芳しい香りに包まれて・前編 黒ヤギ作
 空気がだんだんと涼しくなり、秋の気配を感じて始めたころ、ユウキは一人会社へ向かう電車の中にいた。とある気象予報番組では、今年の夏はそんなに熱くならず例年に比べ秋の訪れは早いそうだ。
 一時期は猛暑になり熱中症で倒れる人が続出したが、それも嘘であるかのように最近は涼しい日が続く。最も涼しいことはいいことなのだが、一方で局地的な豪雨にも見舞われ、激しい天候の移り変わりにより体調を崩す人が全国でもよくいたという。

 ユウキは、そんな天気にも負けずに、休日もほぼ毎日職場に顔を出し休んだ先輩のフォローを請け負っていた。大学を卒業し九州からはるばる上京したユウキは、根はまじめで仕事にも一生懸命だった。学生時代もほとんどバイトはせず、初めは顔を出していたサークルにも顔を出さなくなり、しまいにはひとりでいることが多かったなど、他人と交流することはほとんどなかったが、専門の勉強を一生懸命学んだおかげで学内でも成績は優秀だった。
 しかし、社会経験が乏しいことが災いし、まだ就職したばかりということもあり大目に見てもらっているが、仕事でのミスが頻発し他部門のスタッフや上司はそのことを気に掛けていた。
 「報告・連絡・相談、こんなこともできないのか、社会人としてこれくらいはできてほしいなぁ。」などとしかられることも多かった。
 自分が一生懸命大学で学んだ知識が実社会で生かせないことのもどかしさがユウキの心の中で渦巻いていた。ユウキは先ほど記したようにいいところもあるのだが、自分の持っている知識が先行し独断で行動することが多く、注意をされても自分の信念をまげるようなことは絶対に許さないなど、融通の利かないところもあった。それが社会にでてここまで苦労するとはユウキも思わなかった。
 先輩や上司からは「もっと素直になれ」などと諭されることもあったが、自分の信念が前に出て「先輩、素直ってなんです?人の言うことをホイホイ聞いて他人の奴隷になることが素直だとしたら、それは間違っています!」と先輩に向かって反論をする場面も多く、直属の上司や教育係はユウキの指導にほとほと手を焼いていた。

 そんなこともあり他人からみればユウキはすこし近づきにくい雰囲気があり職場でも人間関係は希薄であったが、仕事に対しては人一倍頑張っておりクライアントからの信頼は厚かった。ユウキ自身は他人には気を留めず「なんでこんなにつまらない人間と仕事をしなければならないんだ」と心では思っていても、決して口にはせず淡々と仕事をこなしていった。
 そんな彼の休日の過ごし方は、自室でコーヒーを飲み、お香の香りに囲まれて読書をすることが多かった。
 よく読む本は、昔はライトノベルや漫画といった親しみやすいものだったが、最近は仕事に関する専門書や、仕事のことを忘れたい時には、近代文学や哲学書を読み漁っていた。
 近代文学や哲学書を読むようになった経緯は、仕事でのイヤなことを忘れたいという現実逃避に近い意味合いだったのだが、しだいにその活字の世界に飲み込まれていき、ニーチェの名言集を読んだときには雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。
 これがユウキにとっては専門知識しかないことを先輩からも言われた自分の知見を結果的に広めることになったのだが、その成果が出始め仕事が楽しくなるころの話はまた別の機会にすることにする。

 ある休日にいつもと同じように自室でコーヒーを入れお香を焚こうとした時に、お気に入りのお香がなくなっていたことに気付いたユウキは、ルームメイトであるイオリに一言声を掛けると「車に気をつけてな〜。」というイオリの声を聞いた後に、行きつけの雑貨屋へと足を運ぶのだった。
 イオリは、自分と同い年で彼は山梨から東京へ上京してきた人間だった。大学を卒業した彼は自分の研究のためにそのまま大学と併設されている大学院へと進学をした。
 もちろん最近の雇用状況を加味しての判断でもあったのだが、彼もユウキと同じく自分の信念を曲げない精神を持ち合わせており、研究にも熱心だった。こうしてユウキとルームシェアしているのも、インターネットで募集がかかっておりお互いにメールでのやり取りの後に直接話し合い、ユウキと性格の波長があったが故の巡り合わせなのかもしれない。
 彼の専門はフィールドワークも多く、あまり家にいることはなかったのだが、今日はたまたま研究室の室長が休んでいることもありイオリも家で久しぶりにゆっくりすることにしたのだ。

 ユウキがいつも行く雑貨屋は駅の途中にあり、徒歩5分ほどで行ける距離にある。その雑貨屋は珍しく夜遅くまで開いているので、ユウキはよく仕事の帰りに立ち寄ることが多いのだが、特にすることがない時も何か目新し物がないか物色しに店に入ることもある。
「おう、いらっしゃい」
 レジにいた店長がいつものように気さくに声をかけてきた。ユウキはここの常連であったため店長はいつも明るい声をかけてくれた。
「今日はどうしたんだい」
「いつも使っているお香を切らしてしまったので、新しいのを買いに来ました」
「ああ、あれね。いつものところにあるよ」
 店長は店の奥にある棚を指さして言った。
「そうだ、ちょっと変わったお香を見つけてね。試しに使ってみるといい。」
 レジで会計を済ませていつも使っているお香を受け取ろうとしたときに、店長はお香の入った紙袋にいつもとパッケージの違う箱を入れた。
「どんなお香なんですか?」
「実は知り合いの店から仕入れたものなんだけどな、なんでも気分転換や集中したいときにいいらしいんだ。そいつは体の奥底からムラムラと力がみなぎってくるとか言ってたな。」
「ムラムラ……ですか…?」
 ユウキは店長の表現になんとなく違和感を覚えたのだ。しかし店長もそのお香を使ったことがないようで、実際にムラムラしてくるのか、またどういう心理状態になるのかは詳しくわからない様子だった。ユウキはそのいかがわしいお香を受け取りたくはなかったのだが、店長からタダでもらったこともあり拒むこともできず、そのまま紙袋にいれてもらい店を後にした。

 しばらく駅前の商店街などを一通り散策した後、ユウキはいつもより少し重い紙袋とともにマンションへと帰ってきた。自分の部屋に荷物を置き手を洗った後、ダイニングにあるコーヒーメーカーに豆を入れてミルをすると、今度は水を別の入り口から注ぎセットをすると、ドリップが始まった。下にセットしたガラス製の容器に夕日を浴びて明るい茶色に輝く液体がポタポタと音を立てて落ちていく。
 そう、ユウキはこれからこのホットコーヒーとともに自室で読書をするのだ。コーヒーができるまでいったん部屋に戻ると、いつものように哲学書を読もうかと思ったが、仕事に必要な書類があったため、そちらを優先して読むことにした。デスクワークをするときにも使うリクライニングできる、ゆったりとした椅子へ体を預け資料を読もうとしたときに、ふとベッドの横においた荷物へと視線が行った。
「ちょっと試してみようかな……?」
 先ほど店でもらったお香の存在がユウキの頭をよぎった。仕事の資料を読むからにはまずは集中する必要があると思ったこともあったが、そもそも例のお香を嗅ぐとどのような心理状態になるのか興味がわいていることの方がユウキの心の中では大きかった。
 お香を焚く器は、いつもベッドの横の小さなテーブルの上に置いてある。なぜならベッドで眠るときにすぐに香を楽しむことができるのと、読書や作業をするときにはあまり香が強すぎると逆に集中できないことがあったため、またお香の灰が万が一本や資料の上に落ちて汚れたり最悪火が付くことを防ぐためでもあった。
 ユウキは紙袋から例のお香の箱を取り出し、器にセットするとマッチで火をつけお香を焚き始めた。お香は今までに嗅いだことのない不思議な香だった。
 ラベンダーやレモンといった気持を落ち着かせるような香が初めはしたのだが、しばらくすると甘い香りが部屋の中を満たし始めた。甘いというより、むしろ、甘ったるい。今まで嗅いだことのない甘ったるいにおいに若干の吐き気を覚えた。通勤電車の中で香水を効かせすぎていた女性の前に立ったことが一度だけあったのだが、その時よりひどい。
 次第に頭がグラグラしてきて、このまま嗅いでいるとおかしくなりそうだ、そう思ったときだった。突然ユウキは自分の体に違和感を覚えた。体の芯が何かに熱せられたかのように胸のあたりが疼き始めると、全身が熱を持ち始めた。
「な、なんだんだ、これは……?」
 突然体が熱くなり、ユウキは内心かなり焦っていた。
 たしかに今までと比べて涼しくなり、季節の変わり目ではあるのだが、それにしてもこんなにいきなり体調が悪くなるものなのか?ユウキは、コーヒーのことも気になりダイニングへ逃げるように足を進めたが、胸の熱さとともに、四肢が疼きだし関節にも熱を帯び始めた。
「いったい何が起きているんだ……?」
 そう思ったのも束の間、関節の疼きが痛みに変わり、痛みに耐えきれなかったユウキは自室の床へ四つ這いになるようにうずくまった。踵が自分の脚の付け根に近づいたかと思うと、足の平と爪先の間が何かに引き伸ばされたかのように痛みを伴いながら伸びていくのを感じた。
 痛みと同時に身体から多量の汗が吹き出し、それと同時にユウキの全身から明るい茶色をした毛が吹き出していった。初めは腹部や背中にわずかにあったものが、瞬く間にユウキの全身を包み込み、ユウキは茶色い毛玉の塊になりかわった。
 全身が茶色というわけではなく、よく見ると背骨から横に伸びるように縞模様が出来上がっており縞模様は同じく茶色であったが、他の部位よりも赤みが強くはっきりと縞模様が浮き出ていた。耳の位置が頭頂部へ移動していき、丸みを帯びていたものが何かにつままれたかのように引き伸ばされあっという間に三角形に変わった。
 鼻と口の位置が近づき鼻の高さが口の高さとほぼ同じになる、口元から数本の太い毛が横に伸びどこかでみたことのあるヒゲになりかわっていった。
 熱が呼び覚ましたのはそれだけではなく、胸から湧き上がる熱が丸みを帯びたかと思うと膨らみ始めて、いつの間にかやわらかなふたつの溢れんばかりの乳房ができあがっており、それとは対照的に男性の象徴でもあった股間にあるイチモツはいつのまにか姿を消しており、茂みの奥にかわいらしい窪みができあがっていた。
 まだ甘ったるい臭いの残る部屋には、胸をもった1人の、いや、1匹の大きな茶色い猫が床に四つん這いになって苦しそうに荒い息をあげていた。ユウキはもともと髪が長かったのでヘアゴムで後でひと束にまとめていたが、その髪がさらに背中まで伸びつややかな女性らしいポニーテールにかわっていた。
「はぁ、はぁ・・・、いったい、何が・・・?」
 ユウキは熱気と甘ったるい香りが残る部屋の中で意識がもうろうとしたままだった。重い身体をどうにか床から離して何が起きたのか部屋を見回した。ふと自分の視界に鏡が入った。そこには今まで見なれた自分ではなく、人と猫が入り混じった得体の知らない“モノ”が映っていた。
「な、何だ、これは!?」
 そこには大きく目を見開いて驚いていた“ユウキ”が映っていた。だがそれは今まで見なれた自分ではなかった。


 続
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