放課後。オカ研へ向かう菱餅と、大修棟へ足を運ぶアーウィン。ちなみにナシゴレンは図書委員の仕事があるため、先に教室を出ていった。いまごろ図書室の受付に座っているだろう。
「アーウィンは数学だっけ、遅くまでなんだよな」
「7限まで」
「講義に出るの?」
「助手。菱餅は」
「オレは研究会の」
ぴちゅーん、どっかーん。数歩先の扉から、それはもう理想的な光と音が発せられた。話半ばで目を見張る菱餅だったが、派手な効果とは裏腹に、黒い煙が廊下に漏れているだけで、窓枠が吹っ飛んだり罅が入ったりはしていない。
「もー、センパイったらまた調合間違えたでしょー」
がらがらと引き戸が開いて、中からサーバル獣人が出てきた。濁った気体を肺から追い出そうと、こほこほと咳込む。
「あ、アーウィン、と、菱餅さん」
「いつもながら」
「ていうか、原因の一存はアーウィンにあるんだぜ」
「?」
首を傾げたのは菱餅である。
「菱餅さぁん、ちょっとアーウィン借りていい? センパイが話をしたいってさ」
借りるも何も、所有物じゃない。とはいえ、所有を主張するような間柄ではあるのかもしれないけど。センパイって誰だ。日頃あまり話さないクラスメイトからの申し出に、怪訝な顔をして、アーウィンに尋ねる。
「えっと、アーウィン? 何の話?」
「菱餅が来てから、もにもにしてないからなのかも」
「ぇ」
話がつながらない。
三角フラスコで沸かしたお湯にティーバッグを入れ、抽出した褐色の液体をビーカーに注ぐ。輪切りレモンが乗ったシャーレにピンセットを添えて供する。この研究会室のティーセットがすべて実験器具なのは、センパイの趣味だ。もちろん日頃の活動で使うものと飲食用とは分けているのだが、初見の客にはほとんど引かれる。常連のアーウィンだからこそ慣れたものだが、新メンバー勧誘のときくらいは普通にしてもらいたい。春巻春雨はいつも思う。
「ストレートで良かったよね」
「ん、ありがとう」
「菱餅さんも、くつろいで……っていうのも無理か。気にしないで飲んでね」
「ぅ、ぅん」
お決まりのセリフを投げかけても、この部屋に来るのが初めての菱餅は、やはり逃げ腰のようだ。こうやってこの研究会はどんどん間口を狭めていくんだよなぁ、と溜息ひとつ。とはいえ、春雨の思惑の半分は当たっているが、菱餅の表情が固い原因のもう半分は「角砂糖を2つ入れるのはマナー違反だろうか」と懸念しているだけだったりする。甘党なのだ。
「で、臆病なセンパイがアーウィンに直接声をかけられないので、さっき通りかかったところを捕まえてきました。こちらはクラスメイトの菱餅さん」
「こ、こんにちは」
「どうも」
菱餅の挨拶が、さっきから薬匙で紅茶を延々とかき混ぜているシマウマ獣人に届いたが、返事は薄暗い。見るからに凹んでいる様子。かちゃかちゃと茶器の音が響く。
「あー、と」
沈黙を破ったのは、春雨である。
「センパイ? あのね、ヒマでもないのにせっかく来てくれたんだから、さっさと話、してくれない?」
「うん……」
「俺が代わりに言おうか? なんでこないだ待ち合わせをすっぽかしたかって」
「そ、それは僕が」
「はい、どうぞ」
4匹分のビーカーから湯気が立ち上る。
「アーウィン君、こないだの発表会のあと、僕のところに来てくれなかったよね、何か用事でもあったのかい」
壁に視線を向けてぼそぼそと話すシマウマセンパイ。英数字ビスケットで化学式を構成していたアーウィンが、話題を振られて答えを紡ぐ。
「家に帰った」
「ほ、ほら、でもいつもはあの時間、この部屋で僕と会ってたじゃないか」
ロッカーの中には、新品の礼服がハンガーに掛かっている。アーウィンのサイズに合わせて特注したものらしい。週に2回、規則的にこの部屋を訪れる灰色の獣との性交渉は、もう長いこと続いていたのだが。
「もうそういうのは止めにするって決めた」
「な!」
驚いたシマウマセンパイが声を挙げ、それからか細い声で応答する。
「僕、何か悪いことしたかな」
「ううん」
否定するアーウィン。なんだか流れがマズい方向に向かっている気がする、と思いながら、菱餅は甘味の足りないビーカーの水溶液を眺めていた。
「菱餅がいるから」
「んんっ!?」
気持ちを落ち着けるためおもむろに口を付けようとした直前、度肝を抜かれた。
「もう菱餅としかもにもにしない」
「あららー」
黙りこくったシマウマの代わりに、春雨が軽々しい茶々を入れる。
「センパイ、運命の相手が見つかるまでのツナギだったってことね。その場凌ぎの体だけ」
お願いだから気分を害するようなことを吹きこまないでほしい、と菱餅は心で念じた。よろしくない事態に巻き込まれているような気がしてならない。目の前のシマウマさんが暴走して喰ってかかってきたり、アーウィンをかっさらって逃げたりするような、そんな狂想に駆られる。ガタイの差を考えると、取っ組み合いでは勝てない。というより、争いゴトはキライだ。ふるふると震え始めた向かいの相手の気配がコワイ。
「いいんだ」
「え?」
思わず疑問符が口をついたのは菱餅である。かたや許容のセリフを零したシマウマセンパイ、傍目にもムリしてるとわかる笑顔で、アーウィンを見つめる。
「アーウィンが特定の誰かを選んだら、周りの僕たちは身を退く。それが約束だった」
視線の先には愛しいギザ耳獣人が表情ひとつ変えずに座っている。熱愛を捧げられている相手が諦めのポーズを決めているというのに、我関せずといった、どこか遠くを見ている瞳。
「いままでありがとう、アーウィン。そして、これからもよろしく。会うくらいならいいだろ?」
まるで前々から仕込んであったかのようにひと文字ひと文字噛みしめて、シマウマセンパイが笑いかけた。
「うん」
素っ気なく答える灰色の獣。ともかくも槍玉に挙げられることがなくてよかったと菱餅は安心する。ところで「僕たち」って複数形なのはなぜ?
「それじゃ、行く」
「オレも、お茶ありがと」
「おー。またいつでもどうぞ」
会話したいと引っぱりこまれた割には簡素に用が済んで、アーウィンは素っ気なく、菱餅が礼を言って後を追い、春雨は手を振っていた。開いて閉まる扉の音。
見れば微動だにしないシマウマセンパイ。
「アーウィンが特定の誰かを選んだら、周りの僕たちは身を退く。それが約束だった」
熱に浮かされたように、さっきのセリフを繰り返す。
「それが、アーウィンを愛するけど飽きられたら諦める、ああああ隊の鉄則っ」
ぐすぐすと泣き始めた。しましまほっぺに伝う涙。「ああああ隊」とはアーウィンのファンクラブのコトで、本人には未公開非公認である。隊員証の裏には「ひとつ。アーウィンを愛すること。ただし飽きられたら諦めること。ふたつ。アーウィンが特定の相手を愛することになったら、潔く身を退くこと」とか書いてあるらしい。1桁の隊員番号が書かれたカードを握りしめ、シマウマセンパイは涙に暮れる。
「センパイ、俺帰るよ?」
「春ちゃん、いっしょにゴハン食べに行こうよぉ……奢るからさぁ」
「やりっ♪」
力尽きたシマウマセンパイの寂しさに付け込んだわけではないが、食事同行の文句を聞き出して、思わぬ収穫。マンガ物理学研究会の爆破実験の続きは、明日に持ち越される模様。