果実を孕む




「ねえ」
 私の呼びかけに私とそっくり同じ顔をした人間は振り向いた。
「なんだよ」
 事後特有の気怠い空気が部屋に流れている。ベッドから出るとそれが失せてしまうような気がして、私はそっとシーツを手繰り寄せた。二人分の汗を吸ったシーツはしっとりと重いが、それが手に心地よい。
「もっと寝てましょうよ」
「いい」
 テーブルに腰かけて弟は私の提案を拒絶した。その汗に濡れた前髪を撫でてあげたいな、と思う。残念ながらその思いつきにはこのまどろみを手放すまでの魅力がない。
「どうして?」
「……なんとなく」
 彼の顔つきがその言葉が嘘だと告げている。物心どころか産声をあげる前から見ていた顔なのだ、分からないはずがない。
「どうして嫌か、教えてあげましょうか」
「……いいよ」
「つれないわね」
 彼も私が知っていることを知っている。だからそうやって眼を逸らす。
「コーヒー、淹れてくる」
「今日は紅茶が飲みたい気分」
「嘘だろ」
「あら鋭い。砂糖は一つ、ミルクはなしで」
「ちょっとぬるめ、カップは縁の赤いやつ」
「読心術が使えるとは知らなかったわ」
「簡単だよ。自分の好みを言えばいい」
 彼はそう言い捨ててキッチンに消えた。すぐに水音が聞こえ、コポコポという煮沸音に変わる。しばらく戻ってきてくれなさそうなので、私はまたベッドに身をゆだねることにした。
 弟の悪い癖だ。双子の姉と体を重ねる罪悪感。そんなちっぽけなものに気づいたとたん、冷めてしまう。


 私たちは評判の双子だった。両方とも賢くて、運動もできて、容姿端麗。両親ですら見分けられないほどにそっくりな外見。いつも一緒にいて、自分たちでもお互いを区別していなかった。私と彼は常に同じことを考えて、同じことをして、同じ感情を持って。私たちは一人であり、一つだった。
 そんな私たちだったから、学校で班分けがあったりするとそれは大変だった。二人で一つ。絶対に分割など認めない。じゃんけんだろうがくじだろうが、どんな公平さも私たちを引き離すことなど叶わない。何人もの教師がこの難物に挑み、匙を投げた。
 幸せな在りようが終わったのは私が女になり、彼が男になったとき。
 私と彼は違うものになってしまった。私たちは一緒ではなくなってしまった。
 解決策はすぐに見つかった。いままでのように在るのが駄目なら、別の形で私たちが一緒になればいい。そう言われて私は狂いそうなほど嬉しかった。薄闇が迫る公園の中、私たちは何度もこの誓いを確かめ合ったものだ。大きくなったら私たちは結婚して、ずっと一緒にいるのだと。
 でも。
 弟が私と添い遂げるといった類のことを言う毎に、大人たちは必ず苦笑してこう言ったものだ。
「そんなことできないんだよ、姉弟なんだから」
「そんなことないもん!」
 頼もしく思えた言葉も度重なる諫言を前にいつしか力を失っていく。そんなことないもん。そんなこと、ないもん。そんなこと……
 それがたまらなく悔しくて、悔しくて。私は幼い身ながら、自分たちを陰陽に別った世界を、姉弟だからと婚礼を許さない世界を呪ったものだった。
 思えばこのとき既に種は私の中にあったのだ。


 下腹部にはまだ微かな熱が疼いている。手でその部分を軽く押さえると手のひらに柔らかな律動が伝わってきた。そのリズムに満足して寝返りを打つと、ベッド脇のソファに靴下がひっかかっているのが見えた。視線を伸ばすと到る処にくしゃくしゃになった制服が落ちている。嵐の後といった様相だったが、あながち比喩でもない。互いを貪ろうとする性急な欲望の嵐。毟り取られたスカートが楽しげにドアノブに引っ掛かっている。いつも乱暴に扱っている割には学校で制服に関することで何か言われたことはない。もし制服が喋りだそうものなら小さな高校が蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろう。まさか、あの双子がそんなことを。


 高校に入学して、二人の溝は大きくなった。私は生徒会室で書類を追い回し、彼は校庭でボールを追い回した。私も彼もそれぞれの人間関係を構築し、まともに顔を合わせるのは家ぐらい。それも二言三言、どこか借り物めいたぎこちない会話を交わすだけ。表面上は二人はちょっと互いを意識しすぎるだけの、どこにでもいるような姉弟になっていた。
 私も彼も見目のおかげで異性には困らなかった。よりどりみどり、と言っていい。私が声をかければどんな男も尻尾を振ったし、弟もまた同じことだった。それは姉さんの自惚れだ、と頑として認めようとはしないけれど。
 誰もが羨む状況でありながら、私は男というものにとんと興味が湧かなかった。どこか物足りない。頑張ってつきあってみても、すぐに飽きが来てしまう。あんた女の子が好きなんじゃない、というのは友人の弁だ。忠告通り女の子も試してはみたけれど、男と大して変わりはなかった。弟の浮名を聞くこともあったけれど、それは大抵が曖昧模糊な噂の域を出ない代物だった。茶菓子として提供されるそれらの噂を私は何の感慨もなく咀嚼して呑み下していた。
 興味がないのではなく、聞きたくなかったから。
 種はなくなったのではなく、地中深くに埋まって見えなくなっていただけ。


 コーヒーメーカーの楽しげな歌声に別の音が混ざりだす。またか、と私はキッチンを透かし見た。嘔吐と嗚咽。私と衝動的に体を重ねた後、弟はいつも自分を傷つける。はじめてのときからずっとこうなのだ。いい加減壊れればいいのに、と嘆息して身を起こし、ベッドから出る準備を始めた。この部屋を出るのも面倒なのだが、仕方ない。安寧は渇望に勝らない。


 種が芽吹いたのはとある夏の日。
 その日の私は虫の居所が悪かった。こんな暑い最中、見たことも話したこともない女にどうして私が呼び出されなければいけないのか。それもせっかくの休日に、長い長い石段の上にある神社まで。握り潰した手紙を手に境内に踏み込んだ私はなかなかに険しい顔をしていたに違いない。手紙の差出人はたじろいでいた。品行方正ではないけれど不良と言うほどでもない、どこにでもいるような女子高生。少しばかり人目を引く容姿ではあるが、それだけだ。やかましい蝉の声の中、苛立ちに任せて先手を取った。
「何の御用かしら」
「お願いがあるんだけど」
「初対面の相手に随分と失礼な態度ね」
「……あなたの弟のことで」
「なに、かしら」
 動悸が少し早くなったのが分かる。声が揺れたのは隠せなかった。
「どうにかしてくれないかな」
「何を」
「あなたの弟」
「……」
 どうにかしろ、とはどういうことなのか。私の戸惑いが伝わったのか、彼女はきつい面立ちで私を睨んだ。
「あんた、自分の弟がどんな男か知らないの?」
「知らないわ」
「じゃあ教えてあげる。ほんと、とんでもない男よ」
 かつて自分が弟の彼女であったこと。一方的に別れを切り出されたこと。友人が弟から告白されたこと。その三日後に別れ話を切り出されたこと。同様のことを自分も含め複数の女性相手に何度も繰り返していること。謝りはするものの本人は全く行動を改めないこと。
 それだけのことを彼女は一気呵成に言いきった。よほど力んでいるのか、彼女の頬は赤みを帯びている。私の頬も少し火照っている。突き刺さるような夏の日差しが疎ましい。
「分かった? こういう男なのよ」
「青春してるわね」
「あんた姉でしょ。なんとかしなさいよ」
「そう言われても、ね」
 なかなかどうして、むっつり朴念仁だとばかり思っていた弟は、姉の私より遥かに火遊びがお得意らしい。噛みしめた口元を見せないように鳥居を振り返った。揺れる陽炎の中、褪せた朱色がいやに艶やかだ。
「もしかしてあなた、まだ彼のことが好きなの?」
「……なんですって?」
 あからさまな揶揄に背後の声が剣呑な色を帯びる。顔は見えないが、どんな表情を浮かべているか想像するのは難くない。きっと汗ばんだ手を握りしめ、かわいい顔を不格好な形に歪めているに違いない。気づけば私の手もまたじっとりと汗に濡れている。いい加減この茶番に辟易した私はくるりと体を回転させ、にっこりと、自分でも申し分のない笑みを浮かべてみせた。
「普通、そういうことは直接言うわよね。それなのに私を呼び出したりして。少しでも考えればこんなこと無意味だってすぐわかる。そうよね? 要するに、あなたは彼と直接ぶつかって嫌われるのが怖いのよ。また彼の彼女になれるんじゃないか、なんて考えてるから。本当はお友達が羨ましくて妬ましくてしょうがなかったんでしょう? 私のだったのに、って」
 人間図星を突かれると弱い。私の言葉は狙い通りの成果を上げた。彼女は激昂し、今にも掴みかからんとする姿勢を見せた。もちろんそんな真似はさせないよう、あらかじめ距離は取ってある。歯軋りする彼女を眺めて私は多少の優越感を味わった後、踵を返した。残念ながら青春恋愛ドラマは趣味じゃない。ましてや私が役者になるなんて。少し血が滲んだ唇を舐め、心の中で少し自分を笑ってみせた。
 石段を一歩降りたところで彼女が一言叫んだ。
 私は引き返し、彼女を殴った。
 人間図星を突かれると弱い。無自覚なものだと、特に。
 呆然とする彼女の襟首を掴み、今度は鼻を狙って拳を振るう。首を固定した分きれいに入り、何かが潰れる感触があった。こんなふうに人を殴ったのは初めてだったけれど、意外となんとかなるものだ。そんなことを考えながら、私はもう一度拳を振り上げ、下ろした。


 まとわりつくシーツを落とし、脱ぎ散らかした制服を踏んでキッチンに行く。いつものように弟は胃の内容物を流しにぶちまけていた。芳しいコーヒー豆の匂いに混じって独特の臭気がキッチンに漂う。触れた背中は粘っこい汗に濡れて震えている。吐き続ける彼の体に寄り添い、肩を噛んだ。
「ねえ、やめて」
 私のくぐもった声は彼に聞こえている。それでも吐くのを止めてくれないから、私はもっと強く弟の肉を食んだ。自分と同じ肌に自分の歯を喰い込ませる。歯が皮膚を裂き、自分の血の味が舌を愉しませてくれる。じゅんじゅんと体の奥が疼く。
 ――ああ。しあわせ。
「……やめて、くれ」
 息も絶え絶えといった様子の弟に懇願され、私は仕方なく口を離した。肩にくっきりと残った咬傷を押さえ、弟は私を睨みつける。半ば憎悪の籠った視線が嬉しくて、私は無理矢理唇を奪った。弟の吐瀉物と、唾液と、涙と、鼻水と、血。全てが混然一体となった汁を啜り、私は一種の恍惚状態に身を浸す。この瞬間、私よりふしあわせでない人間などいない。
 陶然とする私を突き飛ばして弟は乱暴に口元を拭った。
「姉さんはおかしいッ!」
「私はおかしくなんかないわ。愛しているのよ」
 まだ熱を帯びた腹を撫で、私はとろけるような笑みを浮かべてみせる。弟はそんな姉を直視できずに顔を背け、また涙を零した。


 日は陰ったというのに蝉は歌い続けている。自らの番いを求める痛切な叫びはもう誰にも届かない。その鼓膜を突き破るような響きを聞くとはなしに聞いていた。境内の真中で膝を抱えて座る私を山の夜気が押し囲む。薄闇の中、鳥居だけが薄く光を放っている。幾度となく人を殴った手は血で穢れ、赤く腫れていた。
どれくらい時間が経ったのだろう。真っ白になった頭にそんな疑問が浮かんだが、すぐに弾けて消えた。もう何もかもがどうでもよかった。
 あの、一言。あの一言が私を目覚めさせてしまった。王子様のキスとしてはあまりにも直線的で残酷な言葉。響きは消えてもその意味だけがいんいんと頭の中で反響している。
「姉さん!」
「……あ」
 ほの白く光を放つ鳥居を走り抜ける彼を認めた一刹那、私の時は静止してしまった。動けない、音も聞こえない空間の中で彼だけが走って私の許へとやって来る。時間が動き出したのは彼の手が私の肩に触れたときだった。
「姉さん……大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
 力なく首を振る私。弟はしゃがみこみ、視線を合わせてくれた。汗でぐっしょりと濡れたシャツが肌に張り付いている。冷たい夜の呼気を通して熱い雄の匂いがする。不意に怖くなって顔を背けた私の手は温かな手に掬われる。
「どうしたのこの手」
 優しい言葉に撫でられて手の腫れが鈍い痛みを訴え始めた。なおも顔を合わせまいとする私の様子にただならぬものを感じたのか、更に焦った様子で言いつのる。
「カナに呼び出されたんだろ? どうした? なんか言えって!」
「……」
 遂に頬を掴まれて、ぐいと正面を向かされてしまった。焦がれた瞳に射られて私は声も出ない。気づけば目から熱いものが零れ落ちていた。
「……姉さん」
 戸惑いに弟の声が揺れる。そんな彼の目を見て、私はゆっくりと口を開く。理性の残滓が鳴らした警鐘は蝉の声にかき消されてしまった。
「言われたの」
「……」
「私、あの娘に言ったの。あなたの彼氏になった友達が妬ましいんじゃないかって」
「……うん」
 まるで幼い子供に戻ったようだった。拙い言葉を選び選び懸命に想いを伝えようとする。
「そしたら、言われたの……私も、そうなんだろうって」
 あの一言。
「あんた、自分の弟のこと好きなんじゃないの!」
 正鵠を射たそれは魔法の言葉。深く深く私の心を脅かして、地中に眠っていた種を抉り出し、致命傷を与える。
 私の告白に弟は信じられないという顔をした。本当に、と口が動く。私は小さく頷き、大きく頷いた。
「じゃあ……姉さん……俺のこと……」
「……うん。そうなの。ずっとそうだったの。でも言えなくて、私、私……」
 それ以上は言葉にならなかった。ただただ赤子のように泣きじゃくる。そんな私に弟は恐る恐る触れ、強く抱いてくれた。
「姉さん、俺も、俺だって……」
 弟もまた言葉にならないようだった。激しい鼓動が私を押し流す。熱くぎらつく瞳が私の肌を貫き、こころを焼く。どちらともなく唇を重ね合わせていた。そのまま逞しい両腕に優しく押し倒される。むきだしの肌に石畳は痺れるほど冷たい。
 あっという間だった。
 私はおんなになり、彼はおとこになった。
 私と彼は一つになった。私たちは一緒になった。それがたまらなく嬉しくて、嬉しくて。私は狂うほど嬉しかった。
 私の中にあった種はやっと芽吹くことを許されたのだ。
 その後、弟は泣いて、吐いた。


 口をゆすいで落ち着きを取り戻したのか、弟は青白い顔で言い返す。
「姉さんが愛してるのは自分だよ。俺じゃない」
「私は私を愛しているわ。つまりあなたを愛しているの」
「俺は……俺は姉さんが何を言ってるのか、さっぱり分からない!」
「分かるはずよ」
 額に張り付いた前髪を払ってやると、その下からひどく傷ついた顔が覗いた。逃がれようとする頭を抑えて額に優しくキスをする。
「あなたは私を愛してくれるでしょ?」
「……うん」
 私と弟とでは今や頭一つ分の身長差がある。広い彼の背中に抱きつき、自分で作った傷口に舌を這わせた。
「なら、いいの」
「……」
 私がそう言うと弟はぶっきらぼうに身を離し、何を言うでもなく風呂場に消えた。溜息をひとかけら口から零して濡れた流しに背を預ける。無機質な金属の感触が腹立たしい。程なくしてシャワーから水が流れる音がしだす。ぼんやりと聞くだけならそれはとても耳に心地よい音だ。

 結局こうなのだ。
 私が愛すれば愛するほど、抱き締めれば抱きしめるほど、弟は傷つき、削がれていく。
 私と同じようには、私が望むようには、彼は私を愛してくれない。弟だから。けれど、彼は彼なりに私を愛してくれている。弟だから。
 それで、いい。
 小さな種は育ち、芽吹き、実を結んだ。私は孕んだ。今も私の子宮で果実が待っている。熟し、新たな種を宿してこの世に産まれ出る瞬間を。双子だという絶対の確信があった。それも男と女。私たちと同じ。彼らは兄と妹にしてあげよう、と思った。

 いつかきっと、私は弟に殺されるだろう。
 いつかきっと、弟は自壊するだろう。
 いつかきっと、私と弟の子供も同じ運命を辿るだろう。
 私たちとは異なる韻を踏んで、同じ旋律を奏でて、種が芽吹き実を結ぶ。そして、また。
 ――せめて、ふしあわせでないように。
 呟いた言葉は慰めにもならなかった。





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