その狐はふと口にした―お主、再び、子を孕みたくはないか?と。
一体、何を唐突に、と夢の中で反射的に返すなり、狐は更に続けた―何、御託はいらぬ。いるのはお主にその気があるか否か。ほれ、答えてみよ?
問いかけはそのままの直球であった。放つのは全体として黒くぼんやりとした姿に、白にほんのりと紅を含んだ顔は平たくなく、スッと前に突き出した口が特徴的で語られる度見える咥内は、それこそ真っ黒で闇そのものに満たされている存在。
それを狐と称したのも、その突き出た顔が狐面、それも能だとかで使われる類いのそれ、そのものであったからに理由はない。カタカタと動く口はその度に上顎にある髭が揺れるので補われ、それらによりその言葉に実体が盛られていたと言えるだろう。だから、聴覚としても、視覚としても、彼女はしっかりと反応してしまう。いや、せざる以外に選択肢はない。
しばらくの沈黙の先にまた狐は問う。どうだ、どうじゃ、と一定のリズムすらある具合の内に、すっかり引き出された答えは肯定。そう、また子を孕みたくはないか、との問いかけにそうしたいと返すのは、まるで想定されていた規定路線のごとしであった。
そこで目が覚めた、となれば、それこそ夢そのものであると言えるだろう。妙な夢、夢見心地としては悪い夢、起きてからしばらくはそうであれ、しばらくしたら忘れてしまう程度の夢でしかなかったろう。
しかし、そうとならなかったのは続きがあるからに他ならない。肯定の返事を返すなり、狐はふと手招きを向けてきた。こちら、こちらとの手招きに踏み出せば、もう片腕にてその体は捕らえられ一気に引き寄せられる瞬く間の出来事。
その後、わずかな距離をおいて互いの顔が保った距離はゼロ距離に近い。何時の間にか、その狐面であった顔は白毛に覆われた生き物としての顔に変じ、咥内には真っ白に生え揃った歯牙と赤々とした歯肉に舌が獣臭い息と共に躍っていた。
「くく、また孕む身になれる心地はどうじゃ?なぁ、人の身よ」
言葉の具合は丁寧、しかし、沸く気持ちを抑えられない具合であった。
「我はもう、今すぐにでもお主に施してくれたくて仕方がなくてのう…ほれ、そちらを向け」
彼女は言われるがままの方向に顔を向ける。先ほど、狐の側に向かったばかりなのに?と思えつつも、直接、姿の見えない明後日の側を向いて間もなくだった―その首が胴体から切り離されたのは、そして獣臭い息の中、赤黒さと暗闇に咀嚼されて弾けたのは、夢の終わりを告げるものだった。
悪夢より醒めた時、それは個人差はあれど大いに汗をかいていたり、あるいは神経が高ぶっていたりと平常ではないのが大半だろう。
彼女にしてもそうであった。しかし、同時にあるのは落ち着きであり、体の軽さ、そしてイヤに体にまとわりつく濃厚な汗であった。
「…うぅん」
喉からは軽く呻き声を漏らしたとき、彼女は自らの体に変化が起きたのをふと悟った。いる場所が変わった訳ではない。場所は自宅の一室、八畳間の中に置かれたベッドの中から身を起こし、縁に腰を下ろした時、絨毯挟んで置かれている平机の上にある気配に視線をスッと向けるのみ。
「目覚めたかの、どうじゃその体は?」
口調は軽さを得ていた。声自体は変わらないがそこにはこれまで加わっていた年の厚みとも言える何かはなく、それが若さへと変わり、改めて彼女に対して語り出す―その傍らに何かがいる、いる、表するなら侍らせられている、我が娘に彼女は気付いて動揺すらしなかった。
最も動揺しなかった、とするよりも、出来なかったが相応しい。彼女はその狐の傍らにいるのは娘にであるのを認識すると共に、最早、自らが情をかけるものではないと当然のように浮かべてうなづくのみだったのだから。即ち、それは追認に近い、改めての同意の意味合いが込められていたのだろう―自らの蛇腹のある若々しい体との引き換えとして、供物として自らの娘を狐に捧げた証であった。
何時、その条件を呑んだのか、その記憶はどこにも見当たらなかった。しかし、彼女からしたら、今、こうなっている現状こそがその証拠以外の何物でもないからこそ、異議も何も浮かばないのである。
最もそんな事は彼女―即ち、母親と「狐」の間でのやり取りにしか過ぎない。事情知らぬ者にとって一体何か、であろうし、それが文字や言葉だけであるならともかく、視覚としても受け取れてしまったならば、その混乱と言うのは一層増すものではないだろうか。
それは新たな彼女、我が娘、つまり子供にとって言えた事だろう。久々に帰省した実家、母との夕飯を楽しみ、軽くお酒も含んで、慣れ親しんだ湯船で体を伸ばし、さて寝ようか、としたところでふと気づいた物音に釣られて先に寝入った母親の部屋の前にある闇の中へと入ってみれば、今に至った、としか出来ない。
(何なのよ、ねぇ、何これ・・・っ)
最初は呆気にとられた、との具合にしか受け止められずに成すがままにされていたに等しかった彼女も、ふと感じた刺す様な痛みで我に返れば、この光景。言葉は何故か響かず、口をパクパクとさせているしか出来ないのにも戸惑いを覚えたものだったが、それ以上に、繰り返す様だが視野に入ってくる光景と、自らにされている事に比べたら、その声が出ないとの事に対する戸惑いは小さなものでしかなかった。
自らに、彼女にされている事は言うなれば「愛撫」。
全身を、特に性的にアピールする様、機能する様に出来ている部位は丹念に、との具合で撫でまわされ、時として抓られ押され、の具合で彼女は弄られ続けている。
そして、その一つ一つの刺激が不思議と体に染み入ってくる。それぞれの動きは他愛ではないものなのに、幾らかの連続した流れとしてとらえてしまったが最後、今では全身の筋に、神経にと甘美な、続きを欲しくなってしまう刺激として入り込み、認識してしまった脳みそは鼻腔に来る独特な臭いに感じる忌避感すら忘れてしまうほどに蕩けてしまう。
最も、だからと言って臭いに対する忌避感が無くなった、との事はなかった。忌避感から来る警戒心、あるいは違和感は彼女の理性と冷静さを支えるものであったし、だからこそ感じつつも、現状把握を継続出来て、ますます彼女は戸惑いと、それを上回る快感の中に悶えてしまうほかなかったのだった。
少しばかり遅れたが、その臭いについても触れておかねばならないだろう。それは大変に鼻を突く臭い。悪臭とまでは行かないにしても日常としてそこまでの強い臭いに人が触れるのは十中八九、悪臭の類であろうから、今の人間である彼女もまた、その一種と認識していたのは事実だった。
しかしそんな臭いを鼻腔から嗅ぎつつも感じている、脳は決して不快一色ではなく、快感に大半のリソースを割いていてとてもその状態を脱しようにはなかった。
本当に不快ならばどんなに楽しい事でもそうではなくなる。明るい色合いにわずかな灰色が混じっても大したことはないが、その量が増えれば増えるほど、明るさは覆われてくすんでいき、しまいには灰色ですらない、何色かもわからない暗褐色と化すのと同様、人の気持ちもまたそうした歩みを経てしまうもの。
しかし彼女の脳は一向にそうならなかった、故に気持ちもそうはならない。脳も気持も快感に染まって酔っている中では「灰色」としての機能を果たすべき「臭い」も次第に、逆に快感へと捕らわれて、その「灰色」も快感をより増幅させる効果をむしろ付与される様になり、わずかに感じている相変わらずの違和感以外は最早、嗅げば嗅ぐほどに彼女を酔わせ、時としてよがらせるものへと転じるしかなかった。
今やその「臭い」は、前述の愛撫と共に彼女の気持ちと体を熟れさせていく効果を果たすのみ。今、この瞬間も彼女の口からは甘い吐息が漏れてしまう、口からは「言葉」は相変わらず出ない、そう出ない。しかし代わりに感じているのを示す吐息と、独特な「鳴き声」だけは、パクパクとしている「言葉」の為の口の動きと競合するかのごとく、部屋に響いていたのだ。