雨が嫌いな理由






「雨は、嫌いなんだ」
 しとしとと雨が降っている外を眺めながら、彼はそう呟いた。ゆらりゆらりと揺れる彼の尻尾のリズムに合わせて私は茶を淹れる。
「まず第一に、髭が湿って気持ちが悪い」
「なるほど」
「あんただって髭が湿気るだろ?」
「獅子人だからね、いつものことだよ」
 背を向けているので見えないが、きっと彼は髭をピクピクさせているのだろう。もっとも、彼のそれは雨のせいではなく、ただ単に機嫌がいい証でしかない。
 木造の療養所は私たち以外誰もいないかのように静かだった。何人かの患者と医師や看護士たちはいるはずなのだが、この諦念が染みついた空気のせいか。彼らはいつも沈黙を保ち続ける。
 ここに来る途中で買ってきた饅頭を二つ、茶菓子として皿に置いてから私は彼の方を見た。彼は白い和服に身を包み、寝台の上で窓枠に頬杖を突いてじっと雨に濡れた木々を見つめている。その後姿から何を考えているか推し量ることは、今の私には難しい。
「第二にさ」
 甘い匂いを嗅ぎつけて振り向いた彼の突然の言葉に、私は一瞬わけが分からなかった。
「うるさくて眠れやしない」
「雨が嫌い、って話かい?」
 そうに決まってる、と彼は不服そうな顔をして私から湯飲みと饅頭を受け取った。拗ねてしまったらしい彼に苦笑しつつ、私は部屋に備え付けられている机を引きずってベッドまで持ってきた。自分の分の湯飲みと皿を置くと、彼もそっぽを向いたままそれに習う。私が彼の隣に腰かけると、いつも軽い体重しか支えていないらしい寝台が不満そうにキシリと軋んだ。
「それで?」
「……」
 私が先を促すと、彼はそっぽを向いたまま口を開いた。
「第三に」
「うんうん」
「……やめた。言いたくない」
 拍子抜けした私を尻目に彼は寝台の上に寝転がり目を閉じてしまう。いつの間に掠め取ったのか、その口にはしっかりと饅頭が咥えられていた。
「そんな体勢で食べると喉に詰まるよ」
「別に詰まったっていいさ」
 彼は投げやりに呟いて口をもぐもぐと動かす。今更ながら、仰向けで饅頭を咀嚼しつつ会話する彼の器用さに私は密かに感心した。それでも饅頭で自殺される訳にはいかないので、彼の頭の下に手を入れて無理矢理抱き起こす。彼は少し驚いたようだったが、幸い喉に詰まらせるようなことはなかった。
 彼は私に起こされた勢いを利用して完全に起き上がると湯飲みを手に取り、ふうふうと吹いてからゆっくりと口を近づける。
「……びっくりした。死ぬかと思った」
 猫人らしく猫舌の彼には熱すぎたらしく、一度口をつけた湯飲みを慌てて離しながら彼は文句を言う。
「お茶かい?」
「あんた。なんでいきなりあんなことしたんだよ」
「……仕方ないだろう?あのままじゃ君は窒息して死んでいたかもしれないんだから」
「ふーん……」
何がふーんなのか。彼は湯飲みを乱暴に机の上に置くと、肩を寄せ私に体重を預けてきた。彼の体は軽く、骨は尖っていた。
「……離れなさい」
 私の言葉を無視して、彼は鼻をピスピスと鳴らした。
「体に時限爆弾を捩じ込まれた人間相手に窒息しますよ、なんて。滑稽だ」
 最後の方は吐き捨てるような調子だった。その調子からして、今は何を言っても無駄らしい。折れそうに脆い体を肩に感じながら、私は黙って機嫌が直るのを待つことにした。彼はずっと黙りこくったまま壁を睨みつけている。私が与えたポスターが貼ってあったそこには、もう引きちぎった跡しか残っていない。一緒にそこを見る気にもなれず、私はじっと雨粒が屋根を打つ音に耳を澄ませていた。
「……なあ」
 とても、とても小さな声で彼がぽつりと呟く。雨の音に紛れてしまいそうなそれを聞き取るのは一苦労だったが、私はああ、と返した。
「俺が雨が嫌いな最後の理由、聞きたい?」
「三つめの理由だね?」
「……聞いて欲しい」
珍しく素直な要求に、私はああ、と答えた。彼はまた鼻をピスピスと言わせ、しばらく考えてから話し出す。
「心配しなくちゃいけないから、嫌いなんだよ」
「心配?」
「ここって山の上だろ?」
「ああ、そうだね」
「……あんたはここに車で来るし、山道ってけっこう滑りやすいし、だから、だから……」
 そこで言葉が見つからなくなったのか、彼は再び体を離して寝台に寝転がる。今度は饅頭も咥えていなかったので、私も特に止めはしなかった。
 またなんとなく気詰まりになったので、私の方から促してやる。
「私はまだ、聞いているよ」
「……うるさい。ここまで言ったんだから自分で分かれ」
 彼はごろりと体を回してうつ伏せになり、完全に顔を伏せてしまった。あまりにも仔供じみた彼に思わず苦笑してしまうと、見えていないだろうに雰囲気で分かったのか、彼の細い尻尾がぱしぱしと私の手を叩いた。
「笑うな、ばーかばーか」
「こら、そんな言葉を人に言うもんじゃない」
「……ばーか」
 気恥ずかしいのか、彼は何度も同じ言葉を繰り返す。珍しく素直になってくれた小さな背中を撫でてやると、くったりと脱力して安らいだ様子だった。しばらく無心に彼の背中を撫でていると、私まで穏やかな気持ちになってくる。永遠に降り続くような雨の音を聞きながら、私たちはしばらく同じ世界に浸っていた。




 それを破ったのは私の腕時計だった。小さな、しかし耳障りな電子音が鳴り響き時が来たのを告げる。薄い液晶の中の文字を見ると、確かにもう帰る時間だった。
「帰るんだろ?」
「ああ……」
「……早く帰れよ」
 彼は私の手を払いのけ、さっきまでのことが嘘だったかのようにはっきりした拒絶の意を示す。私もどこか苦いものを感じながら立ち上がり、壁際の鞄を持ち上げる。日頃使い込んだそれは手によく馴染み、日常の感覚を思い出させた。
「じゃあ……」
「……」
押し黙ってしまった彼から離れ、私は病室の扉を開ける。
「道、気をつけろよ」
「……ああ」
 彼はずっと寝台に伏せたままで、今の彼を語るのはそのぐねぐねとくねる尻尾だけだ。彼の最後の言葉に微笑みながら、私はゆっくりと病室のドアを閉めた。








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