cross,lovers,lost,world.
「諸行無常、是生滅法」
僕の声は緊張と喜びで少々上ずっていたのかもしれない。扉を蹴り開け、ナイフを構えて突っ込んできた君はなんとも呆れた顔をした。久しぶりとか、やっと会えたねとか、そういうのは、この場に相応しくない感じがする。やっぱり、二人で決めたこれが一番いい。
言い終えた後で、これは間違っているだろうか、合っているだろうか、そもそも君は思いだしているのか。一瞬だけそんな不安に押し潰されそうになったが、煤で黒く彩られた君の唇はすぐに下の句を紡ぎだしてくれた。
「生滅滅已、寂滅為楽」
僕はほっと胸を撫で下ろしたが、君は憮然としてそっぽを向いてしまった。そんな君の横顔を見ているだけでも楽しいし、満たされるが、正面から見てほしいとは思う。そんなことを言うのは野暮だから、僕はなるべく自然に話しかけてみた。
「……久しぶり、と言えばいいのかな。驚いたよ」
「いつものことじゃない。どちらかというと、私の方が驚く比率は大きいと思うわ」
「そうかな?」
「そうよ。見てみなさいよ、この惨状を」
君は構えたナイフでついと外を指し示した。壁面に使われた強化ガラスの向こうでは今日も工場の煙突がぬるりと噴煙を伸ばし、その行先には鉄の飛行機が飛び交っている。この部屋、それら全てを統括している総督府から伺い知ることはできないが、その下では飢えた人々が汚濁の中を這いずり回っているのだろう。僕を頂点として権力が彼らを押し潰している。巨大な権力が万物を虐げる社会。戦争中の独裁国家としてはごく標準的な眺めだ。まがりなりにもここを治めていた自分としては見飽きたとか汚いぐらいの感想しか出てこない。
僕の反応が不満だったのか、君はきゅっと眉をしかめた。
「見れば分かると思うけど、私は戦争中毒の憎むべき独裁者を暗殺しに来たレジスタンスね。そしてあなたは民を虐げ、国を戦火の泥沼に導いた独裁者。お互い面倒な役回りを押しつけられたものね」
「うーん……」
よくよく見れば君の服装はまさにテロリストだった。使いこまれたコンバットジャケットに、腰に装着された密造銃と思しき鉄塊。腕には黄色い腕章が巻かれ、君の特別さを強調している。そしてなにより、その手に構えたナイフ。ちくちくと目に痛い光を放つその刃が、今の君の役回りを象徴しているように思える。
「いやあ、君はやっぱり、民衆の希望とか、そういう役回りのときが一番美しいと思うね、僕は」
「あなたには指導者なんて似合わないわ」
「そうだね。全くもってその通りだ」
対する僕は正反対だ。粋を凝らした衣装に身を包み、体には一点の汚れもない。肉体労働、ましてや戦闘など一度も体験したことのない体はなよなよと脆弱だ。ナイフのかわりに瀟洒なワイングラスを構えて一応の格好をつけてみても、僕には君のような鋭い気品はない。ふかふかしたソファに身を沈め、ただ息をしているだけだ。
「君はテロリストの中でどれくらいの地位にいたんだい?」
「レジスタンス、よ。中央地区における反乱の中心人物。聖女とか呼ばれてたんだけど、聞いたことは?」
「ああ……あるよ。確か、どんな時でも冷静で狡賢い奴だとか」
突然にやりと笑った君は勢いをつけ、一気にソファに飛び乗った。突き飛ばされた僕の手から吹き飛んだワイングラスが血のように破片を撒き散らす。君は反応できないでいる僕を組み敷いて、凶刃を首筋に押し当ててきた。あまりにも顔が近いので、柄にもなく赤面してしまう。君の顔は平静でナイフと同じく刃紋一つない。
「こんなふうに情熱的でもあるのよ」
「知ってるさ。忘れるはずがないだろう?」
ここで尻を撫でたらさくりとやられそうだったので、かわりにちょっと首を伸ばして口づけた。唇をふれ合わせるだけの、ささやかな接吻。君はそれに満足していないようで、離した矢先にその唇を押しつけ舌を滑り込ませてきた。戦火に嬲られて硬くなった唇と違いその舌はとろりと柔らかい。しばらく自由にさせていた舌を軽く食んでやると、君は掠れた吐息と共に唾液を送りこんできた。火傷しそうなほど甘やかに舌を絡め、それを嚥下する。君のナイフを持つ手がぶるりと震えた。
「そろそろナイフを外してもらえないかな。うっかり刺さりそうじゃないか」
「……少しくらい、感傷に浸らせてくれたっていいじゃない」
唇を離すのと同じように君はナイフを遠ざけた。僕はその隙に上下を入れ替え、君を押し倒す。君はナイフを握ったまま、じっと僕を見つめている。うなじに指を這わせるとその表情が僅かに揺れた。
「このナイフね」
「うん」
「レジスタンスの皆に貰ったものなの。お前ならできる、必ずあの独裁者を殺してくれって」
「つまり、そのナイフの一突きには人民の想いも乗っている、そういうわけだ」
僕の気障ったらしい科白に君がひくりと眉を動かしたので、僕は素直にごめんと謝った。
「ここに来るまでにもたくさんの犠牲があったわ。兵站係のサチュリは轢かれてばらばらになった。小さなルグダは内臓を引きだされた。副長のカリアはさっき撃ち殺された。皆して死んでいくくせに、私にお願いするのよ。お願いします、俺たちのかわりにどうか必ず奴を殺してくださいって」
「まあ、この世界の僕はそれだけ怨まれるような役回りだったからね」
「私ももちろん殺すつもりだった。殺すつもりだったのに、まさか、相手があなたとはね。なんだか彼らに申し訳なくなっちゃって」
見たところ、君は本気でそう思っているようだった。ぐずぐずと手にした刃物を弄び、この世界での自分を引きずろうとしている。僕は優しくその繊手からナイフを取り上げ、床に放った。怨念か、偶然か、適当に放り投げたはずのナイフは垂直に床に刺さる。君の視線はそれに縫い止められてしまったらしく、僕を見てくれない。
「そんな物を気にしても意味なんてないこと、君も分かってるはずだろう? どうせもう、この世界のことに意味なんてないんだから。世界は尽きるんだ」
「わかってるわ。ただ……」
惑う君の瞳は揺れている。僕はその眼差し無理に捻じ曲げるようなことはせず、優しく耳元で囁いた。
「いいんだよ。忘れてしまえばいい。たとえ君が彼らの想いを受け取っていたとしても、それはもう消えてしまうんだ。いなくなってしまうものに罪悪感を抱いたところで、どうしようもないんだよ」
「そうね。そうなのよね……」
まだ悔やんでいる君に構わずコンバットジャケットに手をかけた。戦闘用に作られた服は僕が知っている衣服と違ってえらく複雑にできている。僕が手間取っている間に君は僕の服をぶちぶちと引きちぎる。そんな風に八つ当たりする君がかわいらしくて、僕はその額に口づけを落とす。こんなに愛らしい存在が存在している、なんて素晴らしいことだろう。それだけでこの世界には十分な価値がある。 たとえ、もう尽きてしまうとしても。
ベッドまで運ぼうかとも思ったが、我慢が効かなかった。簡素な下着を取り去り、露わになった肌に指を這わせる。たったそれだけのことで僕らの吐息は掠れ、熱を持つ。息を荒げ、喰らいつくようにお互いの体をまさぐる。獣の交感のように、皮膚を擦りつけ、少しでも多く相手を感じ取ろうとする。
床が震えだしていた。体感できるかできないかの微弱な波は次第にその幅を大きくしていく。やがて立っているどころか意識を保つことすら難しい大きさになるであろうそれにも、僕らは動じない。慣れている。世界が弾け飛ぶことなど、もうなんとも思えない。
「やっやぁっ!」
乱暴に君の体を開き、押し入る。細く締まった体が悲鳴をあげて跳ねるのが嬉しくて、ごつごつぐちゃぐちゃと何度も突きまわす。君はぼろぼろと涙を零しながら、それでも僕を受け入れる。世界の波と僕らの波が同調し、それが最高潮に高まったところで、君は僕をじっと見た。潤んだ瞳にはナイフの光はない。僕だけだ。
そして、僕らは、キスをした。
僕は緊張している。
照明も司会者のジャックのスマイルも眩しくてたまらない。テレビ局のセットいっぱいに詰め込まれた観客はみんなして今更になって頬に散っているそばかすが急に気になりだした。許されるなら今すぐトイレに行って擦り落としてきたいくらいだ。
不意にみんなに向けられていたジャックのスマイルがこちらに照射された。
「大丈夫かい?」
「だだだだいじょうぶです」
思い切り噛んでしまった。たちまち会場からどっと笑いが湧いて僕を押し流そうとする。
どんどん頭に血が寄ってきて目眩までしてきた。このままでは失神してしまうかもしれない。
僕の限界に気がついてくれたんだろう、ジャックは司会者らしく会場をなだめ、僕の手を取った。
「さて会場のみなさん、そしてテレビの前のみなさん。彼こそが弱冠一二歳にしてジュニアチャンピオンに登りつめた少年です! どうぞ、盛大な拍手をお願いします!」
この場の主役はジャックだ。どっと押し寄せる歓声を耳にして、僕はそれを痛感した。僕はしょせん話題としてここにいるのであって、そうでなければ、こんな冴えないガキなんかこの場にいることなど絶対に許されない。いたたまれないまま、この場で唯一落ち着ける盤に目を落とした。見慣れた駒とダイスはただシンプルにそこにある。僕はただ、いつものようにやって、勝てばいいんだ。そう自分に言い聞かせて、手をぎゅっと握る。
僕は緊張している。
この五ヶ月は、僕にとって現実ではなかった。もし実際にこれは夢だから忘れなさいと言われたとしても、はいそうですかと素直に投げ出しただろう。それくらい、これは現実味のないことだった。
最初はほんの軽い遊びだった。ミドルスクールの友達に誘われて、興味本位で少し触って。数回プレイしただけで、気がついたら経験者のはずの友達を軽々とねじふせられるようになっていた。
チャトランガ。
教科書で解説されているような時代から続いてきたボードゲーム。世界中で広くプレイされているそれは、頭脳と教養のスポーツなのだと言う。残念ながら僕の頭脳はクラスの中でもかなり下の方だという自負があるし、古典の引用なんかできた試しがない。運動なんてもってのほかだ。
ただ僕は、盤上でダイスの目をBGMにして織りなされる赤と黄の、黒と緑の、典雅な演舞が美しいと、そう思った。たったそれだけなのだ。
どうやら僕はチャトランガにおいてかなり強いらしかった。学校で一番強いと言われていた担任の先生も、地区で一番強いと言われていたおじいさんも、あっさりと僕の前に王を差し出した。それはもっと規模の大きな大会でも同じで、僕一人だけがなんだか釈然としないまま、いつのまにかジュニアチャンピオンなんて大層な肩書きをもらってしまった。僕は本当に、本当に努力をしてもおらず、ただただ駒とダイスと戯れていただけなのに。
新聞は「チャトランガに愛された少年」「天与の才」とか書くし、同級生は冷やかしたり奇異の目で見てくるわで僕は恥ずかしいことこのうえなかった。ただ、母さんが喜んでくれたのは嬉しかった。それだけだ。
そんなある日、僕の元にテレビ局が話を持ってきた。生放送での対局、相手はなんと僕に興味を持ったらしい元世界チャンピオン。僕は受けた。
テレビに出るのも恥ずかしかったし、みんなの前でみっともない様をさらしそうで怖かった。でも、それよりなにより、世界の頂点であった人の操る駒はどんな動きをするんだろうと、そう思ってしまったのだ。一度思ってしまった以上あらがうすべもはなかった。灯火に惹きこまれる蛾のように、僕はここに来てしまった。
僕は緊張している。
ジャックが僕のことを喋っているみたいだけど、それもほとんど頭の中に入ってこなかった。口が勝手に動いて適当にハイと言って終わりだ。彼は苦笑してステージの裏、僕が一番気になっている場所を指さした。アーチを模した穴に悪趣味な赤のカーテンがかかっている。いくら僕でも、その向こうに誰がいるかは言われずとも分かっていた。
「彼の心はもう盤上にあるようですね。では、その対戦相手にご登場願いましょう。みなさま、拍手をお願いいたします。この美貌にして明晰な頭脳で見事前年度世界タイトルを勝ち取った……」
カーテンが勢いよく取り払われた。そこから現れたのは、そこにいたのは。
重なり、二人が、尽きる、世界が。
「諸行無常、是生滅法」
「生滅滅已、寂滅為楽。あなた、若すぎだわ」
「君はいくつでも美しいよ」
君は美しかった。腰まで伸ばした黒髪を無造作に黒い紐で束ね、荒れるままに任せている。服も質素だが全体としてシックに纏まっている。部分部分は地味だが、どこか茂みから獲物を狙う黒豹のような、残酷味のある美しさがあった。
僕らの異変を察したのか、さっきまで喋りまくっていた男が曖昧な形に口を開いたまま笑みをこちらに向けている。君はそんなもの放っておけと言いたそうだったので、そうすることにした。
「しかし、困ったね。どうしようか」
「そうね。ここを出て行くにはちょっと苦しいかしら」
「君の基準だと僕は若すぎるかな」
「残念ながら、ね。どうする?」
僕はしばし考えて、ステージに目をやった。僕が今回の役回りで熱中していたボードゲームが人待ち顔でそこにある。
「では、ゲームを楽しもうか」
僕が言うと君は呆れた顔をした。だが、君は必ずつきあってくれることを僕は知っている。
「ええっと、あー、君たちは……」
「僕と彼女がゲームをする。そういう手はずだったろう? だったら、そうしようじゃないか」
僕の変化に男は明らかに戸惑っていた。君は気の毒な彼を押し退けて席についた。僕も彼に曖昧な笑みを返し、君の対面に座る。
「えー、そ、それでは、ゲームを開始しましょう! 世紀の対決、どうなるでしょうか!」
男が叫んでも白々しく会場は沈黙していた。誰もが混乱し僕らに説明を求めている。ふと思いつき、僕はカメラに向かって宣言してみた。
「もう、世界は、尽きます」
「はっ……?」
男はますます戸惑った様子でおたおたと歩き回る。僕はこっそりと笑って君に視線を戻した。憮然とした表情もまた、いとおしい。
「バカね。そんなこと言ったって誰もわからないわ」
「いいじゃないか。一度言ってみたかったんだよ」
君は顔をしかめて、それからちょっとだけ笑った。
そしてゲームは始まった。
君の細い指からダイスがこぼれる。それに連動して駒が動く。僕も同じくダイスを投げ、駒を動かす。
「しかし、君がこういうボードゲームが得意とは珍しいな。性格的にこういうものは嫌いそうだと思っていたんだけど」
「そうかしら? まあ、確かにあなたは得意そうよね。こうやって相手の裏をかくのは」
そう言いながら君の駒はするりと僕の急所近くに踏み込んでくる。僕は素早くそれを止め、次の活路を思索する。
「ねえ」
「うん」
「こんな感じなのかしらね」
「なにがだい」
「私たちを動かしている何かよ」
「僕らを出会うようにしている何かかい?」
「そして世界を尽きさせている何か。いつから決まっていたのかしら。私が初めてこのゲームに触った日? もっと強くなろうと決心した日? 大会で優勝した日? 去年負けた日? ここに来ようと決めた日?」
「それら全てが何かの一手一手で、駒である僕たちが出会うことによってゲームは終了すると、そう言いたいんだね」
「そうよ」
かつん、と僕は君の駒を奪い、君はもっと多く僕の駒を奪う。ダイスを弄び、僕らは着々とゲームを進めていった。
「僕はそういう考え方は嫌いだな。それだと、僕の君への想いも彼らのものということになる。それは、嫌だろう?」
「嫌だからと言って、認めないではいられないでしょう。チェック」
「おや、しまった」
確かに君の駒が僕の王に手をかけていた。僕は数瞬考えて、最も君の苦手そうな一手を選んだ。
「では、こうしよう。チェック」
「そう来ると思ったわ。はい、チェック」
再び僕を追いつめて君は得意げに笑う。本当に嬉しそうで、愛らしい。美を崩すのは実に残念だったが、僕らには時間がなかった。君の笑顔を網膜に焼きつけながら、駒を予定通りの位置に動かす。
「実は僕もそう来ると思っていたんだ。はい、チェックメイト」
「え……あ! ずるいわ! ずるい!」
「ずるくないさ。ひっかかったのは君だ」
君は顔を真っ赤にして盤を睨んでいたが、諦めてぽいとダイスを投げた。そっぽを向いてしまうあたり、かなりご機嫌ななめだ。
「君は拗ねてもかわいいな。かわいくないことなんてないんだろう?」
「それはあなたの主観だわ。なによ意地悪、どうせ自分の方が強いことぐらいわかってたんでしょ? もうちょっと手加減してくれたっていいじゃない」
「悪かったよ、悪かった。どうしたら許してくれる?」
「知らない。そんなこと、自分で考えなさいよ」
もう、地面が震えだしていた。他の人間たちは怯えて逃げまどっており、落ち着いて椅子に座っているのは僕と君だけになっている。世界がもう尽きようとしているのだ。
君は頬を赤くしてそっぽを向いている。僕は魂を揺さぶるような振動の中をどうにかこうにか君のところまで辿りつき、その頬に手を添えた。
「仕方ないな。じゃあ、僕は君に、大事なことを言おう。それで許してくれるかい?」
「……何よ」
君の瞳には険も残っているが、しっとりと潤んでもいる。僕はその形のよい耳に口づけ、囁いた。
「僕は君を愛しているよ。他の要因なんて関係ないんだ。たとえ僕らが何者かによって操作されていたとしても、君と僕がただのゲームの駒でしかないとしても、僕は君を愛している。心の底から、魂の輪郭によって、愛している。それだけは絶対だ。絶対に変わることのない、愛だ。どうかな?」
「……」
君の頬はますます赤くなっている。僕はその頬を優しく撫で、反応を促した。
「どうかな」
「……いいわ。今回は、それで許してあげる」
それだけ言って、君は目を閉じる。世界の振動は激しくなり、もう限界であろうところまで来ている。僕は君の髪をくしけずり、美の名残を惜しむ。
そして、僕らは、キスをした。
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