新たなる下宿に居を構えて早一ヶ月がたとうとしていた。
入居当初は畳が一面に敷き詰められただけの、それ以外の色彩を欠いた部屋はすっかり主の所有物に埋め尽くされ新たな色彩を放っている。

「ふぁあぁ〜…」

そんな中、気分爽快なんて言葉とは程遠い欠伸をする狼人が一人、布団から上半身を起き上がらせ目を擦っている。

「あ”あ”ぁ…流石に飲みすぎたな………」

そう言うと上半身をぐいと伸ばし布団の中から抜け出した。
何の気無しにあたりを見渡すと壁に架けられた時計の針が目に入る。

『10時30分』

その時刻が何を意味するのか気付くや否や、彼の目は大きく開き大慌てで外行きの服に着替え部屋を飛び出した。

「遅刻だぁぁあああ!!!!!!!!」

こうして漫画のワンシーンのような台詞を吐きながら、青年は大急ぎで駆け出すのであった………



…まぁこの結果が予測できなかったわけではない。
俺がいくら全速力で大学まで走ろうが既に始まった講義に出席する事はできないし、その講義の講師も遅刻を許すような甘い人ではない。
こうして俺は天宝大学のキャンパス内をあてもなく彷徨う事となった。

「はぁ…このままじゃ単位やばいかも……」

俺は深く溜息をつき空いているベンチの一つに腰を下ろす。
ふと顔を上げれば他のベンチでは温かな日差しの中静かに読書をしたり、のんびりと談笑している連中の姿が目に入る。
そんな連中を尻目にぼんやりと今からどうするのか思案を巡らせてみる。

『今日の講義は出席できなかったさっきの講義だけだ、ならば自宅に戻ろうか…。
 しかし戻ったところでやる事がない。
 この間買ったゲームもクリアしたばっかだし、かといって掃除とかするような気分でもないし…。
 しかもこんな日の限ってバイトも入ってないしなぁー…』

そこまで考えたところで全身の気だるさを取り払うためうぅんと背を伸ばした。
ふと思えば日和見荘に引っ越して以来、まともに運動した記憶がない。
一ヶ月も体を動かさなければそりゃ体も鈍るってものだろう。

「そういえば………」

俺は独り言を口にし昨晩の酒宴の席でのひと時に思いを巡らせた。



「ひきゃみぃ〜♪ どぉよ俺のしょーわんひぃとーきん〜♪♪」

右腕部の服を捲くり上げ俺に見せつける榊さん。

「おぉぉ〜ムキムキじゃないれふか〜♪ どうやっひゃらそんな風ににゃるんすかぁあ?」

「うぅ〜ん?俺はねぇ〜現場でいひゅも重いもの運んでぇゆからね〜しょれにジムで鍛へてるんだお〜」

「へぇえ〜俺もジム行ってみよっひゃな〜」



「なんて事を言ってたな…。」
時間もあるし運動不足も解消できる…そう思い立ちベンチから立ち上がると、不要となった教材を放り投げるため一旦我が家へと足を進めるのだった。



日和見荘から歩く事十数分のところに『スポーツジムストレングス』はあった。
どうやらなかなか設備の整ったジムらしく、ビルの一フロアのみのそんじょそこらのジムと違い3階建ての鉄筋コンクリートの建物を丸ごとジムとして使用している。
1階は全面ガラス張りとなっており中ではフィットネスマシンを使用して汗を流している人の姿が窺える。
2階、3階は窓こそあるものの外側から中の様子を窺う事はできない。
ただジムに近づくにつれ小学校のプールで嗅いだ塩素臭が強くなってくることから2、3階のどちらかにプールがあるのだろう。
また最上部には遠目からでもわかるよう「スポーツジムストレングス」と赤地に白文字で描かれたシンプルかつ巨大な看板が設置されていた。

「近くにこんなとこがあるなんて知らなかったな…」

その大きさに驚きながらもゆっくりと自動ドアの中に吸い込まれていった。
中に入るとそこには豪華過ぎず、かと言って簡素過ぎない適度な装飾品の飾られた清潔感溢れるエントランスが広がっていた。
また右手にはガラス張りのジムの様子がよく見える。
受付ではスポーツウェアに身を包んだ女性が愛想の良い笑顔を浮かべて立っていた。

初めてジムなんて場所に来たおれはどうすれば施設が利用できるのか、適度な運動にはどのようなものがよいかなどわかるはずもないので、真っ直ぐ受付に向かった。
彼女に初めてジムを利用する、という旨を伝えると手慣れた様子で会員証を発行し適度な運動には水泳はどうかとアドバイスをくれた。
更に水泳には水着しか必要なくタオルは貸し出していることも教えてくれた。
俺は素直に彼女のアドバイスを聞き入れ、その場で手軽な値段の競泳用水着を購入しタオルを借りて二階にあるというプールに向かった。

二階の更衣室で先程購入したばかりの水着に手早く着替える。
このぴちぴち感を感じるのは中学時代から数えてだから…実に7年ぶりだ。
プールに入る前に消毒をするのも懐かしい。
俺は今はもう過ぎ去った日々に思いを馳せながらプールサイドへ向かった。




「…っぷはぁ!」

肺に残った空気を吐き出しプールサイドに上がると乱れた呼吸を整えるため深呼吸をした。
横目で時計を見ると時刻はすでに6時を回っていた。
いくら久しぶりだからといっても5時間はさすがに泳ぎすぎだ。
途中途中で休憩を入れたがそれでも4時間は泳いでるし。
それだけ泳げば大抵の人間は疲労困憊すると言うものだろう。
その例に違わず疲労をその身に貯めた俺は息が整うまでプールサイドで休憩し、更衣室へと戻るのだった。

濡れた毛皮をタオルで拭きあげドライヤーで乾かした後、手早く着替えを済ませ貸し出されたタオルを返すため階段を下る。
毛皮を乾かすのに思ったより時間がかかってしまい、ガラスを通して見る外はうっすらと闇に覆われていた。
久しぶりの運動で疲労感はあったものの、俺はその疲労感にどこか心地良さを感じていた。

『近場だし設備も整ってるし…しばらくはここに通ってみようかな…』

そんなことを考えながらエントランスに降り立った、その時だった。

「あっれぇ〜氷上じゃん!こんなとこで何やってんのー?」

聞き覚えのある間の抜けた声に反応し振り返るとそこにはいつもの様に着流しに身を包んだ榊さんがいた。
つかジムでも和服着てくるってどんだけずれてんだこの人は…
心の中の突っ込みをよそに榊さんは俺の方に歩み寄ってくる。

「いや〜偶然だねぇ! まさか氷上とここで会うとは思わなかったなぁ〜氷上もここに通ってんの?」

「俺は今日初めてここに来たんですよ。ほら、榊さんこの間飲んだ時にジムに通ってるって言ってたから…」

「あれ?俺そんなこと言ったっけ?」

思わずずっこけそうになる俺。
まったくこの人は…

「どう? ここ結構いいとこでしょ? 施設が整ってるしインストラクターも親切だし! 氷上もここに通いなよ、うん、それがいいって!!!」

俺の事など露知らず喋りまくる榊さん。

「通うかどうかはまだわかりませんけどちょくちょく来てみることにしますよ。とりあえず俺はこのタオル返してきますね。」

「おっけ〜♪ じゃあ俺は先に外に出て待ってるからね〜」

どうやら一緒に帰ろう、と暗にほのめかしている様だ。
まぁ同じアパートだし断る理由は何もないしな…
頭の中でぼんやりとそういったことを考えながら受付の女性に軽く礼をし、来た時と同じように自動ドアをくぐるのだった。

夏が近づいているとはいえ陽が落ちるのはまだ早い。
俺が榊さんと共に日和見荘への帰路に着いた時にはあたりはすっかり闇に包まれていた。

「………でさ、そいつが最後になんて言ったと思う!? 『お前はもう死んでいる』だってよ!」

榊さんは某世紀末覇王伝の某キャラの物まねをし、一人大笑いした。
ジムを出てずっと榊さんは俺にむかって現場仲間の笑い話をしている。
対する俺は榊さんの話にいまいち興味も湧かず、適当に相槌を打っているだけだった。

『どうしてこの人はこんなに馴れ馴れしいんだろう?
 そりゃ何度か酒を酌み交わした仲だけど…裏返せばそれだけの仲でしかないのに。』

俺は榊さんの話など完全にうわの空で初めて会った時に思いを巡らせていた。

『第一印象は…変な人。こんな御時勢に着流し着用とか普通はありえないし。
 でも不思議と嫌いじゃないんだよなぁ…。なんていうか底抜けに明るくて、意外といい人だし…』

「あっ、ほら氷上ぃ〜見て見て!! ここが今俺が入ってる現場だよ〜」

俺の頭上を指さすその顔は、秘密基地を自慢する子供のような笑い顔だった。
示された方向を一瞥し榊さんの顔を見たとき、不意に一つの疑問が俺の頭をよぎった。

『榊さんは俺のことを一体どんな風に思ってるんだろう。』と。

そんな俺には答えを導き出すことのできない疑問が思い浮かんだ刹那。
本当に一瞬の出来事だった。

「氷上っっっっっっ!!!!!」

突然榊さんの顔が険しくなり、俺に覆いかぶさるように抱きついてきた。
何事かと思った次の瞬間、辺りに鈍く大きな衝撃音が響き、白い破片のような物が散乱している。
衝撃音のあまりの大きさにたじろいながらも恐る恐る覆いかぶさったままの榊さんを見上げると、榊さんが頭から血を流して俺にもたれかかってきた。

「へへぇ…ひかみぃ…だい…じょうぶだった…?」

俺に体重を預けながらも榊さんは精一杯笑みを浮かべていた。
あまりに唐突な出来事に訳もわからず茫然としていた俺に榊さんは弱々しい笑みを浮かべながら息も絶え絶えで言った。

「現場をさ…みてみたら……上に積んでたボード…が…落ちて…きてて…氷上が…あぶない…って……」

「どうして俺を庇ったんですか!!! 自分が大怪我するのは目に見えてるじゃないですか!!!」

今までにないくらい感情を昂ぶらせ、俺は榊さんを問い詰める。
その両頬には光る筋が流れていた。

「そん…なの…きまって…るじゃん………俺…氷上の……こと…好きだ…し……」

榊さんのその言葉を聞いた途端、俺の口から堪えようのない嗚咽が漏れる。
周囲に人々のざわめきが集まってきた。
あれだけの轟音がしたんだ、様子を確かめに来ても不思議じゃない。
高まる喧噪の中、今にも意識を失いそうな榊さんに聞こえるよう俺ははっきりと言った。

「そんな事…っ、言われたら……貴方の事嫌えるはずないじゃないですか!!!」

筋肉質な体を支える両手に力が入る。
涙を流し、嗚咽を漏らす俺の姿は榊さんにどんな風に映っていたんだろう…?
ただ、榊さんは俺の顔を見つめ、最後まで人を食ったような笑みを浮かべていた…

榊さんは意識を手放した。




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