼女の髪をわさわさと撫でてやり、ついでに額を揉んでその皺をほぐしてやった。
「お前だよ、ファシャル。俺はお前を自分のものにしたい。そのためなら、金や地位なんざくそくらえだ。いいな?」
「えっ、えっと、それはつまり、つまり、つまりっ」
「プロポーズってことでいいのよね、勇者サマ?」
空気を読まずに口をはさんでくるクォリナを無視して、俺はファシャルを、その細い肩を掴んで向かい合う。
「ファシャル。俺は、お前を愛している。嘘じゃない。俺がどんな人間か知ってるだろうから、拒んでくれても構わない。ただ、好きなんだ……駄目か?」
質問する前から答えはもうわかっていたようなものだった。ファシャルは俺の胸に飛びこんできて泣きじゃくる。よしよしと俺はその背中を叩いてあやし、クォリナはやれやれと首を振る。死闘の前とは思えない、だからこそ、幸せな時間だった。
魔王城の中は驚くほど静かだった。幹部どころか雑魚兵すら見当たらない。ただ、回廊の両脇にある扉は閉ざされ、確実に設定されたゴールに辿り着くようにされていた。
そして俺たちは辿り着いた。
玉座に在すは、異形。人間の女を毒々しい紫に塗り替えて、鋭い爪を生やし、醜悪に曲がりくねった角を生やし、淫猥な尻尾を生やし。仕上げに蝙蝠の翼を背中に植えつけたような、そんな存在。魔王、魔のモノを統べる王としての貫録があった。その気迫に、ファシャルは震え、クォリナは深く息を吐き、そして俺は剣を収める。
視線が触れた瞬間、俺は僕になり、僕は納得していた。
重なり、二人が、尽きる、世界が。
「諸行無常、是生滅法」
「生滅滅已、寂滅為楽」
隣の人間たちから飛んでくる怪訝な視線をかわし、僕はできるだけにっこりと微笑んでみる。対する君は不愉快そうに翼を震わせただけだった。
「この合言葉、変えましょうよ」
「どうしてだい? この言葉があれば随分と救われると思うんだけどな」
「私は寂滅するつもりもないし、あなたへの執着を滅するつもりもないの」
「その言葉、嬉しいよ」
「よく言うわ」
君は品よく玉座に腰かけ、つんとそっぽを向いている。来い、ということらしい。そういう我儘で支配的であろうとするところが実に君らしく、かわいらしい。笑いをこらえながら玉座へ上がろうとしたところで、人間の女に阻まれた。
「ちょっと、どういうこと? なんであんた魔王と楽しそうに話してるわけ?」
「え、いや、ああ……」
「はっきりしなさいよ! あんた人間を裏切る気!」
「いや、まあ、そういうつもりはないんだけど、結局的にそうなってしまうというか、なんというか……そういうことじゃないんだよ」
「じゃあどういうことなのよ!」
顔を真っ赤にして怒鳴る女を見て、そういえば僕はこの世界ではそういう役回りだったのだと思いだした。隣にいた少女の方はじっと目に涙を溜めて僕を見ている。彼らのことは嫌っているわけではないし、どちらかというと好きなほうではあったが、だからといって君と僕を阻まれると、疎ましい。果たして、どう説明すれば彼らは理解できるのだろうか。これは裏切りなどというそんな優しい事柄ではなく、もっと単純で暴力的な、どうしようもないことなのだ。
「そんな人間ども殺しなさいよ。邪魔だわ」
頬杖をついてそっぽを向いたまま、君はさらりと言う。一切の不純物を含まない殺意に人間たちがひっと小さな悲鳴を漏らしたのが分かった。
「僕にも情ってものがあってだね、彼らとは今回の役回りでつきあいがあったし、できれば生かしておきたいんだ。いいかな?」
君は唇を尖らせて僕を睨んだが、仕方ないといった様子で腕を一振りする。一瞬にして中空から鎖が出現し、人間たちに絡みつく。僕の言動に動揺していた彼らはひとたまりもなく拘束されてしまった。彼らは蜘蛛の獲物のように弱々しく足掻いていたが、やがてぐったりと四肢を重力に任せた。多少の罪悪感に似たものを感じながら僕は玉座に登り、その肌に触れる。君は大変お冠な様子で、僕の方を見てもくれない。差し出されたその手はつっけんどんな冷たさだ。
「魔物ってやっぱり、体が冷たいんだね」
「他の人間にかまけて私を優先してくれないあなたの方がよっぽど冷たいわ」
「悪かったよ。ごめん」
小さな手を温めるようにさすっていると、君の体から力が抜けていくのが目に見えて分かった。そうやって指先の感覚だけに集中していると、この世界での自分の役回りなんてどうでもいいことだという理解が沁みこんでくる。結局は全て消えてしまうのだ。
それでも、意識の外へ閉めだすことはできなかった。階下で少女は俯いて啜り泣き、女は小声でぶつぶつと何か詠唱している。僕がそちらを気にしていることに気付いたのか、君はついと石造りの椅子を立ち、両手を差し出した。
「抱いて」
淡白で、簡潔。実に君らしい要求だ。僕は君の要求通り翼のついた背中に手を伸ばし、優しく、逃さないように抱き締める。君も僕の背に手を回し、満足げにほぅと溜息を吐いた。
「あなたが勇者なんて、似合わないわ」
「御心配なく。その前は山賊と詐欺師を兼業していたよ」
「チンピラね」
「そうとも言うかもしれない。それなら似合ってるかい?」
「ちょっと、ね」
機嫌が直ったのか、君はクスクスと笑ってくれた。人間とは異なる尖った耳を食むと、君はくすぐったそうに身をよじる。その反応が楽しくて何度も繰り返し噛んでいると、優しく横っ面を叩かれた。
「キスして」
「仰せのままに」
君の品の良い顎を捕まえて、動けなくした。僕はわざとじらすように頬を撫でて君の反応を待ってみる。
「意地悪」
黒い尻尾が飛んできた。予想していなかったのもあるが、魔の器官は鞭のようにしなる上に尖っていて意外と痛い。ごめんごめんと謝って、僕は君の唇に狙いを定めて顔を近づけた。
「いや! だめ! やめてえぇ!」
それを、絶叫がつんざいた。
見れば先程鎖に囚われて啜り泣いていた少女が凄まじい勢いで暴れている。弱々しいと思っていたのに、あれほどの活力があるとは知らなかった。もがき、叫び、泣く。このまま放っておいたら死にそうなくらいの暴れ方だった。
「いやよいや! だめ! あなたは私の旦那様になってくれるって言ったじゃない! そんな女だめなの! 人間じゃないのにあなたを取っちゃだめなの! いや! 絶対だめえぇ!」
「ファシャル……今、なんとかするから!」
ぶつぶつと何事か呟いていた女が詠唱を完成させたのか、小さく呻いて呪文を僕に放つ。渦巻く球体は僕の胸に直撃し、肉体に一切の損壊を与えることなく貫通してどこかに消えていった。君はつまらなそうに鼻を鳴らし、また玉座に座ってそっぽを向いてしまう。
「さあ、目を覚ましなさい馬鹿野郎! そいつは最高クラスの禁呪、精神に作用してありとあらゆるまやかしをブチ壊すわよ! あたしのとっておきを使ってあげたんだから、とっとと目を覚まして、その横にいる化け物を片付けなさい!」
「そんなことを言われても、困るな」
「ねえ! 元に戻ってよ! 私のこと愛してるって言ったでしょ! お嫁さんにしてくれるって、言ったでしょ!」
「それは、そうなんだけどね」
呪文を食らったところで君は相変わらず美しいし、二人の女にもそれほど大きな感情を抱いているわけではない。世界の変わったところといえば、床が微弱な振動を始めたことくらいか。
「殺して」
そんな混乱しだした場に対して、君が下した決断はひどく簡潔だった。
「やらなくちゃ、だめかな」
「その女に愛してるって言ったの?」
「言ったよ」
「じゃあ、殺して」
「仰せのままに、女王様」
どうやら君の決意は揺るぎないもののようだった。仕方なく僕は剣を抜いて玉座を降り、囚われの少女の元へ行く。鎖から解放された少女は手を胸元で組み合わせ、祈るように僕に向かい合う。
「ねえ……嘘でしょ……クォリナの魔法で、元に戻ったんでしょ……ねえ、そうだって言ってよ……」
少女の瞳は絶望に満ち満ちて、僕をひたと見つめている。女は横で唇を噛みしめたまま、こちらを睨んでいる。剣を握る手が重い。
ふと背中に君の視線を感じて、僕は嬉しくなった。
「そうだよ」
「よかっ」
少女が微笑んだ瞬間、目の横から剣を振りぬき、眼球を基準にして頭を水平に分割する。更にその勢いのまま頭頂から直角に斬り下ろし、全身を両断する。最後に念の為、真っ二つになった心臓を突き刺した。少女は微笑みを最後まで崩さないまま、床に血と臓物をぶちまける。死んだ。
「ファシャルゥゥゥゥ!」
女が絶叫し、唇を噛み切って血を撒き散らす。獣のような咆哮は間違いなく僕に向けられているのだろう。びりびりと鼓膜を傷つけるそれは聞いていると辛いような気がしてくる。いつの間にか横に来ていた君が僕の手から剣をそっと奪った。
「あなたのそういう優しさ、嫌いだわ。偽善者っぽくて」
「そうかな。できるだけ一瞬で、確実に、安らかな心のままで……と思ったんだけど」
「それが悪趣味だっていうのよ」
君は剣を放り捨て、僕の首に手を回した。冷たい皮膚の感触で僕は自分が上気していたことに気づく。
「あんた、あんた、どうしてこんなことを、どうして、殺してやるから! 絶対に殺してやる!」
「それは無理な相談だよ。どちらにしろ、僕ももうすぐ死ぬんだ」
そう首を振っても狂乱した女には通じていそうにない。僕は君の翼を撫でながら、できるだけわかりやすい言葉を探して説明を試みた。辛い思いをさせた彼女にせめてもの侘びとして。
「僕とこの人はずっと前から愛し合っているんだ。出会ったらそれで尽きてしまうんだけど、それでも、僕はこの人を愛しているし、この人も僕を愛している。この女の子のことは残念だと思うけど、でもそれだけなんだ。もうこれでこの世界は終わりなんだよ」
「何言ってるか、ぜんっぜんわかんない……!」
「だろうね」
僕は剣を拾い上げ、女の胸元に深々と差し込む。抵抗がないまま、女の柔らかな肉は僕を受け入れて離さなかった。
「ごめんね。さようなら」
女はしばらく口をぱくぱくと動かして血を吐いていたが、やがて今度こそ本当に、その体を重力に預けた。今度はおそらく、魂も。
「どうして、殺したの?」
君の声は震えている。僕はその手を取り、指を含み、口の中でその形状を楽しんだ。
「君が偽善は嫌いだと言うから、露悪的に振る舞ってみたのさ。邪魔だったんだよ」
「……最低」
君はわりかし本気でその言葉を吐いているようだ。僕は不意に悲しくなって、先程のように優しく抱きしめた。
「僕は君を愛しているよ。君だって、僕を愛している。だからああ言ったんだろう? 殺せ、と」
「……ええ」
世界が振動と共に光の粒子へと還元されていく中、僕は君の顔をそっと確かめた。こうやって血化粧をされてもなお君は美しい。後悔に押し潰される瞳も、今にも叫んでしまいそうな唇も、何もかも。
「僕は君の為ならなんだってしよう。してみせよう。僕は君を愛している。君の願いのためなら、なんだってしてみせるさ」
「……うん……」
君はゆっくりと瞼を閉じた。涙が一粒、零れ落ちていく。透明だった雫は床の血だまりにまぎれて汚れてしまったようだった。僕は残念に思いながら、最後に君を抱きしめる。嫉妬深く、愛しい君を。
そして、僕らは、キスをした。
事故の報が来たのは真夜中だった。あのクソ野郎とか人類の敵だとか悪態をつきながら、僕は研究所の廊下を走った。
僕が知る限り、これまでに三十二回、ミシュラ教授は大規模な実験事故を引き起こしている。まだ来て数か月にしかならない僕が知っているだけでそれだけあるのだ。数年前からいる所員たちなど、世界の危機をもう四百回は見てきたらしい。ロングレンジ電子レンジで大陸まるごと一つをチンしかけたり、何やらカルティックなコンピュータで不可解なコードを実行し、月を引き寄せて地球に落下させかけたり。ここ、フェミシュラ研究所に数年も努めればテレビのヒーローなんか目じゃないのだ。
ミシュラ教授は人類の天敵と言ってもなんらおかしくないマッドサイエンティストだが、絶対に捕まらない。奴はあらゆる方面において絶対的な能力を発揮する、いわゆる天才という奴だからだ。もっとも、人類の発展より人類の安全を優先して教授を殺しておくべきだというのが研究所にいる人間の総意だ。この研究所に最高の機材と人員が絶え間なく投入されているからまだなんとかなっているものの、そうでなかったら確実にこの世界は滅んでいる。
こうして事故の報が来たと言うことは、また世界が滅亡の危機に瀕していると言うことだ。最初はパニックになっていたそれも、今ではもう慣れてしまったのだから恐ろしい。僕はうんざりした気分でミシュラ教授の研究室のドアを開けた。
「教授、今度はなんですか?」
僕の声にコンソールに向かってキーを叩いていた人影が振り返る。昔のくだらないホラー映画からそのまま絞り出されてきたような、いかにも胡散臭い外見。これが人類最高の頭脳にして人類の敵なのだから笑えない。あまりにもわかりやすすぎて、ナンセンスだ。
「やあ来たね。実は、最近コピー不能な部分、つまり魂を有したAIを創っていたんだがね」
「AIの反乱ですか?」
「いや、その合間にちょっと世界の基礎構造を調べる実験をしていたんだがね、事故が起こったようなんだ」
「はぁ」
「まあ、あれを見てくれ」
教授が指さしたディスプレイには荒野の中心にふわふわと浮かぶ光球が映し出されていた。それだけならまあ、妥協できるというか、そこ一帯を簡易上位空間断層に突っ込んでしまえば済みそうな感じだ。僕が理解していないのを感じ取ったのか、教授はきっと目を怒らせた。
「あれはまずい。今までいろいろやばいことをしてきたが、これは私でもやばいと思うくらいやばい。ちょっと失敗した」
「教授……?」
月に一度人類を滅ぼしかけている人間が言う言葉とは思えなかった。すぐに僕は機器をチェックし、その光球の正体を探る。プラズマには似ているが、この光球は全く動かないし、そもそも何の影響も周囲に与えていない。ただそこにあるだけだ。
「すいません、どういうことなんですか?」
「私はね、世界は素粒子などというものよりもっと小さな構成物、もっと別の要因が絡まってできているものだと考えていたのだよ。そこで詳しい過程は省くが、とにかくそれを圧縮し、現出させてみたわけだ。あの荒野に、な」
「はぁ」
「今でこそ肉眼では確認できんが、どういう理屈なのかあれは加速度的に膨張を続けている。そしてあれに触れたものは例外なく最小単位まで分解される。存在していた記録が存在できるかどうかすらわからん最小単位だ。このままでは、あれはいずれ全てを分解してしまう!」
「そうですか」
僕の反応が鈍いのに気がついたのか、教授はあろうことか僕のすねを思いきり蹴った。
「いいか、緊急事態だぞ! このままでは地球、いやこの宇宙、いや世界は滅ぶ! というわけで、やるぞ!」
「何をですか」
「それが思いつかんから君を呼んだのだ。凡百の視点で私に解決法を示してくれ、頼む」
「……」
正直、どうしようもなかった。天才がわからないのだ。まさしく凡百の僕に一体何ができるというのか。棒立ちになっていると、教授からラップトップを渡された。
「これは?」
「AIの外部出力用端末だ。魂を持ったAIの完成形だ、彼女と会話してなんとか解決法を見つけ出せ」
「作りかけでしょう? 学習できてんですか、これ」
「いいからやれ!」
教授が絶叫した。これは凄い、相当追い詰められている。僕は仕方なくラップトップのキーを叩き、魂なんちゃらとやらと接触を図ることにした。
起動コードで起こしてやると、真っ暗な画面に突然結晶が現れる。それらが砕け、集まり、また一つになったその刹那、僕はどうしようもない眩暈に襲われた。
重なり、二人が、尽きる、世界が。
「……これは予想外だったな」
『私もよ。肉体がないなんてつまらないわ』
ラップトップから君の声が響いてくる。
「僕はこれだけで十分さ。君は美しいよ」
『あなた、いつも同じことばっかり言ってるわ』
彼女との怠惰な会話を楽しみながら、僕は奔走する男の背中を見ていた。行き過ぎた好奇心により我が身どころか世界そのものを壊してしまった男。世界が尽きる様は何度も見てきたが、こうして明確な原因があるのは初めてだった。
『……ねえ』
君は少し甘えたような、怯えたような、掠れた声を合成する。僕が頷くと、君は僕が考えもしなかったようなことを提案してきた。
『頑張って、みない?』
「何をだい?」
『この世界で、終わらせることを。輪廻に終止符を打つことを。私とあなたが、一緒にいられることを』
「君は肉体がないけど、それでもいいのかい?」
『……』
君が少し迷ったのが画面の数値で分かったが、すぐに隠蔽されてしまった。
『いいわ。ねえ、一緒に頑張ってくれない?』
僕は苦笑して、ラップトップを表彰状のように掲げる。君が怯えているのがはっきりと分かった。
「僕は君の言うことならなんでも聞くよ。なんでもやってみせる。愛ゆえに、ね」
僕はディスプレイに唇を寄せる。君は少し混乱したようだが、かわいらしい唇のアイコンを表示させてそれに答えてくれた。
そして僕らはキスをした。
調査と彼女のシュミレーションの結果、その球体は言わば「リセットスイッチ」であることが判明した。そこから世界を分解し、おそらくは再構築している。まるで僕らそのもののようだった。教授は僕たちに構っていられないのか、ずっと作業にかかりきりだ。こうしている間にも緊急招集されたスタッフが必死に解決策を探している。
そんな中、遂に唯一と言っていい解決策が確定された。残された時間内で実行可能で、かつもっとも信頼性が持てる作戦。
単純に、最初にできた光球をもう一度作り、それを今ある光球にぶつけてみるという恐ろしくシンプルで不可解な作戦。しかし、頼みの綱はそれしかないのだ。
世界中から必要な資源を強制徴発し、準備は着々と整っていった。君はフル稼働で情報処理に回っていたし、僕は教授と計画の見直しに必死だった。ああでもないこうでもないと発狂しそうなほど頭を悩ませながら先へ先へと進めていく。
本当は知っていた。
この輪廻が、この愛が、お互い苦痛でしかないことを。
何度出会っても、何度出会っても、一瞬にして僕と彼女は引き裂かれてしまう。世界まで尽きてなくなってしまう。僕らが出会う、それをトリガーとして世界は滅ぶ。
自分たちが世界を滅ぼしているという絶対的な罪悪感。それが僕らの特別意識を育み、心を蝕んだ。
ああ、だから僕はできることなら、この輪廻を打ち破りたい。できることなら、彼女と、幸せな生を送りたいと、ただ、それだけで――
『システム最終段階に入ります。数値計算完了。エネルギー充填率正常。ターゲット固定。バランスポジティブ』
「よし、いいぞ!」
教授が狂喜し、僕は息を枯らして叫び続ける。目に映っているは、光る球体。すなわち、僕らの運命。あれさえ、あれさえ打ち破ることができたなら、きっと、僕らは、きっと……愛から、自由に、なれる。
『最終カウントダウン開始。10……9……8……7……』
これで、終わる。きっと、終わる。
『6……5……4……』
この世界で、終わらせる。あんな、君と出会うたびに絶望に身を浸すような命はもう嫌だ。生きたい。生きて、君と、生きたい。
『3……2……1……』
「行け! 行け! いけいけいけいけいけいけぇッ! 僕は生きたいんだ! 世界も滅びてほしくないんだ! 君に生きていてほしいんだ!」
僕は咆哮した。輪廻の輪の中でずっと押しこめていたもの、その全てを燃やし尽くして、吼えた。僕が傷つけてきた人たち、君が傷つけてきた人たち、その全ての為に吼えた。僕が滅ぼした世界、君が滅ぼした世界、その全てのために吼えた。
そしてなにより、ぼくときみのために、ほえた。
ぼくらが、いきられるために、吼えた。
『……0』
ディスプレイの中で打ち出された光球はゆっくりともう一つの光球に向かっていく。それらは吸い込まれるようにぶつかり合い、お互いを呑み込み、消滅して――巨大化した。
「っあ……」
へたりこむ僕にディスプレイは無情に現実を突きつける。光球は、僕らの運命は、打ち破ることはできなかった。
『……』
「そん……な……」
床にうずくまり、嗚咽を漏らす僕に、君は何も言えない。何も言わない。ただ、一言だけ、そっと、言ってくれた。
『ごめんなさい……』
そして、僕らは、キスをした。
今なら分かる。
教授の計算は完璧だった。その通りにやっていれば、間違いなく、少なくともあの場では、世界は滅びなかっただろう。
彼女が計算に介入したのだ。世界が、滅びるように。
彼女は怖かったのだろう。輪廻が終了したら、僕と二度と出会えなくなるのではないかと。二人の絆が壊れてしまうのではないかと。
僕に彼女を責める気はない。僕は彼女を赦している。嘘くさいが、それでもこれは本当なのだ。
限りない輪廻の中で、何度でも何度でも僕は君に会える。果たして、意思を持った存在にこれ以上の幸福は許されているのだろうか。
こんな――こんな、熱くて、気高くて、激しくて、切なくて、嫉妬深くて、愛しくて、脆くて、淡くて、不確かで、だけど足掻いていて。こんな魂に触れて、どうして愛せずにいられようか?
きっと僕らは、また出会い、世界が尽きて、キスをして。
幸せだ。
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