アニメ2011年度上半期総括

「放浪息子」(2011/01-03)

 土居がウザい。
 土居の存在を思い出すと、このアニメを観終わったことに後悔を覚えるほどだ。
 いくらルックスがそれなりに整ってて、中の人(吉野裕行)が好みだとしても許せん。

 女装ショタ(主人公) … 圏外、中の人は1997年生まれのリアルショタ
 メガネショタ(主人公の親友) … メガネがニガテ
 土居(主人公をイジメてた) … 許せん
 岡(土居の友人) … おそらくこの作品中のショタ中ずばぬけて好きなキャラだと思うんだけど、登場回数が少なかったので顔すらうろ覚え。
 正統派ショタである後ろ2人によっちんとむっしん(調べたら「むつみ」って読むんですね。田村睦心)という正統派ショタ声優を充てたことに悪意すら感じる。イジメの加害者、っていう要素さえなければ、きっと私は2人とも大好きになれたはずなのにな。

 いわゆる男性向けショタの話をしますとですね。
 かつて女装は、ショタというカテゴリ内の細分化カテゴリであり、「やんちゃ」「メガネ」「褐色」などと並んでいました。例としてショタコミックシリーズ「少年愛の美学」を挙げますと、第1巻(2003)の特集内容が「女装少年」であり、第2巻では「やんちゃ少年」を掲げていたことに端的に表されています。とはいえ、ショタのシリーズ物を出版するにあたり、売り上げに大きく影響する最初の巻の特集に「女装」をもってきたことには大きな意味があったのだろうし(なぜ7巻のコンセプト「悪戯っ子」あるいは12巻の「弟」はトップを飾らなかったのかを考えると興味深い)、さらに15巻(2005)では「女装少年~下着編~」とさらなる細分化に焦点を当てています。これは、女装がショタのサブカテゴリという枠を外れはじめた、ひとつの象徴だと考えています。
 ここ近年(10年くらい)、「女装」は、ショタの中での特権的地位を与えられ、需要と供給がともに増えているようで、市場での比率を増した結果、相対的に女装でないショタの絶対数が減ったような、そんな気がしています(とくにアンソロジーコミック)。
 この「女装」少年の台頭と平行し、「男の娘」という概念が近年立ち現れ、一種のブームを形作ってきました。いわゆるノンケ、異性愛者の男性が、「かわいければ男でもいい」という口実で、相手の性(端的に言えば、ペニスとアヌス)に触れようとする。このパラダイムシフトによって、これまでの萌え市場の中で交わることのなかった、男性ユーザにとっての異性愛と同性愛の垣根が、打ち破られたといえるのではないでしょうか。

 なお、この作品の主人公は、「女装」少年であり、さらに「MTF」という問題を兼ね備えています。原作漫画(2002)の時代を考えると、「男の娘」の文脈との接点はあまりありません。

「魔法少女まどか☆マギカ」(2011/01-04)

 メモをまとめる気力がない。内容の重複がありますが、別途座談会1座談会2を設けました。

【#10まで】
・万人受けするアニメではない
 とくにグロ表現(劇団イヌカレー)、梶浦音楽

・反面、マニアのツボをついている
 自身で衣装をデザインする魔法少女、繰り返しネタ(ハルヒ→劇場版うる星)
 
・魔法少女の脱構築と再定義
 脱構築 
  マスコットの役割、魔法以外の手段(ほむらの銃火器)、「少女であり魔法少女」からの乖離(人間ではない魔法少女)
 再定義
  キュゥべえ「大人になる女を少女というのなら、いずれ魔女になる彼らを魔法少女と呼ぼう」
  
・魔法少女が魔女になる、というルートは「おジャ魔女どれみ」への敵対かと思いきや、
 (魔女になることが望ましかった前者に対し(ここは異論があるところだと思う、ありがちだがドッカ~ン(2002)#40「どれみと魔女をやめた魔女」)、マギカはそうあろうとしない。)
 まったく別ルートで同じ形態になる(めざす)というひっくり返し。

【最終回閲覧後】
・延期の理由は避難所シーン?

・「魔法少女としての素質は、背負い込んだ因果の量で決まる」(#11、QB)
 → ほむらが同じ時間軸を繰り返すことで、
   まどかに因果律が蓄積し、莫大な魔力となった
   
・絶望のなくなった世界に希望はあるのか?
 → 望みがマイナスからプラスになるのが希望で、
   プラスからマイナスになるのが絶望。
   絶望がなくなる、とはつまり、望みがなくなった世界なんじゃないのか?

・人類:家畜の関係と、インキュベーター:人類の関係の相似

・「まどかってアニメのキャラクター?」というメタ構造

・「すべての魔女を、生まれるまえに消し去りたい。
  すべての宇宙、過去と未来のすべての魔女を、この手で。」(#12、まどか)

・「過去と未来のすべての魔女」とは、平行世界を含むため、
 たとえばほむらのようにタイムループして、
 魔女が初めて生み出されたタイミングから現在までの時間軸をやりなおす、
 といった方法ではこの願いが達成されない。
 そのため、「因果律そのものに対する反逆」(キュゥべえ)となる必要があり、
 世界のルールを書き替え、
 さらにまどかは人間よりも高次の存在、概念そのものにならねばならなかった。
 →「この手で」って言わなかったらまどかちゃん人間のままでいられたのでは。
  「~すべての魔女を、キュゥべえが消す!」とかにしとけばよかったのに。
  「~すべての魔女を、上条くんが消す!」とか。

・現在過去未来において、魔女が生まれなくなる世界を望むことは、
 「因果律そのものに対する反逆」(QB)なのか?
 → 平行世界がもうひとつできる、とは別の話らしい。
   過去を変えるのと、なかったことにする、は別次元、らしい。
   → 「まじゅう」(魔獣?)が生まれた。

・まさかのキュゥべえたんよいこになるエンド

・マクロレベルでは、人類とインキュベーターの関係が、
 魔法少女モノとしては、魔法少女とマスコットの関係が、
 作品論としては、ほむらたちとキュゥべえの関係が良好になった。

・まどかの望んだ世界は、普通の魔法少女がいるテンプレートの世界
 → オタクたちが「まどか」に望んだハッピーエンドの体現
   (もっとも、さやかちゃんは消え失せている。マミ・杏子は復活しているが。)
   さやかが消えるのは、上条と仁美がくっつくという事実がある以上必然
   (甘酸っぱい思い出(#11、先生)にはなりえない)

・魔法少女になるための契約に付随する、
 願いを叶えているのは誰か? そのメカニズムは?
 → どんな願いでも叶うと公言していたインキュベーターが、まどかに対し
   「どんな途方もない望みだろうと、叶えられるだろう」(#12)と注釈しているのは、
   普通の女の子が魔法少女になった場合、叶わない願いがありうるということなのか?

「ぷにぷに☆ぽえみぃ」(OVA、2001)

 オチ以外ほぼ大爆笑。
 これは、アニメをある程度知っているヒトが楽しむアニメだと思いました。知らないヒトに薦めても「?」が返ってくるだけですね。

「MAR-メルヘヴン-」(2005)

 途中で挫けそうになりながらも全102話閲覧完了。作画の粗さが目に付くのとストーリーが単調なため、あまり魅力を感じていない作品を、82話以降観続ける行為は、アルヴィス風に言うならば“賭け”でありまして、最終話のEDにいちおうギロムが(ピノキオンとコウガとセットで)出てたので、勝ったということにしておきます。
 82話は作画安定、動画・演出も及第点超え。81話はあまり作画がよろしくないですが、その反動で次話がすばらしい出来だと感じる、という皮肉な効果を生み出しています。
 
 原作の続編「MARΩ」(星野倖一郎)、読みました。とくに印象に残った箇所はありませんでした。あえて挙げれば、ヒロインが途中で変わったところ。

 家庭用ゲーム4作品中唯一、公式サイトのキャラクターにギロムが載っている、PS2『メルヘヴン ARM FIGHT DREAM』(2005)を購入予定です。

「バカとテストと召喚獣 ~祭~」(OVA、2011)

 あまり面白くなかった。

「バカとテストと召喚獣にっ!」(2011)

 1期ともども、私が理想とした学園生活を送ってくれているのでうれしい。学力=魔法力、低頭身マスコット兼ペルソナ、異性愛、同性愛、偏執愛、盗聴・盗撮。並べ立てられたキーコンセプトが、サブカルで鍛えられた感性にズバスバとマッチする。

「日常」(2011)

 タイトル詐欺の“非”日常アニメかと思っていたら、あるあるネタもけっこう多い。
 OP1はヒャダインさんが歌っていなければ今年度暫定No.1曲だった。OP2はヒャダインさんの歌が上手くなっていたのでちょっとびっくりした。


下期予定:いちおうハンタ。