結婚したいし死にたい
病室に林檎を剥く音が響く。右腕以外のほぼ全身を固定されてベッドに寝かされた俺はそれを陰鬱な気持ちで聞いている。この病室はシーツこそ白だが、壁や床はそれぞれ淡いグリーンやピンクで統一されている。白一色だと患者が精神的に参るというので院長が導入したデザインだ。これはウチは大病院なのでこんなこともしますよ、という外への宣伝だと思っていたのだが意外と効果があるのかもしれない。俺の気がじりじりと滅入ってくるからだ。
俺は死にたい。
粛々と林檎を剥く彼女の指先は良家のお嬢様らしく端正に整えられている。料理をする必要などない生活をしてきたはずなのに、包丁さばきがやけに手慣れているのはどうしたことだろう。悪趣味な手品を見せられているような心地で俺はそれに浸る。剥かれた林檎は灰の中から掬いあげられた遺骨のように皿の上で白い果肉を晒している。
彼女は全ての林檎を剥いてしまうと、その一つを自分の口に運んだ。朱の口紅を刷かれた唇に瑞々しい果物が咥えこまれてしゃくりと音を立てて崩れる。咀嚼するとその頬にたらりと一筋、粘液が滴った。
「食べたい?」
蔑むように彼女は笑うと、俺の口にそっと唇を寄せた。問う間もなく林檎と唾液の混合物が押し込まれる。末期の水はぬらりと甘い。生温いものが喉を這っていく感触はどこか懐かしい不快感をもたらしてくれた。
「全治二カ月だそうよ。生きててよかったわね」
彼女はくすりと笑いながら新しい林檎を口に運ぶ。その手つきにこみあげる吐き気を堪えながら、俺はかろうじて動かせる右腕を動かして自分の状態を確かめる。意識すれば体の細部が痛みだすが、全体としては感覚がぼやけているだけでどうということはない。霧の中で自分の遺影を眺めているような心地だ。
「俺……」
長いこと使っていなかったらしい喉から出た声はさっき食べさせられた林檎に似てひどくざらついていた。
「あの後、あなたは一週間ほど意識不明の重体だったの。ま、そこらへんのことは説明しなくても構わないでしょう。それより、私のこと、聞いた?」
「君の……?」
顔に白布を被せられたように意識がはっきりしない。首を振ろうとしてきっちりと固定されていることに気付いた。分からないといった表情を作ってみせると、彼女は口の端を吊りあげてうっそりと笑う。
「脳に異常はないって聞いたけど、その様子だとどうも怪しいみたいね。いいわ、教えてあげる。私の結婚相手が決まったわ。そういうことよ」
結婚。相手。決まる。病院。後継者。将来。
胸の中でそれらの単語がふらふらと飛びまわった後、戒名のように刻みつけられる。
彼女の結婚相手が決まる。病院の後継者が決まる。俺の将来が決まってしまう。
「そうか……そうか」
「そうよ」
彼女は薄く笑うとまた林檎を一切れ、口に運んだ。
楽な人生じゃなかった。
親父はとりあえず殴れるものは殴るという人間だったし、お袋はとりあえず棒があれば咥えこむという人間だった。早いうちからそんな家に見切りをつけていた俺はとりあえず働いて学んだ。
家を出た最後の日だけはなぜか記憶の底にこびりついて落ちない。もう必要とすることもないのだから、特にどうということもないのだが。
よく晴れた闇夜だった。夜気が肌を齧る夜だった。
親父はどこからか拾ってきた酔っ払いを家に連れ込んで殴っていた。財布の中身を検め金を抜き取り殴る。ほとんど毎日、親父はそうやって金を稼いでいた。金が目的ではない。それはあくまでも副産物であって、本来の目的は殴るということそれ一点なのだ。機械的にルーチンワークをこなしている親父を背にして俺は家を出た。
お袋はその日四人目の男と寝ていた。男は何度か顔を見たことがあるような気もするし、ないような気もする。どのみち数が多すぎて覚えきれたものではないのだ。いつだったか、顔も名前も覚えていないがモノの形は覚えていると自慢げに漏らしていた。おおうおおうと獣の唸り声を上げるお袋を背にして俺は家を出た。
ただ一人で夜の砂漠を歩むように歩いた。よく晴れた闇夜だった。夜気が肌を齧る夜だった。
家を出てからは拍子抜けするほど簡単だった。学費を工面するためのバイトも分厚い教科書も、どうということはない。やれば終わるのだからやった。社会に咎められるような行為はできるだけ避けた。将来が欲しい今、そんなものに足を引っ張られるのが嫌だったからだ。
俺は順調に人生をこなして国内最高峰と謳われる医大に入り、生まれたときからその地位が約束されている人間と共に勉学に励んだ。ここまで来てしまえば学問などどうということもない。最後まで外つ国めいていた大学を何事もなく卒業し、医師になり、どうにかこうにか大病院に潜りこんだ。
そこが俺の限界だった。それ以上昇ることができない。やはり出世には家柄というものが重要なようで、俺の体を流れる卑しい血では階段を登ることなど許されようはずもなかった。いつだったろうか、寒い、夜だった気がする。明らかに俺より劣っている同期が昇進したという話を聞いて、自分の中の正気がちりちりと焦げていく音を聞いたのは。昇給した同僚にさりげなく目を逸らされて、ぎりぎりと心臓を捩じ切られる苦渋を味わったのは。
それでも機会はまだあった。院長の娘だ。まだ年若いものの、そろそろ縁談が持ちこまれる年頃になった女。端的に言えば、彼女と結婚さえしてしまえば病院が手に入る。誰も口に出して言おうとまではしないものの、事実だった。年頃の同僚やちょっとした資産持ちは彼女に付属する財産を手に入れようと躍起になっている。そんな状況でも、俺はその光に懸けた。
彼女は不快な美人だった。生来の体のつくりなど大した問題ではない。絢爛。華奢。驕慢。自負。恵まれた人間にのみ許される品々を当然のように纏った少女。両親に箱庭の中で丁寧に丁寧に培養された観賞のための雛。無条件に俺の憎悪を掻き立てる人間。
もし彼女がそれだけの品なら俺にもまだ希望はあったろう。容姿で劣るものの、彼女に群がる男たちのなかから抜きんでることはできたはずだ。相手に対してなんの感情も抱かなければ人間を上手く扱うことなど容易い。
ただ。
彼女は男のあしらいというものが不自然なまでに上手だった。得手不得手などという次元ではなく、慣れている。見ていればすぐに分かった。人間を見るときの眼が俺と同じなのだ。品物として人間の価値を計り、取捨選択していくその手腕。物事の利害を徹底的に計算し、己の利益を巧みに図るその思考。そしてきっと、誰一人信じてなどいないその唇。
つまるところ、彼女は俺の亜種だった。
その日、俺は彼女をディナーに誘った。いつものようにと言えるほど行っているわけでもないが、それなりに通っているレストラン。彼女はあなたって代わり映えしないのね、などと言って了承してくれた。さらりとコース料理を堪能し、ひとしきり談笑した後で、彼女はふつりと演技をやめた。
「聞いていいかしら」
「なんなりと」
「分かってると思うけど、あなた、どうしてそんなに出世したいの?」
取り繕うべきか迷ったのはほんの一瞬だった。
「逆に聞くが、君は優秀な男を捕まえて、それでどうしようっていうんだ」
「病院を継がせるのよ。それと子種をもらって子供を産むわ」
彼女はひどくあっさりと答えた。あまりにも予想通りのことを言われると却って対応が難しい。俺が言葉を選ぶべきか迷っている内に彼女は食後のワインを傾けた。
「結局のところ、そういうことなのよね。そうするしかないのよ、私という人間は。あなただってそうでしょ? あなたは私の同類だわ」
「いや……亜種だよ。同じだが違う。君は与える側で、俺は与えられる側だ」
「似たようなものよ。でもその言い方、面白いわ」
「そうかな」
「あなた、どうしてまだ私にアプローチをかけるの? あなたには私の形が分かるのだから、止めてもよさそうなものだけど」
彼女はくすりと笑ってワインを含む。その口元は言いようのない歓びに歪んでいた。
「比較して言えば、あなたはかなり下だわ。財産があるわけでもなし、コネクションがあるわけでもなし、他の男に比べて致命的な欠落があるわ。能力と人格に文句はないし、顔も悪くはないのだけど。でも、私の選択肢の中にはない。それくらいは分かってるのでしょ?」
「それは最後通告ということでいいのかな」
「そうよ」
彼女はくすりと笑うと、またワインを口に含む。すぐ飲むわけでもなく、吐きだすでもなく、ただ舌先で弄ぶためだけに。
俺もそれに倣おうとしたが、どうにもうまくいかなかった。元来酒の味なぞ分からない。いくら外面を整えたとしても、俺に流れているのはあの父母の血だ。
「……俺は」
俺は何を言おうとしたのか忘れてしまった。もう何も言ってはならないことはないのに、何も言えなくなってしまった。言うことがなくなってしまった。
行きましょ、と彼女は席を立つ。俺も内臓をがそりとこそげとられたような喪失感を抱えながら彼女の後を追う。
車が行き交う道路の横を彼女と歩いた。送るよ、と言ったかどうかはよく覚えていない。
ただ二人で並んで夜の砂漠を歩むように歩いた。よく晴れた闇夜だった。夜気が肌を齧る夜だった。
俺は君のこと、嫌いじゃない。俺はそう言った。彼女はなにかひどく傷ついた顔をして、少し微笑んでから、私はあなたのこと好きよ、と呟いた。
その瞬間に俺の全身を焼いた激情に、果たして名前はあるのか。狂奔する痛苦に体内の骨が掻き混ぜられている。頭蓋骨の裏側をがりがりと激情がひっかいている。情炎が身を焼き焦がしている。
俺は喘いだ俺は吼えた俺は呻いた俺は叫んだ俺は喚いた俺は震えた俺は嘆いた俺は謳った俺は俺は俺たちは
そのまま俺は道路に飛び出して走ってきたトラックに撥ねられた。
結局、最後まで泣けなかった。
病室に林檎を咀嚼する音が響く。神経に麻酔薬を擦りこまれているような感触だ。鈍麻しているのに研ぎ澄まされていく。痛みがないのがもどかしい。こうしてギプスで体を拘束されていると、その思いが一層強まった。
「あなた、今財産はどのくらいある?」
ざくりと懐剣で刺すような調子で彼女は詰問してきた。正直に申告すると軽蔑と優越感の混ざった口元がふわりと笑む。
「分かってはいたけれど、やはり貧乏人よね。しょうがない、か」
「……」
彼女の声はどこか優しい。なんだろう。俺は彼女に言わなければならないことがある。言わなければならないことがあるはずなのに、言うことがなくなってしまった。
「……君の結婚式には、俺も行っていいかな。君の言うように貧乏人だから祝儀は期待しないでほしいんだが」
「当然よ。あなたが来ないと話にならないわ」
彼女はくすりと笑うと、林檎を一切れ俺の口に押し込んでくれた。舌先で溶けていく甘酸っぱい果汁を楽しみながら、先程の林檎の意味を考える。あの、ひどくざらついた林檎を。
「私ね、あなたが車に撥ねられたとき、死ぬほど嬉しかったわ」
彼女の声もまた、ざらついて聞こえた。
「ああ、この人は死にたくなったんだって。死にたいと思ったんじゃなくて、死にたくなったんだって。そう思ったら、もう嬉しくて、嬉しくて。泣きそうになるほど、嬉しかった」
彼女は頬を寄せて俺の瞳を覗きこむ。彼女の瞳を覗きこむとそこには俺があった。
「だから私、あなたと結婚するわ」
彼女の中の俺はぼろぼろと泣いていた。目から涙を流して泣いていた。嬉しそうに、とても嬉しそうに泣いていた。俺は唯一自由になる右手で彼女を抱きよせその花唇を奪う。深く、深く、傷つけるように。涙を溢れさせて彼女の瞳孔がとろける。
俺たちは死にたいのに、生きていた。
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