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4月
さんかくい

 異国の風が毛皮にまだ馴染まない。知らぬ花の香りと粉が、鼻先をくすぐった。 
 山を越え海を渡り、やってきた新天地。故郷の兄弟分たちが持たせてくれた御守りを手に、門をくぐる。
 星辰の招き。狼獣人に託された旅路は、まだ東に続いている。

 公開施設なのだろうか、敷地内には案外すんなりと入ることができた。そろそろと壁沿いを歩んでいく。入口で馬獣人に貰った、異様に広いフロアマップを片手に、用心深く現在位置を確認しながら。
 チャイムが鳴る。聞きなれない音にびくり、と震えた。
 「おはようございます」
 そして、また震えた。柔らかい声だ。清音が建物中に届く。放送器具が正常に動いているかどうかの確認らしい。聞きやすい発音なのに、中身はぜんぜん気にならなくて。とにかく響きが心地よくて、白い耳先がふるふると呼応する。
 ぽうっとしていると、またチャイムが鳴った。途切れた余韻を求めて、耳を澄ます。

 いつも2匹で詰める放送室が、今朝は広い。マイクテストを終え、スイッチを切る。
 休み明け初日、放送研は始業式前の学庵内アナウンスを担当する。で、ふだん隣にいる相方は、その直前に「チコクだー!!」と言って駆け込んでくる予定である。去年の夏ころから、次の春にはその「遅刻ごっこ」をかならずするんだと息巻いていた。
 だから、もうしばらくは独りきりだ。
 式にはまだ時間がある。読みかけの文庫本を少し進めようかと、隣の放送準備室に移動すると、見知らぬ狼人にまみえた。目を丸くする。そしてひとまず挨拶した。
 「おはようございます」
 
 同じ声だ。スピーカーを通して聞こえてたのと同じ声だ。直接言われるとよけいに“ぐっ”ときて、シッポの付け根がゾクゾクする。数瞬、残り音を堪能して立ち尽くすも、怪訝な顔をした黒山羊に瞳を覗かれて、赤面する。
 「お、おはようございます」

 返ってきた挨拶。放送研のメンバーではないし、センセでもなさそうだ。となると、新入生か転入生かが、道に迷って潜り込んでしまったのだろう。それもそうだ、この学庵は広いし深いから、初めてだと行き先がわからなくなるのも無理はない。視線を合わせるも、照れているような素振りだ。恥ずかしいのだろうか。
 「ここは放送準備室だけど、迷ったのか? もしよかったらどこでも案内するよ」

 どこでも。と言われて、そばにいたいと思った。こまめになでつけられた黒色の毛皮。頭上から後方に円弧を描く2本のツノ。口に含んでしまいたいと思う独特の匂い。目の前に現れた黒山羊獣人に触れたくて、もっと声を聞きたくて、でも浮かんでくる発話はひとつだけだ。
 「好き、です」

 あんぐりと。
 実際には口を開けはしなかったけど、表現するならそりゃあもう「あんぐり」としか言えないくらい、纏綿繊維は驚いた。春一番、面識のない誰かが放送室にやってきて、告白らしきことをしてきた。こんなシチュエーション、禅裸だったらどんなに喜んだか。しばらく固まっていたが、ひとまず応答が口をついた。前のときも、まずはこう返したっけか。
 「あ、ありがとう」

 感謝された。それが承諾なのか判断できなくて、自分の言わんとしていることが伝わっていないのかと心配になり、言葉を繋ぐ青い狼。
 「ワタクシの故国では、愛情表現の端緒は略奪です。ワタクシはアナタを攫いたいと思った。もっとも、現在では形式ばったもので、先に家同士で話をつけてから儀礼的に芝居を打つだけです。この国の文化に添った表現ができればいいのですが」

 困惑が先だってうまく考えられない。好意を持たれているらしいが、どうにも表現が荒々しい。ここで身柄を拘束されてしまっては、式前の放送ができなくなってしまう。
 「攫われるのは、あの、困る」

 「ああ違います。そんな、攫ったりだなんて。ただ、そういう気持ちってことです。攫いたい“くらい”好き、とこの国ではいいますか。比喩は難しいですね」
 おそらく、留学生なのだろう。いまさら気がついた相手の情報。纏綿は考える。彼は異国の徒であり、出会ったばかりの自分に告白している。自国の文化でこの状態を表す語は、「一目惚れ」だろうか。頬を染めた纏綿に、追い打ちがかかる。
 「好きです。ずっとそばにいたいと、思っています」
 「チコクだー!!」
 廊下側の扉が開き、高峰禅裸の登場だ。纏綿しかいないと思っていたところに、知らない狼獣人がいて、2匹が互いに顔を赤らめて向かい合っている。気を動転させたのは禅裸のほうで。
 「せ、繊維はオレのだからな!」
 口に出た言葉がソレだった。
 「え」
 「そうですか、もうすでに、決めたつがいがいらっしゃる。残念です」
 肩を落とす。飲み込みが速かったのは蒼狼のほうで。
 そこから誤解を解いて、話をつけて。「幼馴染み」であることを強調し、譲らない禅裸。ふむふむと頷き、「つまりそれはつがいではないということですね」とおおいに納得する蒼狼。そして、禅裸の「オレノモノ」宣言を撤回し、蒼狼の告白を真摯に受け止め、「とりあえず、普通のお付き合いから」という結論にまとめる纏綿。出会いの季節、始まりのタイミング。三角関係が彩る学庵生活の幕開けを、新たなチャイムが告げる。

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