すべてはドーナツの山の上(そしておそらく下にも)



 せわしなく震える画面、ろくに調整もされていない明度。撮影者が酔っているのか、単に素人なのか。
 少女がいた。まだ十になったか、なっていないか。最近の仔供は早熟だから判断しづらいが、幼いのには変わりない。余所行きのかわいらしいピンクのワンピースを着て、震えている。胸元に寄せられた手は記号化されたアニメキャラのバッグをそれが蜘蛛の糸でもあるかのように握りしめている。助けを求めてか、視線が右へ左へ揺れ動く。
 場所はわからない。コンクリートだけで構成された部屋はひたすらに無機質だ。薄暗い闇の中で少女がうっすらと光を放っているように見える。何もない部屋だ。少女だけが、脅えて、惑っている。
 画面に異物が踏み込んできた。撮影者が空いた手で映したらしい、透明な薬剤がたっぷり入った注射器。メモ。
「いたみをなくすおくすりです。ねむくなります」
 メモは新聞の切り貼りで書かれており、作った人間の遊び心が見て取れた。撮影者はたっぷり見せつけるようにカメラの前で二度三度メモを上下させた後、手を離す。見えない滑り台でもあったかのようにそれは迷いなく宙を滑り、少女の足元に届いた。
 俯いた少女が体を強張らせた途端、雷光を思わせる素早さで黄緑の手袋が跳ねる。どこでも売られているような台所用の手袋はコンクリートの下で皮膚のようにぬめりと光った。躊躇いなく彼女の首に突き刺された注射器。少女が悲鳴を上げる前に、片手で薬剤を送り込んでいく。その作業には無駄も感情もない。
 少女が手を突き飛ばす頃には、もうシリンジの中身は残っていない。その目には薄く涙が浮かんでいるが、すぐにせわしなく上下する瞼に押し出される。なにか言いかけて、ぺたんと崩れ落ちる。虚ろな眼差し。ちゃきちゃきと音が鳴る。画面に映し出されたのははさみだった。幼稚園児向けに極限まで切れ味を落とした切れない刃物。ちゃき、ちゃきちゃき、と戯画じみた動きでそれは打ち鳴らされる。メモを作った人間と同一の遊び心。恭しく手を取られても、少女はとろんとしたまま動かない。ちゃきんとはさみがその親指を挟みこんでも、ごりごりとそのはさみが動いても、なお。肉を切るためではなく、紙を切ることすら精一杯であろうはさみはごりごりと肉を揉みほぐす。少女は静物めいた顔つきでぼんやりと床を眺めている。四分ほどかけてぼとんと小指は床に落ちた。切り口からは血が勢いよく迸り、すぐに絶えた。黄色い脂肪が覗いている。人差し指。中指。薬指。続けて同じような作業が行われていく。最後に残された小指はぴんと伸びている。役目を終えたはさみはちゃりんと床に放られる。取り出されたのはメスだった。すいすいと手首を切り裂いたそれは、物をちょっとそこらへんに置くような気軽さで少女の右目に突き刺される。半分になってもなんの感情も見せない少女の眼差し。次に取り出されたのは――


「よくもまあ、こんなことを考えつくものだ」
 行くところまで行った映像を止めて、上司はついと口の端を上げた。生粋の異常者であるこの女が面白がっているのは一目でわかる。てめえも同類だろうが、と香華は心の中で毒づいた。外身だけならむしゃぶりつきたくなるようないい女だが、うつくしい虚飾の中に何が詰まっているかは嫌と言うほど思い知らされている。
「男というのは皆凶暴なけだものを内に飼っているだそうだね? どうだい? 興奮したかい? なあ、香華」
 デスクに足を乗せ、マグカップをぴんと指先で弾く上司の目は輝いている。答えあぐねて、香華は停止した画面に視線を移した。この仕事も長いが、たまにこういうのに出会う。そのたびに怖くなる。人間ではない。こういうものを内包している世界そのものが、怖くなる。
「香華」
 飴をねだる仔供のように上司は囁いた。
「わかりませんこういうのは」
「だろうな」
 したり顔で頷くと、上司は矛先を香華の隣に向けた。
「お前はどうだ? 高欄」
「同じく」
 香華の相棒はしれっと言いきった。顔色一つ変えないその裏でこの男が何を考えているか、香華にはわからない。知りたいとも思わない。いつも説教じみた物言いで、甘いものが嫌いで、有能な相棒。それだけあれば十分だ。
 癇に障る笑い声を漏らして、上司はコーヒーをくいと飲んだ。閉めきったオフィスにコーヒーの芳ばしい香りが流れて消える。
「今回の仕事はこのホームビデオの出演者を指定の場所に運ぶことだ。生きている方だけでいい」
「生かして?」
「当然。そうでないと区別がつかないじゃないか」
「そうですか」
 肩をすくめて立ち上がる。高欄ものそりと立ち上がった。
「できるだけ、早く。質問は?」
「いえ」
「よろしい。ああ、忘れ物だ」
 鋭い爪に弾き飛ばされたUSBメモリを香華はどうにか空中で受けとめた。
「なくすなよ。最近情報漏洩に関してうるさいんだ」
「了解」
 片手をあげて、香華はオフィスを出た。先に出た高欄はエレベーターの前で待っている。
「早く歩け」
「そんなに急いで見たいのかよ。待ちきれないか?」
 返事の代わりに鋭い視線。いつものことなのでお互い気にしない。

 真面目腐ったビルを出る。少し離れた路地裏に止めてあった高欄の乗用車には駐車違反のステッカーが貼られていた。
「あちゃあ」
「剥がしとけ」
 うすっぺらいステッカーはぺろんと手の中で丸まった後、すぐに風に吹かれて落ちていく。窓ガラスに残った跡を撫でて、香華は車に乗り込んだ。高欄は舌打ちして乱暴に発進させる。意味のないこととはいえ、鬱陶しい。警察の役目は市民が法の範囲内で生活していくよう監視することであって、香華や高欄のような人間を煩わせることではない。
「なあ」
「どうした」
「ドーナツ」
「ドーナツがどうした」
「ドーナツ食いてえ」
 舌なめずり。あんなものを見せられた後だ。本当は食欲なんてない。それでも食おうとすれば食えるのを知っているから、言う。
「ステッカーが丸いんで思い出しちまった」
 香華の口元にこらえきれない笑みが浮かぶ。高欄を苛立たせるだけの悪い冗談。それでも二人の乗った車は最寄りのドーナツチェーンに向かう道を走り出していた。
「用件は一度に言え。ガキか」
「言ったろ」
「相手にあれこれ察しろと要求するのがガキだってんだよ」
 黄色く点滅する信号を乗用車は無理矢理突っ切る。ぶつかりかけた軽自動車が甲高いブレーキ音を響かせて背後に流れ去っていく。
「あいよ。何食う? お勧めは期間限定ブルーベリーパイ」
「どうせまずいんだろう」
「違いないが、別にうまいもん食いたいわけじゃない」
 ジャンクフードに舌が慣れているだけだ。好きなわけではないが、慣れ親しんだそれのおかげで落ちつくのもまた事実だった。

 湯を沸かしてなにかしらのインスタント食品に注ぐのが香華の母親にとっての「料理」だった。ドライヤーの角と偽ブランド品のバッグ、付随する罵声が「愛情」だった。恨むようになったのは八の誕生日に殺して二年ほど経ってからだ。それまではただ単に殺さなければ自分が殺されると悟ってその機会を窺っていただけだった。社会から弾き出された香華が顔を見たこともない父親のコネで仕事を仕込まれ、世界の裏側を這いまわるまでに、二年。使い捨ての道具だった少年が一端の仕事ができるようになるまで、二年。他人の過去をいちいち聞き回るようなことはないが、自分は早い方だと香華は感じている。

 ビデオの中で解体されていく少女はおそらく初めて一人で仕事をした香華と同じ歳だ。五十回以上繰り返し見ていると、なんとなく、そんな気がした。高級なソファに体を埋め大画面でじっくり見ると直感が確信になっていく。昨日買って仕事場に持ち込んだ大量のドーナツは手つかずのままテーブルに積み上げられていた。
「高欄。この子のデータ出た?」
「失踪したのは一週間前。友達と買い物をしてくると家を出て、それっきりだったそうだ」
「目撃情報は?」
「宝石店で母親の誕生日プレゼントとしてブローチを買ったのが確認されている」
 高欄が上げたのは結構な高級店の名だった。香華も仕事の関係で何度か押し入ったことがあるが、仔供の小遣いで手が届くような安い店ではない。答えは用意してあったのだろう、高欄はすぐに続けた。
「売春。援助交際と言うべきかな」
 少女の右腕が肩から取り外されていく。こんな細い身体が男に弄ばれていたというのか。あの唇が。あの脚が。あの瞳が。
「あー俺そういうの駄目。無理。体売って母親にプレゼントとか意味わかんね」
 ソファを立つ。台所で冷蔵庫を開いたところで、追い打ちが来た。
「客の名簿を管理していたのは母親だ」
「世の中マニアックすなあ」
 ビールに手をつけようとして、やめる。アルコールに発想を委ねるのは情報をきちんと吸収し終えてからだ。一本だけ残っていたコーラを手に取る。開けると炭酸が溜息をついた。
「俺の分も残しておけよ」
「あいあいさー」
 開けたはいいが、飲んだら吐くのは間違いなかった。ソファに戻って高欄に押し付ける。画面の中では右腕の解体が終わり、少女の右頬にメスが突き刺されるところだった。
「えーじゃああれじゃん? ぷっつん来ちゃった客じゃないの?」
「洗ったが」
「だよなあ。ビデオが出回り始めたのは?」
「最初に確認されたのは宝石店から約十二時間後だ。バイヤーに持ちこまれたのはもっと前だろう」
「つまり現場はここ近辺ってことか。それにしても仕事早すぎ。無修正とはいえ限度ってもんがあるだろ」
「プロの仕事だな」
 右頬の肉を削ぎ落された少女が顎を掴まれて口を開閉させられる。口の中の構造がよくわかったが、そんなことを知りたいわけではない。香華と高欄が必要としているのはこの粋を凝らしたスナッフムービーの撮影者の身元と規模だ。データを集めるのは高欄の仕事だが、そこから先を考察するのは香華の仕事だ。ここに至っても顔色一つ変わらない相棒の無精髭を眺めつつ、香華は考えをまとめていく。
「っていうかさ」
「ああ」
「これだけ手慣れてるってことは前にも作ってるよな。そこから繋がらないか」
 高欄は頷くと、傍らのキーボードを叩いてメーラーを立ちあげた。最新の巨大な添付ファイルがついたメールの差出人は忌々しい上司の名前になっている。
「上司殿特選だ。二人で頑張って見てね、だとさ」
「これ絶対あの女の趣味だよなあ」
 香華が溜息をつくと、高欄も頷いた。
「このビデオと同じ流通経路で捌かれた作品全部だそうだ。数が少ないのが救いだな」
「多かったら困る」
「昔より増えた」
 香華より二十は上の相棒は画面を見つめたまま淡々と言う。
「昔はそう簡単にムービーなんて撮れなかったからな。会員の前で一度きりのリアルタイムショーだ」
「結局母数は変わってないと」
「おそらくは」
 どちらがましか考えるだけ無駄だろう。手を伸ばして何度も殺され続ける少女を止めた。眼球を抉り出された少女はなにも感じていない面差しで凍りついている。巻き戻すとみるみる傷が治っていく。切り取られた肉が埋まり、血が吸い込まれ、床に落ちた指がぴょんぴょんと跳ねてあるべき場所におさまっていく。それでも、この少女は脅えるだけで、その先はもうない。虚しくなって、香華は手を離した。どれだけの数が流れたかは知らないが、少女はそれぞれの場所で何度でも分解されていくのだろう。何度でも、何度でも。
 ファイルを閉じ、上司のありがたい贈り物を再生する。タイトルもなく、出演者たちのプロフィールが流れ出した。通販でも眺めているようにコーラを飲む高欄に、なんとなく聞いてみる。
「こうして俺たちが出張ったのだって、そいつらがウチの人間に手を出したからだろ? そうじゃなかったら知ってても放置だよなあ」
「おそらくはな」
 登場したのは年若い兄妹だった。兄の手には包丁が握られ、縛られた妹に突っ込んでいく。素人だからか、思い切りが悪いからか、兄が何度包丁で抉っても妹は静かにならない。泣き叫ぶ妹と吼え猛る兄の声ともいえない声がスピーカーを震わせる。
「なあ、高欄」
 鈍磨していく感情を宥めながら、香華はドーナツを口に運ぶ。返事は期待していないから、自然、言葉は滅茶苦茶になった。
「こういうのはさ。実行するのが悪いのか? そうじゃない。こんなことを考えるその時点で悪いんだ。害がなくとも、悪い。なんのお咎めもないのはその乱痴気パーティがそいつの脳味噌の中で行われてるからであって、気分を変えてお外でやろうとなったとき、変わるのは被害であって罪の重さじゃない」
「ああ」
 登場したのは母親とその息子だった。母親がロープに首を通すと軽いモーター音と共にその体が持ちあがっていく。仔供はきゃっきゃと笑いながらその足にぶらさがった。そうするように言われているのだろう。彼の表情にはなんの疑いもなく、母親を嬲り殺しているという呵責もなく、ただただ楽しそうだ。公園の遊具で遊んでいるように、体を揺らしている。
「こういうことを考え付く連中も、見て喜ぶ連中も、生かしといちゃいけないんだよ。理由なんていらない。一人残らずブチ殺すべきだね」
 儚げな少女。目隠しをされ水槽の淵に立たされている。水槽の中ではピラニアの群れが悠々と泳いでいた。唐突にぬいぐるみがひょいと顔を覗かせる。それを掴んでいるのはどこにでも売られているような菜箸だった。まるで少女に飛びつきたくて仕方ないとでもいうように戯画じみた動きでそれは放り投げられた。
――こいつだ。
 驚いた少女は大袈裟に飛びのいて、足を滑らせる。水槽の中に落ちてしまう。
――この見せびらかすような悪意――
「高欄」
 悲鳴すら残さず、少女は。
「こいつだ。こいつ……こいつだ」
 直感が告げている。眼底が痛い。齧りかけのドーナツを放り投げ、トイレに駆け込む。こういうときのために便器はいつもきれいに掃除してある。顔が映りそうなほど白いそこに、香華は勢いよく胃の中身をぶちまけた。
「香華」
 口元をぬぐってトイレから出てきた香華にコーラの瓶を差し出す高欄は厭味たらしいまでに冷静だった。
「後、十八本あるぞ」


 吐きすぎたせいで喉が掠れている。香華がソファでぐったりしていると電話が鳴った。この前撃たれたせいで罅が入ったディスプレイには最も見たくない名前が輝いていた。残念ながら頼りの相棒は残念なことに買い出し中だ。悪態をついて、香華は電話に出た。
「はい、香華です」
「なんだ起こしてしまったか? それは悪かった。もうそろそろ夜だがね」
 上司の声は楽しげだ。窓の外は鬱陶しいネオンがちらついている。香華はああとかはいとか、曖昧な返事をした。
「声が荒れているな。風邪かね?」
「ああいえ、その……ちょっと吐いたもので」
「アルコールは控えたまえよ。それとも変な物でも食べたかな?」
 どこにいるかは知らないが、ほくそ笑む上司の面が目に浮かぶようだった。わかっているくせにこうして心配するふりをされるのは不愉快だ。これ以上弄ばれる前に本題に入ることにした。
「中間報告ですね」
「うん」
 机の上を眺めやる。高欄らしく必要な情報を不必要に細かくまとめたA4紙が置かれていた。わざと乱暴に持ちあげる。
「正体は知れました。元はヤクを捌いてた連中らしいんですが、ルートが途切れたかなんとかで数年前に鞍替えしたようです」
「中途参入にしては手際が良すぎないかね?」
「誘拐の前科持ちが四人います」
 内三人は身代金を請求すらしていない。
「趣味だなあ。職人集団と言ってもいいかもね。それで?」
「拠点は特定したので、高欄が帰ってきて準備をしたら盗聴器やらなんやら仕掛けに行く予定です。行動パターンが掴めたらまた連絡を入れます」
「よろしい」
 電話は一方的に切られた。別に慰めの言葉など期待していなかったから、香華も気にしない。ソファに寝転がってうつらうつらしながらとりとめのない考えにふける。香華たちの仕事が成功して連中の身柄がしかるべきところに引き渡された場合、どうなるか。明るい未来が待っているとは思えない。散々撮ってきたであろうビデオで主役を演じて、上司が嬉々としてそれをあの閉め切ったオフィスで上映し、香華と高欄は真面目腐ってそれを鑑賞する。ありえる話だ。暗い想像に自分でうんざりして、香華は目を瞑った。


 人気がないのを見計らって壁に盗聴器を設置する。血反吐を吐くまで仕込まれただけあって慣れたものだ。振り返ると高欄は道の脇に止めたタクシーの中で呑気に新聞を読んでいた。仕事をさぼるタクシー運転手にしてはやや空気が硬すぎるが許容範囲だろう。逃走用の足として怪しまれないための演技とはいえ、腹が立つ。道路には血や吐瀉物の臭いが染み込んでむっとした臭気を立ち昇らせていた。もう夜だというのに誰一人いない。最底辺の場所だ。高欄の調べによればビデオの撮影者たちはその一角にあるビルの地下室で生活し、撮影までしているらしかった。ふさわしい場所と言ってしまえばそれまでなのだろうが、人を嬲り殺したその場所で何を喰いどんな夢を見て寝ているのか香華には想像がつかない。
 車に戻る。高欄は露骨に眉を顰めた。
「臭いな」
「そりゃお前は車ん中で新聞読むのが仕事だからな。さっさと行こうぜ」
「動作確認は」
「今するよ」
 車に備え付けた計器のスイッチを入れて状況を確認する。これできちんと電波が入っていれば後は仕事場に寝転がっていてもフリークスどもの生態観察ができる寸法だ。順番にスイッチを変えていく。一番。二番。三番。四番。五番。悲鳴。指先が止まる。女だ。何事か喚いている。罵倒のボキャブラリから鑑みるに、大分柄が悪いようだった。この前の少女とは違って。まだ幼いのには間違いなかった。この前の少女と一緒で。
 しばらく、沈黙が降りた。どうすると聞いても無駄だろう。生け捕りにするための準備は持ってきていない。上司の命令を遂行するなら、ここは引き返して後日に備えるしかないだろう。自分の命令を無視されて許すほど、あれは甘い相手ではない。そして許されないということは、つまり。
「最悪だな……ああくそ、運がないぜ」
 悪態をつく香華に、高欄は黙って肩をすくめた。そのままエンジンをかける。
 上司の命令を遂行するなら。
「なあ、高欄。転職して一緒にあそこの店でドーナツ揚げようぜ」
 香華は、言った。心臓が痛いほど震えている。車にはこの前の仕事で使ったアサルトライフルがまだ積まれているはずだ。弾もある。だから。
「悪いが」
 高欄はにやっと笑った。この男が笑うのを見たのは初めてかもしれない。
「俺はチキンを揚げる方が好みだ」
 香華の相棒はしれっと言いきった。顔色一つ変えないその裏でこの男が何を考えているか、香華にはわからない。知りたいとも思わない。いつも説教じみた物言いで、甘いものが嫌いで、有能な相棒。それだけあれば十分だ。


「あー全種類ください。残ってるの全部」
 目を剥く店員に手を振り、香華はコーヒーを二つ注文する。手がまだ火薬の熱で痺れていた。自分と一緒に人生を撃ち殺してくれた相棒は黙ってカフェの隅に座っている。
「そういや甘いの駄目だっけ」
「この前言ってたブルーベリーパイはそう悪くなかった」
「あ、そう? じゃあ食べていいぜ」
 コーヒーをテーブルに置いて天井を見上げる。ビジュアルに注力してなんの意味もなさそうな換気扇がくるくると回転している。
「ていうかお前ドーナツ嫌い?」
「そう嫌いでもないが、ここのは甘すぎる」
「まあな」
 夜のドーナツショップは客もまばらで、こうして座っていると自分たちがついさっき人を殺して少女を交番に投げ込んできたことが嘘のようだ。からんとドアのベルが鳴る。レジの方を見ると店員はドーナツを皿に積み上げるのに忙しいようだ。視線を戻して、やっと異常に気付く。高欄が口を開けて固まっていた。
「こんばんは」
 いつの間に後ろに立っていたのか。最も顔を合わせたくない人間、上司がひたりと笑っていた。
「相席してもいいかな?」
 聞いただけで勝手に座ってくる。テレビの向こうを見ているような冷めた気分で香華はコーヒーを一口すすった。
「まったくもう、君たちに命令を無視されるとは思わなかったよ。困っちゃうなもう」
 文句を言いながら店員を呼びつけてミルクを注文する。
「それで? 何か申し開きはあるかな?」
「……いえ。いいえ」
「だろうね。現場を見れば一目瞭然だ。盗聴器のデータも残っていたよ。しかし君たちは諜報が仕事だったと思うが……銃の扱いも見事なものだね。驚いたよ」
 ドーナツの山が運ばれてくる。好奇心たっぷりの目で注文を聞いてくる店員を香華は追い払った。美女一人に男二人。山もりのドーナツ。コーヒーとミルク。張りつめた空気。
「さて。どうしたものかな」
 面白がっているような調子で上司はミルクを混ぜた。
「私としては君たちを許そうかと思っているよ」
「はっ?」
 高欄が信じられないと言った顔をする。香華も同感だった。許す。この女の辞書に、そんな言葉があるなんて。
「私だって部下のことはかわいいし、今回のことはまあ事情酌量の余地もないではない。許そう。次はないがね」
 釘は刺した、といった体で上司は立ち上がる。
「明日オフィスに来て報告書を提出すること。今後のことはそこで追って連絡する」
「……はい」
 なにかしらの組織的折衝があったとしても、香華にはわからない。わかるのは自分たちが助かったというそれだけだ。気まぐれを起こしたか、上司はひょいと山の上に積まれていたドーナツを一つ手に取った。
「まずい。実にまずい」
 顔をしかめる。一口齧ったそれをあろうことか店員に投げつけて、影のように出て行った。後に残された香華と高欄は、何もわからないままだ。二人はしばし見つめあって、ちょっとだけ笑って、げんなりしながらドーナツに手を伸ばした。





アトガキ:
触発されてガンアクションノワール物を書いたらまさかのガンアクションシーンカット。銃撃戦は入れるつもりだったのだがこれは入れない方がきれいであるということに気付いたのでやめた。どうしようもなく歪んで爛れた世界の中で、それでも輝くものは確かにあるのだ……というのがメッセージだったようだ。実はノワール物が好きなのでそれらを見習ってなるべく語彙を平易にするよう心掛けた。どうしてかシーンごとの連続性に欠ける。







香華は狐人、高欄は鳥人、そして実は上司は無依子さんシリーズの無依子さんである、という限りなくうさんくさい設定もあったりなかったり。