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菱餅クァの不調
01 体中の管という管が不調

 目脂は出るし、鼻は詰まっている。耳炎はこのあいだ治ったが、喉は脱水でカラカラだ。前の管は気温が高いからなのか頻繁なのは和らぎ、後ろの管はときおり切れるが、それでも機能している。
「……まだ絶不調じゃない」
 菱餅は呼気を改める。そして尻尾の輪郭を指でなぞり、耳と同じカタチを保っていることに安堵する。毎朝同じように、3箇所の形状を確認しないと気が済まない。

 1限が終わり、クラスメイトの誰かがもくもくと早弁を喰いはじめるころ、アーウィンは滑りこむように教室に入ってくる。べつに遅刻したとか、サボっていたというわけではなく、菱餅たちと同じ授業内容では学力が物足りないので、ほかの部屋で別の講義を受けてきただけだ。理系の科目について、アーウィンは高修部で取るべき単位を免除されている。より厳密には、中修部のときに取得済。そして今、大修部棟に潜りこんで参加してきた実験の分も、しっかり単位に加算されていくのである。
 八獣学庵は徒弟たちの技量と裁量に任せ、好きな科目に習熟するよう薦めている。もちろんその逆に、たとえば高修部のデキの悪いのを下から集めて、こっそり中修部の授業内容を「補修」させることもあるのだが。
 ちなみにアーウィンぐらいの切れ者になると、講師の研究助手として雇われることもざらではない。時間的拘束と引き換えに、それなりのお金を貰ってもいるんだとか。

 席順は出席番号に従い、出席番号は名前順に従う。廊下側から遠い、教室右前の角の席に戻ろうとするアーウィンに、左後ろあたりに着席している菱餅クァがぽそっと囁く。
「おかえり」
「ただいま」
 足を止めたアーウィンが小さな声で返事する。菱餅にとってはそれがなによりの喜びだ。ギザギザの耳、クラスの中では小さめの身長。愛嬌のある外見、それなのに賢い、というギャップがたまらないらしい。
 しばらくのあいだ、見つめあう2匹。そしておもむろにアーウィンが口を開いた。
「菱餅。『サエズる』って漢字は」
「んん?」
「右上に点、付くんだろうか」
 また突拍子もない質問。数学か物化生地の授業を受けてきたはずなのに、どうしてこんな質問をするのだろう。とはいえ、惚れた弱みである。菱餅は内心すごく嬉しいのを隠しつつ、答えを探した。広げたノートの端に、筆記具を走らせながら。
「口編に車書いて専門の専、だと思うから、付かない気がするけど」
「ありがとう」
 傍から見ていれば、表情の変化には気が付かないかもしれない。いや、そもそもアーウィンは微笑んでないのかもしれない。それでも。ほんの少しその唇の端が緩んだのだと菱餅は信じ、その日一日幸せでいられるのだ。あわよくば、その口元への接触なんかを夢想して。
 席に着いたアーウィンに、今度は菱餅が近づいていく。
「アーウィンさん、あの、さっきの漢字なんだけど」
「うん」
「ゴメン、調べたらちょっと違ってた」
 次の授業が始まるまでの短い休みに、漢字字典を引っぱりだしてきてしまうくらい、菱餅はアーウィンのことが好きらしい。

 とはいえ、恋心は伝えられないゆえに恋心なのではないかと思わせるくらい、菱餅は臆病になっている。アーウィンが不在がちとはいえ、文系の授業はいっしょに受けているのだから、それなりの時間を共有してきたクラスメイトなのだが、いまのところ眺めるだけ、一言二言言葉を交わすだけで満足していた。
 ……というのは間違いで、思春期なのだから夜の妄想相手くらいにはしている。
 とはいえ、最近はそれで処理することも心苦しくなってきていて。何があったかというと、ちょっとした噂を耳にしたからだ。アーウィンが物化生地の先輩方に体を開いている。具合もかなりいいらしい。俗に言われる「名器」というヤツだ。時間的拘束。それなりのお金。そんな風評が、菱餅を邪推に駆らせる。
 甘い嬌声が思い浮かぶ。
 誰ともわからないカラダがアーウィンの背に覆い被さり、あるいは股下から突き上げ、その極上の内部を存分に味わう。それでも、アーウィンはまるで中に何も入っていないかのごとく、浅く息衝いた胸を上下させていて。そのギャップがまた、相手の腰をよけいに動かす。
 自身の手の平で弱いトコロをすりあげて、そのままべっとりとした粘液の感触をしたたか知らされるまでの数瞬、想う対象の痴態を思い描く。
 そして相変わらずの罪悪感。募る恋心と劣情。ベッドに投げ出した体とキモチを持て余しながら、菱餅は眠る。

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