「よろしいですか?」
脱衣所の方から声がした。
その独特のイントネーションから、その正体はすぐに分かる。
「別に私専用の湯船じゃないわ。お好きに入りなさいな、フリーダさん」
「ありがとうございます」
そう、湯気の向こうからあらわれたのはフリーダだった。
褐色に焼けた彼女肢体には無駄が無く、それは女の私から見てもほれぼれするようなスタイル。
――やはり、面白くはないわよね。
少し熱めの湯に、眉をしかめながら身体を沈め……やがて気持ち良さそうにため息をつく。
「災難だったね」
「え?」
「いや、牛のこと。なんか病気だったんでしょ?」
「あ……ええ」
「牛車商人なのに牛が死んじゃったんじゃねえ。困るでしょうに」
「そうですね、なんとか新しい子を調達しないと……ふふ」
そう、その時、フリーダははっきり笑いを漏らした。
強がりでも諦めでもない、ぞくりとするような冷たい笑顔だった。
私は言い知れぬ不安を感じて……
ああ、あの時、逃げ出してしまえばよかったのに。
愚かにも私は自分の直感を無視して、平静を装った。
「何がおかしいの?」
「あ、いえ、こちらのことです。そんなことよりドロテアさん、とってもきれいですよね」
「……は?」
「特にそのおっぱい。すごくキレイな形してる」
「そ、そうかな」
唐突に話を変えたフリーダの真意を測りかねて、私は相槌を打つので精一杯だった。
そりゃ、胸の形にはそれなりに自信があるけど……
「ええ、すばらしいです。でも、もうちょっと大きくなったら、もっと素敵だと思いませんか?」
「え?」
にぃ、と今度ははっきりと笑顔をつくりながら、フリーダが身体を近づけてくる。
ふわりと、不思議な匂いが鼻をくすぐる。
「ほんとは売り物なんですけどね、ドロテアさんには色々お世話になったんで、特別にサービスさせていただきます」
「え? え? え?」
「こちら、差し上げますよ」
フリーダの手には、いつの間にか褐色のビンが握られていた。
裸だったはずの彼女が、一体どこからそれを取り出したのか――それを質問する暇をあたえず、牛車商人はたたみかける。
「ブアフロの花粉とジアジイ草の種、ホルステの肝を中心に、貴重な素材16種を配合した秘薬です。効用は――ふふ、何だと思います?」
「え?」
「滋養強壮。体質改善。疲労回復。そして、女性の乳房を豊かに成長させること」
「そう――なんだ」
「いかがです、使ってみませんか?」
透き通った声でたたみかけてくるフリーダの口調には、有無を言わさぬ迫力があった。
彼女が言うほどの“お世話”をしたかどうかには疑問が残ったが、世界を回る牛車商人がすすめる物だ。効用はあらたかなのだろう。
あるいは、またとないチャンスなのかもしれない。
確かに形には自信があったが、サイズに関しては若干の不満がないではない。
踊り子としては程々くらいの方が都合がいいのだと自分に言い聞かせてはいたのだが――大きくなるというのなら、それも悪くない。
ぜんぜん、悪くない。
「じゃ、じゃあ……使ってみようかな」
「そうこなくちゃ」
ぽん、と音を立てて、フリーダがビンの蓋を開ける。
とろりとした半透明の液体を左手で受け止め、それを馴染ませると……
「失礼」
「!」
薬でてらてら光る両手で、おもむろに私の両胸をつかんだ。
あっけにとられる私が抗議の声をあげようとするのを見越したかのように、柔らかい口調で囁く。
「大丈夫。ちょっとくすぐったいけど、すぐ良くなりますから」
“良く”って何、と口に出す前に、私はそれを理解していた。
とろとろの薬液にまみれた、フリーダの長くしなやかな指が施す奇妙なマッサージ。
吸い付くように、舐るように、甘く咬みつくように、私の乳房を――乳首を、嬲る。
――気持ちいい。
「ん……っ」
びくん、と身体が動く。
知らぬ間に声を漏らしていたことに気付いて、愕然とする。
フリーダの目が、楽しげに光る。
「ステキです、ドロテアさん。薬との相性が良いんですね」
「うぅ……はぁあ」
「見せてあげたいなあ。すごくステキな――イヤらしい顔してる」
「み、耳もとで、喋んないれぇ……息が、かかると、あ、あああ!」
フリーダの囁きがあんまりにも甘すぎて、耐え切れなくなった私は嘆願する。
その台詞そのものがまともな言葉を紡がず、自分が尋常ではない状況に置かれていることをはっきりと物語っていた。
どうして自分がこんなに興奮しているのか、不思議でならない。
たかが、胸を触られているだけのことなのに。
――胸?
「!」
ようやくそれに思い至り、胸に目を落とした私は、思わず息を呑んだ。
異国の薬とは、こんなにも効果があるものなのだろうか。
数分前にくらべて、はっきりとその質量を増した私の乳房が、フリーダの手の中で蠢いている。
風呂の湯でほの紅く色づき、薬液で艶やかに光り、ぶにゅぶにゅと揉みしだかれるその肉の塊は、まるで私の身体ではないようで――少なからず、グロテスクに見えた。
いや、それが異様に見えたのは、それがいまだに脈打ち、じわじわと膨張を続けていることが目視できたからなのかもしれない。
大きくなることは悪くない。
ぜんぜん悪くない。
でも――それにも限度ってものがある!
「や、や、やめっ!」
「え?」
「やめっ、あぁあああっ!!」
「どうしたんですか、ドロテアさん?」
――言えない。
やめて、という言葉が、どうしても言えない。
やめて……ほしく……ない。
この異常な状況に、若干の恐怖心を抱きつつも、胸からもたらされるその感覚があんまりにも気持ちよすぎて……言えない。
やめられたら――きっと、狂う。
でも、続けられても、きっと。
「ああああああああああああああああああああっ!」
「ほら、凄い凄い。こんなに大きくなってる。こんなに相性が良いなんて、私にも予想外でした」
フリーダの笑顔から、はっきり分かる。
この女は、私の考えていることを、全て分かった上で――
「ええ、分かってますとも。私の牛に毒を盛らせたのが誰なのか。そのひとが、何を考えていたのか。私にはぜんぶ分かってます」
「ゆ、ゆるひッ」
「許す? 勘違いなさらないで下さい。私は別に怒ってるわけじゃないんですよ。むしろ、ドロテアさんには、感謝しているくらいなんです。ああ、ずいぶんいい感じになってきた」
「!」
フリーダはいとおしげに私の右乳房を持ち上げ、おもむろにその先端を口に含んだ。
頭の奥で、快感の塊が破裂する。
視界が、湯気よりもなお白く塗りつぶされていく。
「ふぅわあああッ、ぐ、ばぁあああっ!!」
彼女の舌が、歯が、唇が、甘くせつなく私の乳首を愛撫する。
コリコリと転がしたり、痛いほど吸ったり。
程よい所でその役目は右手にシフトして、今度は左の乳首を……
そのリズムのひとつひとつが、私の歓びを凄まじい勢いで倍増させていく。
おかしい、こんなの絶対におかしい……!
「ふふ、可愛い。それじゃ、そろそろ本番、いきましょうか」
たっぷりと時間をかけて弄ばれた私の乳首が、人間にしてはありえない長さと太さに成長していることに驚いている暇すら、フリーダは与えてくれなかった。
両の乳房をがっしり掴んで、口の中で何かを呟く。
「あ、なにっ、する、のっ?」
「……やめて欲しいですか?」
笑顔を張り付けたまま、フリーダが尋ねる。
きっと、あれが最後のチャンスだったのだろう。
私が人として生きる、最後のチャンス。
でも。
いったい誰が、あの状況下で言えるだろう。
あの恐ろしいばかりの快感と、圧倒的な威圧感を放ちながら恐ろしいばかりの優しさを滲ませる女を前にして、誰が「やめてほしい」などと言えるだろう。
私は、沈黙を以って――応えた、のだと思う。
女はひときわ嬉しそうに頷くと、両の手に力をいれて、私の両乳房を……
ひきずりおろした。
何の比喩でもない。
ずりゅん、と妙な音をたてながら、私の胸で成長を続けていた肉塊は鳩尾の上を滑るように移動し、へそを通り抜け……下腹部で止まった。
痛くはなかった。
むしろ、新しいポジションに移動したそれらを馴染ませるかのようにやさしく揉みほぐすフリーダの手が気持ちよくて――そう、パニックは遅れてやってきた。
まっ平らになり、乳首すら残っていない私の胸板。
呪縛から解き放たれたかのように嬉々として、よりいっそうの膨張と変形を始めようとしているピンク色の乳房。
それ以上に大きく、長く引き伸ばされ、快感を待ち構えるように勃起している2本の乳首。
あ。え。あれ?
……2本の、乳首?
それじゃ、フリーダが今マッサージをはじめたものは何?
彼女の両手が上下するたびに、快感を伴ったおぞけを脊髄に走らせてくる、みるみる成長をしていくその突起は……
「ら、にっ、それ、何ッ!? あ、あッ」
「ふふ、分かっているくせに」
フリーダは目を細めて、右手にきゅ、と力を込める。
私の身体の中で、何かが、何かすごく大切なものが粉々になって……声が、漏れた。
「あ、ああああああっ!!」
ぶしゅう、と白い液体が、その突起からほとばしる。
いや、違う。
もうひとつの新しい突起からも、それは滲んでいる。
そう、たしかに私はもう理解していた。
認めたくなかっただけなのだ。
それらが、私の新しい乳首であることを。
もとの一組とあわせて、四本。
ソーセージのような突起をぶらりとつきだした、ピンク色の醜い肉塊。
人間には明らかに存在しないその器官が何なのかも、私は知っていた。
「そう――牛さんの、お乳です」
「いぃやぁあーッ!! だれかっ! られかッ!?」
「あはは、どうしましたドロテアさん。言ったとおりでしょ? こんなに大きくなりました。すごくいい色。すごくいい形、それに――味もいい」
私の乳から噴き出した白い液体をぺろりと舐めて、フリーダは笑う。
背筋を、恐怖が走りぬける。
走り抜けた先に、ぴくん、と動く感覚。
これって、まさか――尻尾!?
「んだぁれかぁあっ! られぇかっ! た、すけれぇえええ!!」
「あはははは、おっしゃってたじゃないですかドロテアさん。私と一緒に旅に出たいと。しがらみさえなければ、行けるのにと。ふふふ、そんなしがらみ、私が絶ち切ってさしあげますよ」
「んだぁれかぁあああ――ッ!!」
呼んだからといって、誰かがきてくれるとは到底思えなかった。
だが、叫び続けていないと、この状況に飲み込まれてしまいそうで――
これを、現実であると認めてしまいそうで。
なんだか発音すら怪しくなってきている声を、全力であげ続けた。
その時。
からり、と音がした。
風呂場に、誰かが入ってきたのだ。
かすかな希望に胸を躍らせる。
だが、よろよろとおぼつかない足取りで湯気の中から姿をあらわしたその人影は、私の心臓を凍りつかせた。
「あ……」
ほぼ全身を覆いつつある、黒く太い体毛。
両手、両足の先には蹄が発達して、裸足なのにかつかつと固い足音を響かせる。
尻からは長く尻尾が伸び、歩くたびに左右に揺れている。
そして頭から一組の角を生やし、もはや人間の面影をほとんど留めていない、その顔。
だが、変形した顔面にひっかかる眼鏡と、その奥で涙を流しているおどおどした目には見覚えがあった。
こいつは――村医者の――
やめて、そんな恨みがましい目で見ないで。
私のせいじゃない。だって、私は“独り言”を言っただけじゃない。
――あの牛が病気で死んだりしたら、困るでしょうね、彼女――
あとは、あんたが勝手にやったことでしょう?
いい歳して、私に色目を使って。
一回やそこら寝たくらいで、私の恋人にでもなったつもりだったの? 笑わせないでよ!
そ、そうよ、私が恨みを買う理由なんて何もないはず。
あんたはひとりで、勝手に牛にでもなんでもなっちゃえばいいのよ!
「ド……ドぅろォテあぁああアアあああ……」
腹のそこから響くような、低く太い声でそう叫びながら、そいつは転倒する。
固い蹄は、風呂場の濡れた床の上で肥大し続ける体重を支えるのには、あまりにも不適切だった。
立ち上がろうとした瞬間、そいつの目に切ない動揺が走った。
――ああ、もう、立てないんだ。
必死になって起き上がろうとしているのは分かる。そして、それが不可能なことも。
「う……うぐォオオオオオ!? ぐもぉオッ!!」
背骨がきしみ、骨格が最後の変形をはじめる。
ごきごきと音を立てて、そのシルエットは“完成”に近づいていく。
それに呼応するかのように、私の呼吸まで苦しくなって――いつの間にか固く膨れ上がっていた手の指が、もはや“蹄”といっていいレベルに達していることを理解する。
たった今、目の前でフィナーレを迎えようとしている見世物と、そっくり同じプログラムを自分がたどろうとしていることを、はっきり理解する。
「やめっ! あ、あぐっ! ゆぅるぅひてぇえええ」
長く伸びてろれつの回らなくなっていく舌を必死に操って、フリーダに懇願する。
フリーダは無言で……たまらなく愉快そうな笑顔だけで、それに応えた。
ああ。
この女は――魔女だ。
相手にしちゃ、いけなかったんだ。
ぞく、と鳥肌がたって、それを合図にしたように全身から固い獣毛が噴きだした。
そこから後のことは、もう思い出したくもない。
ごきごきと音を立てて伸びてくる鼻面が視界に入ってきた時のことなど、思い出すだけでも背筋が凍るようだ。
自分のあげた悲鳴が牛の“鳴き声”に変っていることに気付いて、それにまた悲鳴をあげて、それがまた太さを増していることに気付いて……そんな間の抜けた一人芝居を演じた時のことなど、記憶から消し去ってしまいたい。
いや、ここまでだって思い出したくなんてなかった。
だが、他に何ができるだろう。
牛車にくくりつけられ、自分をこんな身に落とした女の鞭にただただ従い、この炎天下をとぼとぼ歩いているだけの家畜に、あの時のことを悔やむ以外に何ができるだろう。
この姿になって数ヶ月、私は自分の浅はかさを、人間だったころのことを思い出さなかった日はない。
きっと、おそらく、何度でも。
一度食べた草を吐き戻して咀嚼しなおすように、私は後悔と絶望を味わい続ける。
もはやそれだけが、私が人間だった証なのだから。
ああ、それにしても――
暑い。