秋雨の狐娘・前編冬風 狐作
 秋雨は何とも静かなものである―彼女は、ふと思いを巡らせていた。
 雨には季節に応じて様々な姿があり、それを「人」は異なる名前をつけることでよりはっきりと表現させて行く。最もそれは雨に限った話ではなく、それ以外の様々なものにも及んで行く。そう、区別する事により表現を増やして行く事は人の特技、自然に生じた、あるいは人為的に生じた「違い」に名前を着けて区別して行く事が好きなのだ、とすら言えてしまえるのではないだろうか、そう彼女は思考していた。
 そもそも「違い」について決して存在しない、と断言出来る代物ではないし、根拠もない。来る人、ひとりをとってもその土地、つまり風土に応じた言語や方言を操り、また体の感覚―主として暑さや寒さに対する耐性―も異なり、変化しているもの。ただ、そのままの状態ではただ、抽象的な意味でしか「違い」が存在しないのだとすれば、名前をつける事でその判別はより容易で、より具体化された「違い」となる、と言えてしまえよう。
 そう考えると違いの存在を、あるいは名前だとかによる区別すら時には含んで、否、そんなものはあってはならない、とする理屈こそおかしくなっていく。よってその理屈を得意げに取り上げて、真理であるかの様に振舞うのは、自然の生み出した産物と、ある意味での意志に対する反逆以外の何物でもないのだろう。それは決して報われる事のない、自己満足の繰り返しでしかないのかもしれない、と私は考えていた。名前は絶対の意味と存在があり、変えようなどない、と―彼女はそんな具合に綴れば、筆を脇においては簾の向こうにある雨音へと顔を向けていた。

 季節は秋。あれだけ暑かった夏はもうわずかに昼間に影を残すのみで、他の時間ともなれば涼しくやや乾いた風が辺りを覆っている。人々の服装へと視線を向ければ、まだまだ半袖が目立つ一方で、七部袖もちらほら、そして中には長袖へとすでに装いを変えている人もいる―そんな光景を見ていたのが数時間前とはとても僕は思えなかった。
 そして僕は急な雨の中を駆け足で走っていたはずだった、不意な雨。最も、やや曇り気味ではあったから予兆が全くなかった、とは出来ないのだが何とかなるだろう、とすらも思わずに出かけていた先での出来事だった。
 辺りには家は見当たらなかった、あるのはひとつの簡単なアスファルト舗装がされた道、そこから枝分かれして行く肋骨の様な畦とまだまだ刈られる前の稲を湛えた水田の数々でしかない。そしてその水田もどこまでも広がっている、のではなく幾枚か挟めばその両脇にあるのは鬱蒼と茂る、まだまだ青々とした、かつ、雨に濡れて黒さもある雑木林とそれを抱える山の斜面。そんな田舎の山裾を僕は歩いていたのであり、とにかく、ここに来た目的を忘れて、どこかで雨宿りを、とばかりに駆けているのが現状であった。
 だから、目の前で田圃が切れた時―それは走っている内に山裾が道に迫ってきて、そこから先は雑木林の中へと入って行く事を意味する―に、そこに見えた張り出した木々によって形成されている、と見えた場所は正に、一時の救いの場所としか見えなかった。とにかく駆け込んで、どうせ濡れるのに変わりはなくても、何も覆いもないままに浴びているよりはいい、の考えで駆け込んで一息を吐こうと路肩によった、はずだった。
「へ?」
 不意に風が変わったのは、その瞬間。より清涼感のある、涼しくあっても多分に湿気を含んでいた、これまでとは明らかに異なる風を頬で感じたのは路肩に近寄ってすぐの事。
 思わず、口から変化に対する疑問を一言の呟きとして漏らしてしまいつつも、足は止まらない。確かなのは、その路肩に入った今と直前までとでは雨に打たれている感覚が明らかに違う、とだけであったし、そのしばらくの間、視界が薄暗くなっていたのは、曇りの中とは言え、白を貴重とした明るさの中にいた目が、木々によって作られた暗さの中に飛び込んだ事により、一時的にブラックアウトしてしまっているだけだと思っていた。
 だから、その薄暗さに対して何か疑問を持つ事もないままにゆっくりと歩みのペースを落としていく。次に求めていたのは腰を下ろせる場所、下ろせなくても何か体を預けられる場所、それが欲しいと浮かべつつあった次の瞬間、全てがはっきりと変わったのを示されようとは、夢想だにしていなかった、と出来るだろう。

「湯加減はどうだったかな?」
 だから今、あれだけ雨に濡らされて冷えていた体に暖かい湯気を残り香をまとって、芯に至るまでほどよい暖かさに包まれているのはまだ夢であるかの様に思えて仕方なかった。かけられた言葉には微笑みながら礼を述べつつも、気持ちとしてはまだ落ち着いていなかった。そして、そう整理が出来ていないのをすっかり目の前にいる相手には見透かされているのを分かりながらも、僕はただ続く言葉にうなずきを返しながら、こちらに向けられた背中に従って、決して広くはないが小ぎれいに整えられた床の感触を足の裏に感じて歩んで行く。
 鼻腔を突くふとした香り、余り慣れない系統のこの香りがどこから出ているのかはもう把握している。それは前を行く、僕よりもやや小柄な背格好の主人―要はこの家の主である―が発している。肝心なのは纏っているのではなく、発している事だろう。これもまた、僕がまだ気持ちの整理を着けられない原因のひとつでもあるのだから、触れておくしかないだろう。
 まさか、どう見ても一見しただけでは人にしか見えない主人が人ではない、とは信じられるだろうか。きっと言葉でしか聞いていなかったら荒唐無稽と内では決め込んで片付ける事も出来たろう。
 しかし視覚を以ってその証を示されて、確認してしまったらもう別である。更に今、鼻で、即ち嗅覚によってもそれを感じてしまっているとなると、とてもではないが、短時間で気持ちの整理、そう納得が行く事が出来るほど、僕は高等さ、あるいは単純さは持ちえていない。幾つかの証拠を示され、確たるものとしか感じられなかったならば、それを覆せるほどの確信を抱けるほどの度量もない、一介の人間でしかない。
 また、もう1つは、迷っている。それは、相手をどう呼ぼうか、それも自分の認識の中でどう呼んでしまおうか、との事。相手がこの屋敷の主であるのは分かっている。その実の性別、している言葉遣い、そしてその音程、とそれ等がここに相対とも相反しあっているとも出来る状態にあるのが、ますます、その迷いを困惑へと深めていってはどうしようもなく、認識を定まらせないのだ。
 そう、前を行く背中は女性的なもの。実際、身に纏っているのも女性物で和式な具合の部屋着であって、胸も確かにふっと垣間見えた。しかし言葉遣いがいかにも男性的だった、言ってしまえば断定調で、要ははっきりとした使い方。また調子もノリが良く、少しばかり酒を召した男性的な気前の良さ、そこに通じるものがある。
 しかし、音程は高いのだ。そう、女性的にキャッキャッと表現の似合う程度に高くあって、それはその体にとても合致していた。そう、ただ何かそれっぽい、のではなく、明確な男性らしさ、また女性らしさ、どちらもある女性であるからこそ、僕は認識の中でどう、表現したものか悩んでいるのである。
 彼は流石に違和感がある、しかし彼女、とするにはやや納得いかない、主人はまぁまぁ、女主人でもまぁ悪くはない、でも―そんな具合で、今ではどこかで匙を投げかけていて、早くその名前を名乗ってくれないものか、とすら思える始末。
「名前は何と言うんだい?」
 そう尋ねられた時は、すわ、これで解決する、と思って嬉々と心の中を染めて―佐久間雄一、サクマユウイチ―とフルネームで名乗ったもの。
「そうか、ではユウちゃんと呼んであげよう。うん、名前以外で呼ぶのはかたくるしいからね、ユウちゃん!」
 元気に、との言葉は正に似合っていた。だから、そのまま連れて行かれた先でもずっとユウちゃんと相手は―もう、こう呼ぶとしよう―「狐」は、何かある度に呼びかけてきて、しかし己の名前は全く口にしない。
 そこには隠している素振りは一切ないのが、またうまい。誰しも上手く隠していても、時としてふと言いかけてしまっては、はっと慌てて隠すだとか取り繕うのはどんなにしても、ふとあるもの。幾ら訓練された達人であったとしても、万に一はあって、それこそ避けられ得ないと言うのに、その狐には本当、それがなかった。本当、感心するほかない。
 そして、何時しかそれは僕の心を解していく。結果として名前を尋ねようだとか、更に言うなら、つい先ほど、こちらが名前を聞かれる寸前まで、心と頭を唸らせていた相手をどう呼び表そうか、との悩み。それ等をどうでも良い、ふとした一時の時間つぶしに過ぎなかった、とすらに認識が、その狐の言葉を聞けば聞くほど変わって行くのに気付けて、しかしどうしようもしようがなかった、と出来るだろう。
 そう、僕をますます、その場の空気、即ち「狐」が誘い作り出す場の中へと僕は己の認識の変化によって放り込んで行ったに等しかったのだから。つまるところ、求められた事に答えて考えるのみの受け身の具合から、自ら求められていない事も含めて考えて答える、そんな具合に積極的に己をさらけ出す勢いへの、その場における変化以外の何物でもなかったのだった。


 続
秋雨の狐娘・後編
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