暑い。
昼下がりの日差しが、容赦なく私の身体に降り注ぐ。
少しくらい、風が吹いてくれれば少しはマシなのに。
いつの間にか口は半開きになって、舌がだらりと垂れ下がる。
ひどく粘度の高いよだれが、糸をひいてしたたり落ちる。
それをぬぐうことすらできない自分が、ひどく――惨めだ。
ぶらぶらと下腹部で揺れる、巨大な肉の塊。
歩くのに邪魔にはならないが、一歩ごとに存在を主張するそれが、ひどく煩わしい。
お前はもう、人間ではないのだと絶えず告げられ続けているようで。
ええ、分かっていますとも。
その通り、私はもう人間じゃない。
これで満足?
もはや頭の中でつぶやくしかない人の言葉が、ひどく――むなしい
なんでこんな目にあわなくてはいけないのだろう。
私が、何をしたというのだろう。
ひどくのどが渇いて、思考がまとまらない。
これが夢なら。
いや、せめて夢だと思い込むことだけでもできたら、どんなにマシだろう。
しかし、この暑さは――
獣毛がみっしりと生え揃った背中を焦がす太陽の光は――
肩に食い込む革のベルトの重さは――
どうしようもなく、リアルだ。
そして、“あれ”が来る。
ごぼりと音をたてて、腹の奥から戻ってくる生温かい“食事”。
繊維を断ち切られ、半ば消化された、雑草どものなれの果て。
それを再び口の中に戻し、咀嚼しなおす。
そういえば、かつて不思議に思ったことがあった。
どうしてあの動物は、しょっちゅうくちゃくちゃと口を動かし続けているのだろうかと。
特に知りたいとも思わなかったその謎の答えを、今こうして予想だにしない形で理解する。
自分の身体で。
その、太った鈍重な草食獣そのものになった私の臓器が、こうして教えてくれる。
そう、牛は――反芻するのだ。
私の好物は、黒スグリのパイとオレンジ酒の入った紅茶。
かつて私の職場であったパブ『シィ』の料理は、はっきり言ってひどいものばかりだったが、その中にあって、なぜだかまともな味をしていたのがその2つだった。
仕事の前、まだ灯の入らないパブのカウンターに腰をかける。
何も言わずとも店長は、そのふたつを私の前に並べる。
今日踊る曲を小さく口ずさみながら、上機嫌で頬張るそれらの味。
一緒に食べると、パイの甘みが温かい柑橘の香りに溶けて、いっそう――
おいしい、と思った。
その自分の嗜好に愕然とする。
口の中にあるのは、パイでもなければ紅茶でもない、それどころか人の食べる物ではない。
牛の胃袋で半消化状態になり、醗酵し、再び吐き戻されたぬるぬるの繊維質。
その複雑で非人間的な身体のシステムもさることながら、それに嫌悪感をいだくこともなく、喜んで再度の“食事”として楽しんでいる私。
もぐもぐと。
くちゃくちゃと。
これはもう――どこの誰が見ても牛そのものだろう。
――ああ。
嫌悪感と悲嘆に塗りつぶされそうになる私の意識を、どこまでも現実につなぎとめるのは肛門にたかるわずらわしいハエどもだ。
便の臭いを嗅ぎつけて、どこからともなくやってくる無数のそいつら。
せめて、用を足すたびに拭き取ることだけでもできれば、その数は大きく減らせるのだろうが――考えるだけでも滑稽なことだ。
今の私にできるのは、長く伸びた尻尾を振り回し、肥大した尻をもぞもそ這い回るそいつらを追い払うことくらい。
ぴしゃん、ぴしゃん。
誰に教えられたわけでもなく、器用にその仕草をこなしていることに気付いたのは、いつのことだっただろう。
あまりに牛らしい、その動き。
――まあ、牛が、牛らしいのは当然のことなのだろうが。
牛?
いや違う、私は牛なんかじゃなく――人だ。
人間の、娘だ。
私は。
私の名前は――
「ドロテアっていうの。よろしくね」
「フリーダと、申します」
宿屋の一階にしつらえた、どこにでもあるような酒場。
パブ『シィ』にふらりとあらわれたその女は、不思議な装束を身に纏っていた。
旅行者――なのだろう。
不思議なイントネーションを漂わせる口調と、エキゾチックな香が鼻をつく。
人の良さそうな笑顔から見え隠れするシャープな美しさは、好色な酒場の若者たちの心をしっかりととらえたようだった。
――面白くない。
「フリーダさん、だっけ。牛車商人っていうとあの、世界中を回っていろんなアイテムを集めて回るっていうアレ?凄いじゃない」
「とんでもない。ただの卑しい旅の者ですよ」
「謙遜しないの、いいなあ。あたしなんか、こんな田舎のパブ専属の踊り子だよ?つまんないったらないもの」
「ふふ、でしたら、一緒にいらっしゃいますか?」
「はははっ、そうできたら良いんだけどねえ。いろいろしがらみがあるのも田舎のめんどくさいところでねえ」
「しがらみ……ですか」
私のペースに合わせて、相当強い酒を煽っているはずなのに、その女は顔色ひとつ変えず、どこまでも微笑を崩さなかった。
――やはり、面白くない。
私は、この村で生まれた。
この村で育ち、この村で齢を重ね、この村で死んでいくのだろう。
たいしてお金があるわけでもないし、特別な夢や野望があるわけでもない。
ただ、あのろくでもない母親から受け継いだ、唯一のまともな遺産――この身体。
それだけあれば、充分だ。
必死になって覚えたステップにあわせて、きらきら光る栗色の髪。
笑顔をつくれば歓声が飛び、しなをつくれば喝采が沸き起こる。
男たちは私に魅了され、うっとりした目で眺め、そして奪い合う。
これ以上、望むことなんかない。
そう――思っていた。
だが、突如村にやってきた、フリーダとか言うこの牛車商人。
こいつは、危険だ。
私の立っている場所を、脅かしかねない。
だってほら、あいつも、あいつも、あいつも、あいつまで。
私を見ていたよりもはるかに熱っぽい目で、この女を見ている。
なんとか――なんとか、しなくては。
村の牧舎から、小さな悲鳴があがったのは翌日のことだった。
「ひどい! 誰が――誰がいったいこんなことを!」
地面に横たわる牛のそばで、フリーダは目に涙を浮かべておろおろしている。
口から泡を吐き、びくん、びくんと痙攣しているその牛。
何かしらの毒物を盛られたのは、誰の目にも明らかだった。
だが。
「『誰が?』 おかしなこと言っちゃいけねえ。まるで、この村の誰かが犯人みてえじゃねえですか。この牛は、良くない病気にかかっとったんです。それはフリーダさん、飼い主であるあんたの監督不行き届きってことになりますぜ」
牛の死を看取った村医者・ハンスは、ゆっくりと立ち上がった。
腰をとんとんと叩きながら下卑た笑顔を浮かべる。
フリーダは、その表情と口調から、何かをはっきり悟ったようだった。
「ええ……よく分かりました。確かに私の監督不行き届きでしたね。失礼なことを申しあげて、すみませんでした」
しおらしく頭を下げたフリーダの様子を見ながら、私はこみあげてくる笑いをこらえることができなかった。
馬鹿が。
あんたがどれだけ世界を知っているか知らないが、この村で私より目立つことなんて許さないんだから。