特製の正体・第1話 冬風 狐作
「じゃあ、こちらに御印鑑お願いします」
「印鑑をこちらに」
「ああ、じゃあ…その判子押しといてよ」
 判子、そうハンコ。日常で一体どれだけ接するか分からない程に馴染みのあるその存在は、時として非常に重きを置かれ、またある時には軽く扱われる不思議な存在だろう。そしてまた人の一生についてまわる存在でもある、出生から成長、婚姻あるいは離婚、そして死亡、かつて揺りかごから墓場まで、との言葉があったが、その言葉の謳う医療制度が若し、この国にあったとしたらそれは当然、判子の上に成り立っていたに違いない。
 そんな時として人の人生に関わる、即ち、左右するだけの能力のある判子は様態によって様々な物を見せる。それは判子の大半を占める持ち手の部分の造形と印影を生み出す面に彫られる彫刻、の2つに大別できるだろう。最も別の観点も入れればその材質もまた重要かもしれない、そしてまた用途も、とあるが不思議と囲まれている内に、また用いている内に自らにあった使いやすい判子を見出していく傾向は多くの人に見られることであるし、当然ながらある種の人の気持をくすぐる要素を持ち合わせた存在、と言えてしまえるのではなかろうか。
 故に今日はその、判子に魅入られてしまったある人の事を取り上げるとしよう。人が深みにはまるほど、それは予測しえない未来へとつながるのだから。

 彼にとり、日々過ぎる時間はそれは早いものであった。日頃している仕事は基本的には同じ内容の繰り返し、最も時として突発的なハプニングもあったのだから、まずまず飽きの来ない内容ではあったし、職場での評価も悪くないものを与えられていたから、職業人としてそれは妥当かつ安定していたものだったのだろう。
 しかし一方では充実した日々、殊に仕事においてそう、と言えてしまうのは仕事以外での己を犠牲にしている事でもある。それは既婚者であれば家族、また未婚者であれば友人知人、対人関係だけ見ても複数の人間がそこに浮かんでくるものであるし、更に何らかの趣味を持っているのであれば、とても時間なぞ足りたものではない。
 幸か不幸か、彼はそれと言った趣味を持ち合わせていなかった。故に、彼は社会人とするよりも職業人、と評した方がよろしい生活を送っていたとも出来、それに彼自身としては満足していて、何か時折小さな不満や考えを抱く以外では、その日が来るまではとてもではないが、それが絶対で、変わる事などとても浮かばない、と見るのが圧倒的な自ら抱ける考えであった。
「ん…」
 その日、彼はしばらくを独りでいざるを得ない環境に置かれていた。1人、ではなく独り、と評したのはその環境から開放されるまで、とても誰かと出会える確率はないに等しいから。恵まれていたのはそこには明かりがあった事だろう、普段なら頼りない、としか思えないひとつの電球だけが吊るさった密室に、何の手違いからか閉じ込められてしまった―即ち、そこは地下室である、訳あって入っている間に外へ出られなくなってしまったのだ。
 彼にとり、体力等を考慮するならいたずらに騒いだりするのは決して懸命な判断ではなかった。この地下室の中には何か毒になるものだとか、そうしたものはないのは承知していたからこそ、でもあるのだが食料や水の確保を考えると満足ではないのもまた見える事実。何より不明だったのはどうして出られなくなったのか、であった。手元にある鍵を試しに、内側から通してみれば鍵はかかった、つまり外から鍵はかかってないのは明らかだった。
 しかしノブを幾ら回してもドアは開かない。室内から見て外開きのその扉は何か外から、鍵以外の存在によって圧力をかけられ閉じられているのは明白であり、その「何か」が不明である以上、余計に何か力を用い、あるいは叫んだりするのは無駄だと感じられたからこそ、彼はその中に置かれている椅子に使って電球の淡い光の下で、分かっている範囲での考えを巡らせては、足を組み替え、また溜息を付いて過ごしていた。
 そして一体どれだけが経過したか―少なくとも彼の身につけていた時計は完全に一周りしていた―と思いながら、ふと感じた眠気を覚まそうと体を起こしたその時だった、カン、と軽くしかし密度の詰まっている物体故に響かせる事の出来る音が耳に届いたのは。
 何を落としたのか、ふっともらしたつぶやきの内に当てを付けつつ、薄暗い中で半ば手探りでいると比較的間もなく、その物体は指先にぶつかり、そのまま手のひらへと収められた。
「…判子、ああそうか、いけないいけない」
 こんな空間にどうして判子が、と言わんばかりの表情を一瞬浮かべつつも、すぐに彼はなるほど、と言わんばかりの形に口をしつつ立ち上がり改めて、手のひらに収めたそれを見る。それは紛れも無く判子であった、間違う余地のない位に典型的な判子で、かつ自らの名前が彫られている、今の仕事に就く以前の仕事から愛用している判子であった。
 その用いてきた日々もあってか、かつてその持ち手のところにあった白い一筋の線―恐らくは指を当てるにふさわしい位置を示すものだろう―は今ではすっかり消えてしまっている。明るいところであれば凝視すればその痕跡はわかるだろうが、このわずかな明かりしかない空間においてはそれは困難な話であったし、あくまでもふと浮かんだ過去の姿から、ああそう言えば、程度に浮かべたものでしかない。
 しかしその判子は、わずかに遅れて、途端にある種の存在感を彼に与え始める。当然、日頃から仕事の上で必要となる度に手にしている、ある種の相棒的存在であるから一定の存在感はあるだろう。しかし、今は違った、そう判子としてよりも、その物体がこのとじこられた空間にて自らが発する以外の音をもたらした事、それこそが今、彼がその判子に見出した存在感であり、そこからふと退屈で最早凝り固まりそうであった意識は再びの覚醒を遂げていったのだから。
 その意識により、判子自体の黒光りする姿、幾重も重なった朱の色の濃厚な彫刻面、それは途端に興味を惹く存在に変わった。電球の下で見る位置を変え、置く位置を変え、との具合ですればするほどそれは感じられて仕方がない。若し、彼を見るものがいたらその目は爛々として輝きを放っていたのを決して見逃さなかっただろう、また口元が緩み、終いには童心を思わせるほどに変わっていく様を見れたならば、退屈さの中で、また孤立の中での偶然な判子が「落下した事」によりもたらした「音」がどれだけ、彼の意識を刺激し、また蘇らせたのか、感じる事が出来たに違いない。
 だからそれからまたしばらくの時を過ごす彼は決して独りではなくなっていた。そう「判子」なる存在を得た、あるいは再認識した事から退屈さで窒息しそうになっていた意識に、またつながる肉体は活力を得、自らを深みから引きずり出してくれた判子こそ、「頼り」になる存在であると、知覚のコントロールの及ぶ範囲よりもより深い領域の意識が見出した事から彼は、救出までのしばらくの時間を生き延びることが出来たのだった。

 以来、彼はそれまでとは違った欲求を抱く事になる。それまでが前述の通り、仕事と共にあれば良い、であったとするなら、今では仕事に対する欲求はほどほどに、へとまず変わっていた。そして仕事から振り分けられた、浮いた欲求が向けられたものこそ、そう「判子」であった。
 まずは知識を、判子の種類から材質、彫刻の形など、と言った辺りから追い求めた後、続いては知識を活かして判子を見る、即ち幾らでも触れられる様に骨董市を始めとした場所に出回っている多数多様な判子を蒐集し…と欲求を興味にとどまらせず趣味として活かしだしたのである。
 しかし、それまで趣味を持っていない人間が一度夢中になったらどうなるか。それはある意味明らかだろう、初めてゲームだとかスマホを与えられた子供がひたすら夢中になっていくのと同様、彼は判子に夢中になっていった。そしてただの趣味の範囲で終わらなくなっていったのだから、もうどうしようもなかった。これがまだ、例えば何かの追っかけだとか、そうした目立つものであればまた違ったであろう、しかし彼が追い求める「判子」は決して目立つものではない。だからこそ周囲が知らぬ間に、彼はすっかり判子へと興味を注ぎに注いでは、またそこから導かれる新たな出会いを得たのであった。
 きっかけはある骨董市にて、店主と交わしていた会話であった。奇しくもその店主も判子に対する造詣が深く、更に判子によって捺された朱肉の乗り方であるとかにも話が及んで、そのやりとりの結果、目当てとしていた幾らかの判子を若干割り引いて手に入れる事に成功した彼は、気持ちもまた上々として骨董市の会場からほど近い喫茶店で一息入れていた。
「もしもし、ちょっとすいませんが…」
 コーヒーを軽く冷まして一口、ようやく口に含ませた時だったろうか。ふとかけられた声にびくっとなってから、コーヒーを口元に運ぶ姿勢そのままに首を回すと、そこには腰を曲げてこちらに顔を寄せている姿があった。
「驚かせてしまってすいません、その、ちょっとお話したいことがありまして」
 男はある紙片―名刺を差し出して、その様に言葉を続けていた。名刺を差し出す、少なくともそれは何かこう、敵対的であるとか、悪意があるとか、最初に取るコミュニケーションの段階でそうした意思のない現れ、と介せなくはない。故に彼はその名前と肩書―今となってはその名刺も何処かへ行ってしまったので明確には思い出せないのだが―を一瞥した後、一体どんな話でしょうかと切り返した、との次第であった。
 男は相席の同意を得てから、空いている向かい合った座席に座り込むと早速話し始めた。最初こそ自らの名乗りであったが、すぐに主題へと切り替わる。どうして男が彼に話しかけたか、それは骨董市でのやりとりを聞いての事。一瞬何か、目の前の男と言葉を交わしただろうか、あるいは何かあっただろうか、と浮かべてしまったが続く内容でああなるほど、と合点を着ければ話はすんなりと切り返せる。
「そうですね、ええ、そう言う会話はしていましたね」
  「良かった、人違いではなくて。それでですね、そこでひとつ、面白い印章についてご紹介しようかなと思いまして」
 面白い印章、確かにそのフレーズは先ほど、店主と交わしていた会話の中身に通じる要素のあるものであった。あの会話の内容を振り返るなら、要は最近、良い出物が見当たらない、とのどちらかと言えば現状に対するマイナスな内容であり、またなにか新しいものがあれば是非知りたいとの可能性への言及、その2つを含んだものとなる。
 男は言った、先ほどの会話の中身から察するに印章―判子について中々に造形や興味が深い事、そしてもっとその物自体に対する欲求が伺えたものですから、と。その辺りの言葉はどこかで彼の気持ちをくすぐっていたのは言うまでもない、故にどこかはっきりと覚えていないのも当然なもので―大抵、ある種の高揚感ないし興奮の中にある場合、人の記憶は移ろいやすい―ようやくはっとした時は男と別れて、帰路の電車の座席に揺られている時であったのだからどうしようもなかった。そう手元にある紙片にまた会う予定の日時が書き込まれているのを見た時ほど、それを感じた一瞬はなかった。

 結局、どこかでは分からぬままに彼はしばらくが経過したある日、その男の招きに従ってある場所へと赴いていた。具体的な場所はこちらについても、比較的最近の事なのに判然としない。ただ余り立ち入らぬ地域ではあって、その中の奇しくも地下に位置する空間に彼は通されると早速あるものを見せられた。
「これは…また変わった感触ですね」
「そうでしょう?これは本当に特製です、中々出回るものではないですよ…それは記念に差し上げましょう」
「よろしいのです?特製となるからには…」
「いやいやお近づきの印です、折角の機会です、それはあなたにとって意義のあるものになることでしょう」
 どう「意義」があるのか、正直すんなりと飲めこめはしなかったが何れにしろ、贈り物をされて悪くなる人はまずいないの判から当然彼も外れる事はない。しばらくはその判子を手の平に乗せて観察しては、握って感触を確かめ、彫刻を見て、実際に捺してみてとする内にそれに対する興味を増していく。
 特に惹かれたのは持った時の感覚だろう、木製とも、あるいは金属とも違う感触。しばらく握っていると不思議と程よい暖かさを帯びてくるそれは確かに覚えがない、特製との言葉が殊の外似合う代物であるのは明らかなところ。
 最もその場で幾ら訪ねても男はその材質について、またより詳しい内容に踏み込む事はなかった。まぁまぁ、そんなに急がなくとも、との具合で微笑みと共に他愛もないのだが、しかしついつい乗っかりたくなってしまう内容の話を振ってくる。だから結局、その日その場では具体的な事をより知れる機会には恵まれなかった、その点はどこか不可解ではあったが、何しろ、この趣味故に色々と語れる相手に飢え気味であったのもあって、以後しばらく、主に判子談義を楽しむべく、その男の招きによってその場所を訪れるのを繰り返すのに尽きるのであった。


 続
特製の正体・第2話
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