acceleration
「だって、ねえ」
一人の少女がそう言って、ぽいと机の上に週刊誌を放り投げた。昼休みも半ばを過ぎ、教室はけだるい空気に包まれている。
「いくらなんでも、ねえ。加減ってものがあるわよね」
リーダー格の少女が長い黒髪を払ってそう言うと、周囲の少女たちは口々に同意した。
彼女たちが話題にしているのは、最近街を騒がせている事件だった。週刊誌の開かれたページには、ハリネズミを思い切り膨らませたような化け物と、それに飛びかかる人影が写っている。それは子供向けに撮られたドラマのような、いかにも現実味の薄い写真だったが、しかし確かに現代日本の光景なのだった。
人を襲う化け物が出現するようになってから、もう数ヶ月が経っただろうか。自動車事故よりは死傷者数の少ない、しかし確実な脅威は、ぼんやりとした圧迫感を伴って人々の生活を浸食していた。これを気にしていない人間などいない。どこからともなく現われる化け物のこと、どうにも対応の遅い国のこと、そして――魔法少女のこと。
「怪物が出たから倒しました、それはいいわよ。ありがとうだわ。でも、あたりをまるごと吹っ飛ばすってどうなのよ。ねえ」
とんとんと細い指先で週刊誌を叩きながら、リーダー格の少女は言う。いかにも訳知り顔の、子供を諭すような物言いだった。
「あのあたり、結構いいお店あったのにねー」
「もったいないよねー。あたし角のほら、あの看板が丸いとこ、店長と仲良くなって値引きしてもらえるようになったとこなのに」
「えーなにそれ。いいなー。今度私の分も買ってよ」
「今度はないでしょ」
「あ、そっか」
きゃらきゃらと少女たちが会話に花を咲かせる中、一人黙って顔をこわばらせている少女がいた。内向的で何事にも控えめな彼女は、どちらかというと華やかなこのグループの中で隅っこの位置にいて、あまり喋ることこそないが、それでもいつもなら微笑むくらいのことはする。
「どうしたの? そんな顔して」
目敏くリーダー格の少女に話しかけられて、彼女はびくりと肩を震わせた。あまりに大げさなリアクションに会話が途切れる。多くの視線にさらされて、頬を紅潮させながらも彼女は口を開く。
「あ、あの、それはちょっと、その、ないっていうか」
「なにが?」
「そこに文句を言うのは違うんじゃないかっていうか、その、ね……」
「魔法少女のこと? でも、いくらなんでも被害が大きすぎない? 怪物より街を破壊してるじゃない。調子に乗ってる証拠よ」
「そ、そんなことないと思うし、でも、それはそうなんだけど、でもね、えっと……」
嗜虐心を刺激されたらしいリーダー格の少女になぶられて、彼女の声はどんどん小さくなっていく。
「でもやっぱり、人の命を守るために頑張ってるんだと、思うし、だからそんな、頑張ってる人だから、ええと……」
「頑張ってても結果がこれじゃしょうがないじゃない。でしょう?」
リーダー格の少女がそう言うと、グループの少女たちは頷き合う。いつものようにやりこめられてしまった彼女は、口をつぐんだまま、顔を俯けて、手をきゅっと握っているのだった。
星の光が月のように明るい夜を、星月夜と呼ぶ。空に雲はなく、月は煌々と下界を眺めている。闇は冷淡な星光に追いやられて物陰に潜み、夜気はりんと張りつめている。
その中を駆ける人影があった。青空を写し取ったかのような服、燐光を纏う両手のクロー。髪を束ねるリボンは白く、屋根を駆けるブーツは黒く。伊達や酔狂でもこれは嫌がるだろうといういでたちでありながら、そこに遊びの気配は一切ない。なぜならば――なぜならば、彼女は魔法少女だから。
彼女が目指しているのは、日頃通い慣れている学校だった。魔法によって強化された感覚が、敵はあの白い立方体に潜んでいるのだと告げる。家々を飛び渡り、彼女は屋上に降り立った。そのままクローに魔力を集中させ、振り上げる。
地の利はこちらにあるとはいえ、わざわざ敵が待ち構えている校舎の中に入るのはリスクが大きすぎる。確実に勝とうと思うなら、校舎ごと叩き潰してしまった方がいい。
そう考えたところで、鋭敏な感覚が校舎の中にいる人間の存在を捉えた。二、三、いや、もっと。
僅かな逡巡の後に、彼女は構えを解いた。迂闊なのはわかっているが、出来ることなら助けたい。最後に冷たい夜気で肺を満たして、彼女は屋上のドアをゆっくりと開けた。
夜の校内は一種異様な静けさに包まれて、昼間の姦しさの面影はない。こうも不気味では怪談が湧くのも無理はないなどと益体もないことを考えながら、彼女はとりあえず手近な人間のところへ向かう。
人間がいたのは奇しくも彼女の教室だった。平凡な中年男性が、ぽかんと虚ろな顔をして教卓に腰かけている。彼女が遠慮がちにドアをからりと開けても反応がない。危険とあらばいつでも飛び出せるように準備しながら、彼女はゆっくりと男のところへ近寄った。入口からは影になって見えなかったが、その手には柳刃包丁が握られていた。身構える彼女を無視して、男は柳刃包丁を振り上げる。そして、最期まで彼女のことを認識した様子もなく、自分の腹を切り開いた。
勢いよく飛び出た臓物が木目調の床を汚す。あまりのことに唖然とする彼女は、自分がよろめいたことにも気付かなかった。何故。どうして。ぐるぐると頭の中で回る疑問を押さえつけることもできず、目の前の惨状から目を逸らす。こみ上げる吐き気を堪え、彼女は口元を押さえる。
不意に、その細い首に絡みつくものがあった。生暖かく濡れたそれは素早く彼女の首を締めあげて呼吸を狭める。一体どこから。触手の出所を見て――彼女は、声にならない悲鳴を上げた。醜悪な肉の芋虫。その出所は、教卓に腰かける中年男性の腹に開いた傷だった。柔らかい皮膚を蠕動させ、にゅるにゅると男の腹から這い出して来るそれは彼女の身体にまとわりつき、じわじわと締め上げていく。
腸だ。
「
start
――
speed
――
subsonic
」
呪文と同時に、両手のクローが閃光を放つ。亜音速にまで加速した鉄爪は教室を半壊させ、彼女の身体を縛める肉縄を消し飛ばした。荒い息をつきながら、彼女は廊下に彷徨い出る。ちくしょう、という呟きが可憐な唇から零れた。
騒ぎに反応してやってきたのか、廊下には人間が犇めいていた。誰も彼も虚ろな顔をして、手に刃物を持って、腹に作った傷口から肉触手を伸ばしている。まだ傷を作っていない人間の腹はぼこぼこと膨れてはへこみを繰り返し、内に潜むおぞましいモノの存在を知らせる。助けられないなら、潰せばよかったのだ。叫び出しそうになりながら彼女はクローを構え、呪文の詠唱に入る。
「
start
――
speed
――
transonic
」
クローが先程よりも一層強い光を放つ。加速を操る魔法少女である彼女の魔法は、ただひたすらに加速する――はやく、はやく。マッハ1を超える速度で振り抜かれたクローは衝撃波を発生させ、廊下にいた人間だったものを一人残らず薙ぎ払い、廊下のガラスを粉々に打ち砕いた。
雪のようだ――とそれを見送った彼女の視線が、一点でぴたりと止まる。校庭の中心。醜い体をうぞうぞとみっともなく逃げていくあれは、屠らるるべき怪物ではないか。これだけの人間を死よりもなお辱めた、屠らるるべき怪物ではないか。
窓枠を蹴り、校庭に着地する。逃げ切れぬと悟ったか、怪物は触手を蠢かせてこれを出迎えた。
言葉もなく、彼女は飛びかかる。対する怪物は触手を滅茶苦茶に振り回したかと思うと、虚空から液体を噴射した。予想だにしない汚液に足を取られ、彼女は体勢を崩した。包み込むように伸びた怪物の触手がその華奢な身体を捕らえる。どうにかクローで何本かの触手を切り裂いたが、百を超える触手を前にしてはあまりにも無駄な抵抗だった。
みしみしと少女の身体を絞めつけておきながら、怪物はなぜか止めに入ろうとしない。やがて彼女は、触手たちが自分の尻を執拗にまさぐっているのに気がついた。ああ、この怪物は人間の肛門にその触手を侵入させ、腸をあんなおぞましいものに変えてしまうのだなと得心した。みんなどんな気持ちだったんだろう、と思った。
魔法少女は激怒した。
「
start
――
speed
――
supersonic
」
音を遥かに超える速度によって発生した衝撃波は触手を微塵に潰し、余波を受けた校舎の一部を打ち砕く。粉塵舞い散る中で悲鳴を上げる怪物の体に、二本の爪が突き立てられる。加速を操る魔法少女の、その爪。あらゆるものを加速させるその魔術は、いわんや怪物の肉体をも自在に加速させることができる。
「
start
」
――上に。
「
speed
」
――空に。
「
speed-up
」
――宇宙に。
「
hypersonic-overdrive
」
――加速する。
一瞬で音速の数倍にまで加速されてしまえば、いくら人外の理で動く怪物であっても一溜まりもない。爆散する校舎を下に、怪物は加速し続ける――上へ。空へ。宇宙へ。魔法少女のクローから注ぎ込まれた魔力は地上を遥か離れても減速を許さず、加速を続ける。第一宇宙速度を超え、第二宇宙速度に到達した、かつて怪物であったものは地球の引力を離れて宇宙の暗闇へと消えていく。その身に注がれた魔力が尽きぬ限り、加速を続けながら。
跡形もなくなった学び舎に立ちつくし、魔法少女は大きく溜息をついた。怪物を射出した地点を中心に、まわりはきれいなクレーターになっている。魔法で多少は損害を小さくしたつもりだったのだが、あまり効果はなかったようだ。
「頑張ってても結果がこれじゃしょうがないなあ……」
魔法少女はそう独りごちて、長い黒髪を払った。
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アトガキ:
コンセプトもろもろ。
・最後の一行でどんでん返し
成功したような気はするが無意味。
・ルビを使う。
普段はルビを使わないのを信条にしているので扱いに困った。最後の「速く」→「早く」の転換は気に入っている。