秋雨の狐娘・後編冬風 狐作
「そうかそうか、ユウはそんな事をしているのだなぁ、ふふ、面白い」
 通された場所を今更ながら書いてみるなら、そこは四畳間程度の部屋だった。決して、広さとは無縁であるのは明らかである一方、ただそこに廊下からの扉を閉じてしまえば、いるのは主人たる女狐と僕の2人だけ。完全な密室ではなしに、廊下への扉のある面を除いた三方は建物ではなく、外気に接していて、その何れにも簾が垂れ下がっている。
 その内、向かい合う側面同士は腰上程度までの高さの窓であった。そして残る一面は天井から床まで、それは大きな簾の下がっている具合になっていて、それ等によってこの空間は一応の屋根と壁こそあるものの、適度に外気が循環している、清涼な、そして適度な湿度を持っているそんな板の間であった。
 そこに据えつれられているのは円形に編まれた腰掛としての茣蓙が2つに、胡坐をかいたら、ちょうど良い高さの長方形の机が1つ。そして今では、そこには盆とちょっとした菓子、そして椀に注がれた酒が置かれている。
「さぁさ、呑め呑め、呑むに限る」
 本当、全てがこの調子だった。気付けば僕は、雨宿りをしようと飛び込んだはずの木陰、ではなく適度に整えられた屋敷の玄関のひさしの下に姿を置いていて、また気付けば目の前に見知らぬ人、と一瞬見えたのも束の間、その姿は服装を除いて狐―人の体であるのに狐の顔をして尻尾を出し、服に覆われてない所から見える全てにそれぞれ狐色の毛皮を湛えている―へと変わり、すっと手を引かれたかと思ったら、あたたかい浴槽にその身を肩まで浸かっていた、そんな具合。
 唯一はっきりと覚えているのはその浴槽から出る時位だろう、最もそれも呼ぶ声に誘われて、であったのだが、そこから先もまたそんな調子で、今は喉を伝う甘く、しかし辛さの強い酒の感触に痺れているのみ。
「はぁ、美味しい」
「そうか、気に入ったか?ならもっと味わうがいいねぇ」
 ふっと漏らした感想に声が返ると、ふと杯の中の酒の量が増えたようにも思えた。しかし構わずに僕は喉に注ぎ続ける、一度手にしてから、また口に着けてから殆どこの状態のままで、ずっとずっとの昔から、これを繰返している様な心地になってくる。
「ん、んは…はぁ…大分体が気持ちいい…ふぅっ」
 そしてひたすらの繰り返しの果て、流石に酔いが全身の、抹消の神経までを浸した、としか思えなくなる位まで火照って、何とか杯を机の上に戻した時、僕の耳はある音を捉えた。それは今の僕とは対照的に澄んでいる、音、鈴の、音。
 リーン、リーン…シャリーンリーン…  どこからなっているのかと思って、重くなった眼球を回してみれば、それはあの女狐からだった。何時の間にかもあの女狐は装いを改めていた、先ほどまでの服装の影もないほどに整っていて、あの男性らしさはどこへやら、完全な女性らしさ一色へと全てを改めていた。
    それを人は、ざくっと言ってしまえば巫女装束であると言うのだろう。そんな装いをした女狐は髪につけた飾りの鈴を、その激しくも大仰しくもない、穏やかで小振りな舞に鳴らして、時としてこちらをすっと見てはまた舞を続けていく。
 僕はその時、ふとある事が頭を過ぎった。そう、狐がどうかは知らないが、動物の中には舞うだとか踊る、とまではならなくとも、それに類した動きを見せるものがいる、との事をふと思い出して納得しては、1つの結論をすっと導き出し、それに従う。
 従ったのは体であった、自然と、そうあれだけ、火照っていて重さすら感じていた体が、その途端にそれ等など無かったかの様に、軽くなって起き上がり、舞の動きに大いに遅れながらもついて行こうとする。それに対する女狐の視線はけわしいものではなかった、むしろ柔らかさを新たに生じさせた様に見えて、それがますます僕の認識を、つまり判断が正しかったのだとして後押しして行く。
 リンリン、シャンシャン、シャリーン、リン
 鈴の音は今となっては激しさの一辺倒であった、舞もより活発になっていて、それについて行く僕の動きも同様だった。

 女狐は鈴と共に舞うの言葉がふさわしく、僕は追いつくのがまだまだ精一杯。どうしてか、どうしてだろうか、そう思って動きを見て気づいたのは、その動きをサポートする物を彼女は自然と備えている、その事実。即ち、それは彼女の体、特に違うはその腰より盛んに振られている、尻尾を置いて他にはない。
 狐の尻尾、それが動きを整えているのは明白だった。そうでなければ、あんなにスムーズに激しい動きなどとても出来るはずがない、と僕はまた確信を深めた時、少し意識をそらした時、不意に全てか静かになった。そう、あれだけなっていた鈴のねが一切聞こえなくなったのだ。
 慌てて辺りを見回せば、簾が何時の間にか全て上げられていた。ぼんやりとした行灯の光、外から入り込む満月の明かりによって室内は明るめに、そして青白く銀色に染め上げられている―その視野の中には女狐の姿は見当たらない。
 すわっと思ったのはわずか一瞬、ふっとした気配を感じて間も無く、僕は背後から身動きを封じられた。それが女狐であるのは明白だった、あのふっと香る狐の匂い、そしてごわっとした感もある毛並みの感触、と疑いない。
 僕の首、そして足の動きを封じた女狐は鮮やかに、同時に躊躇無くその手を動かす。すっと服の中に手を入れられてまさぐられたのは股間、そして目当ての僕の陽物―その時まで気付かなかったのだが、硬く勃起していた―を一つ二つと揉んだ後、強く握り締められて、爆ぜた。
 爆ぜたとしても、物理的なのは一切感じなかった。ただ最初だけは握られた、との感触こそ感じたもの、それ以降は感覚的でしかない。感覚的に、何かそこにあった物がするすると解けるにも近い勢いで、四散して消えた、そんな具合。
 そしてその衝撃波は僕の内へと伝わって、下腹部に、胸部に、と膨らみを生じさせる。また、首にあった喉仏は少し遅れて矢張り、感覚的な内に爆ぜて消えて行く―そう、僕が人としての男性的な部分がそれから間も無くの間に一掃されてしまったのだ。
 代わりにその感覚的な消失によって生み出された衝撃波が引き起こしたのは、僕の体の物理的な意味での女性化であった。乳房に乳首に、子宮に、そもそもの全体的な骨格に、肉付きに、と僕は流れる様に、私、へと変わって行く。そしてその私であるのも束の間、その次に来たのは―女狐、その物であった。
 耳に尻尾にふわっと伸びて、口元が盛り上がればそこは牙を適度に生やし秘めさせしマズル。感覚も見えている世界により深みが―それはヒゲによるものだった―生まれて、ふっと体を包んでいく。
 髪の毛は失われ、しかし、全身に生じていく豊かな獣毛がそれを忘れさせるほどに私に毛の感覚を植え付けて行く。忘却を上回る芽生えはふとした高揚感を私の中に生じさせて行く、たまらない、楽しさとして私は、己が沸き立って行くのをかんじずにはいられない。
「あらあら、黒狐じゃないの、めずらしいねぇ」
 その様をじっと見ていた女狐はわざとらしくも取れる位に大仰に最初の声を出して、今の私の様子を描写する―漆黒に、白の混じったその獣毛、それは水に関わる狐の証、めずらしいの、本当に。そうそう、ちなみに私は特にないの、だってほら、凄く普通でしょう?―自らの事を交えつつ、披露される言葉に従って女狐を眺めれば、なるほど、確かに普通の狐色。しかしすっと目の下に走る朱の筋はただ、狐であるのを示しているとは思えない。
 そもそもただの狐ならこの様な姿をして、言葉を操っているだろうか?そう考えれば、その「普通」とする定義自体がずれているものだと出来るし、ずれた中で私は更に変わっているのなら一体どんななのだろう。そんなに興味が抱けて仕方ない程度に、ようやく生え揃った獣毛の感覚を、体格が変わったせいでうっとおしさしか抱けなくなった人間の男物の衣服を通じて、感じながらの高ぶりだった。

 私は今、新たとした装いにもすっかり慣れたからこそ、ここにいる。今では私は女狐たる彼女と同じ存在、妖狐として居る。
 ただ彼女曰く、私の方が「女」らしいのだと言う。最初はそんな事は、と思っていたものの、なるほど、彼女が私がどんな「狐」なのか把握する為、として数日かけて様々な装いを着せてきたり、あるいは食べ物だとか、その辺りを向けてきた時、特に言われるまでもないまま、私が好んで選んだのは皆、恐らく人間としてみても「女性らしさ」を多分にたたえた物であった。
 つい先ほど、ふいと出会った時の装いで比較するなら、彼女が黒だとか藍と言った色合いで身を固めていたのに対し、私は朱や桃と言った鮮やかさのある色をふんだんに使っていた。そして食べ物も私が甘党であれば、彼女は渋さのある物を好む、とした具合であって、一般的なイメージとしても確かに「男らしさ」「女らしさ」で対として比較出来る具合となっている。
 理解すればするほど、私の意識は、また好みは急速に変わっていった。元々出かける事は好きで、今でも好きであるのは変わらないにしても、どちらかとしたら家の中にいる事が増えただろう。だからする事も書を嗜んでは、書付に夢中になり、裁縫、即ち針仕事の楽しさにふと目覚めてしまって、その事を彼女に話して以来の手解きを受けてもう久しい。
 だから宛がわれた部屋の中で今日も私がしていたのはそれ等の事、好みの書―人であった頃に慣れ親しんでいた様な製本ではない、糸で綴られた古風な物―をひとしきり、朝を食べた後に読みふけっては、途中までしていた針仕事に精を出し、昼を食べて、ふと昼寝をしてからは、こう降り出した雨の音に耳を動かしながら書付をしている。
 書付、その内容はその時々によって様々で、日記的な時もあれば、単なる思い付きを書きとめるだけ、あるいは考えを整理する為に書き出すだけ、とあるところ。そこからあてはめるなら、今しているのは考えの整理に近い、目を覚まして気付いた秋雨の存在から書き出した筆をふっと下ろして改めて辺りを見渡した時、私は、ああ今晩だった、とある事を思い出す。

 それは名付けであり、その時が間もなくやってくる事への気付き、と出来る。

 今の私には名前がない、そんな私に彼女が名前を着けてくれるのだと言う。確か、以前に人であった頃には名前はあったものだし、その名前を忘れた訳ではない、何より彼女も知っている。しかし、この姿、女狐となってからの名前は確かにない―色々と落ち着いてきたのだから、着けないと整わないね―その言葉と共に今晩、名前を着けてあげる、と言われたのは1週間ほど前だったろうか。とにかくしばらく前の夕飯の時間にさらっと言われたものであったから、今、こう気付く時まで忘れていたのだろう。
 名前、なかったのに自然と流れていた生活、過ごしていた長くも、決して短くもない日々。それ等を思い返して浮かんだ更なる疑問で今の今まで、筆を走らせていた事を思い出した私は、ふっと口元を歪ませては、ようやく違和感を感じなくなった尻尾―それも三尾―をくっとくゆらせて、どこか悦に入ってしまって仕方ない、ようやく私が私として「名前」を以って始まる、そんな心地に満たされての「悦」であった。


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