彼は自らを人ではない、とまず最初に出会った時に口にしたものだった。伝えられた側の僕は、とてもそのまますとんと飲み込めたものではなく、良くて半信半疑であったのは言うまでもない。何故なら、その姿は人であったのだから。どこからどう見ても人間、ただその見た目の割には言葉遣いや着衣に、どうにも気になるちぐはぐさが大なり小なりあった以外は、年相応の「人間」でしかなかった。
だから首を傾げた、更に思わず薄ら笑いを浮かべてしまった僕に対し、彼はすっとある物を見せた。結果から言えばそれは髭だった、よく見てくれ、との一言で口元に注目するなり、ぴょんと飛び出してきたのが髭、との具合。最もそれはひとつひとつが3から4センチはある長い髭が複数であり、かつ一定の間隔を有する形で上に下にと現れたに過ぎなかった。
何より、相手の顔はまだ人であった。
だから僕は一瞬、それは巧妙な体を張った手品かと思えてしまったものだった。上手いと返そうか、すごいか、あるいは呆気に取られようかとふと思案してしまう位であったから、反応が乏しかったのは当然の事。だからこそ彼は不満だったのだろう、今こうして共に生活しているとそれは改めて感じられるし、その時はあからさまにではなかったが、しばし反応を待っては次第にふとした落胆の色を浮かべだしたのだから。
よって彼は無言のままに次の手を繰り出してきた。それは更なる手品、とはもう言えなかった。効果もそれは大きい、僕が見るからに驚いたのに加えて、彼の「正体」を晒すのを恐らく早めたのだろう。若し僕が髭の披露を見た時に、彼が期待していた様な大仰な反応をすれば、短くて数分、下手したらあと数日後に披露されたかもしれないその変化には、流石に僕は演じるまでも無い純粋な驚きを抱き、示さずにはいられなかった。
「きゅふふ、ほら驚いた。いやぁ愉快だ、愉快だやっぱり、くふ、きゅふふふ」
一体どれだけの驚きをしたのか、となると彼の体にある部位を借りるなら「垂れていた尻尾が驚きの余り立つ」であろうか。それはもうぴんっと、猫よりは太く、また長い尻尾がそうなる、それほどの最初の驚きであったのは言うまでもない。そしてその尻尾は今、僕の顔を撫でている、鼻先を刺激してくれるものだから思わず小さなくしゃみをしてしまい、そしてその余波で特に濃厚な彼の匂いを肺の中に吸い込むと言う、毎朝恒例の姿を呈していたのだった。
「じゃあそろそろ出るのか?」
しばらく抱き合っていた僕と彼は、彼の言葉に対する僕のうなずきによってそのつながりを分かつ。まだ暑い時期だから半袖の薄い寝間着でいたものだから、ふっと体に受けていた彼の暖かさが消えてしまうのはどこかで寂しいものだった。いや、寂しいと感じる様になった瞬間だったのかもしれない、何故ならこの夏休みの前に彼が現れた時からもう数ヶ月が経過する中で、ここまで切なさを抱いた事は記憶に心当たりがないから、と出来るだろう。
「どうした?講義に遅れるんじゃないか?」
「あっ…そ、そうだ支度しないと」
僕の動きがしばらく止まっているのを見ていた彼、その言葉によってまたも僕は動き始める。
「休みボケかねぇ?」
支度を始めた僕の背中を眺めながら彼はふと漏らす―今日から大学だと知っていたらまた弁当作ってやったのに―とも付け加える具合で。
「ああ、ごめん。うっかりしてたから、まぁ今日は登録に行くだけだし、夕方までいる訳ではないから」
鞄を部屋の隅から引っ張り出しての僕の言葉、それに彼がふっとした微笑を浮かべたのが見える様だった。
「じゃあ行ってくるから、多分昼過ぎには帰る」
「ああ、行ってらっしゃい。私はもう少しのんびりしているよ」
そんな言葉をかけあって僕は玄関の鍵を外し、そして外へと足を踏み出す。外は相変わらずの街並みだった、ただ雨上がりとの事もあってか、空が何時もよりも透けている、そんな印象の持てる後期の始まりであった。
その朝以来、僕はどうにも不思議な心地だった。言葉にするならどこか気持ちが落ち着かない、跳ねている、そんな具合だろう。後期も始まり、新たな履修に沿って、また週に何日かはそのままバイトにも行って、少しばかり時間が変わった以外は、更に季節が次第に陰影を深めていく以外は、それは昨年も、その前の年も繰返していたのと大して変わらなかった。
ただ気持ちだけがどうも違った、落ち着かなさから連想されるのはふとした初々しさであった。初々しい、との言葉が相応しくないのなら新鮮な気持ちとも出来るだろうか。こう、大学に進学するにあたってこの町に引っ越してきた当初の気持ちに通じる、新しい何かと触れる、また気付くそんな調子であっただろう。
つまりその影を見やれば、浮かんでくるのは「彼」しかいない。今や、すっかり慣れたあの匂い―部屋にすっかり染み付いて、下手したら僕にも染み付いているかもしれない―を放つ存在こそ、僕の気持ちからルーチン的なものを霧散せしめている元凶だろう。
更に日常を振り返れば僕は彼に色々と、すっかり委ねているのにも気が付ける。まず最初に来るのが食事の類、当初は学食代わりの昼飯としての弁当だけであったのが、今や僕が食べる食事の大半は全て彼の手料理になっていて、僕もすっかりそれが当然と頭に刻んでいる節すらある。
その次が掃除洗濯の類だった、僕自身、これ等自体は決して面倒臭いとか思っていたのではない。なのに今となっては、全て、食事と同様に彼に託してこそ、と浮かべている始末であったし、彼がしているのを見てありがたさと共にこうでなくちゃ、との妙な確認の気持ちが芽生えているほどになっていた。
そして更に、ここ数日は身を清める―即ち風呂―時まで自然と彼に求めている己がいる。その事に気付き、我ながら慄きながらもそれでいい、むしろされたい、と思っている、それこそが最大の驚きで、当然となっていたのだから。
そんな僕の求めに笑いながら応じてくれる彼がまた都合が良く、何よりありがたさを抱いてしまえる。今日も全くそんな日だった、風呂場でそれは体の隅から隅まで丁寧に洗われて、あとは薄い寝間着を着て布団にもぐりこむ。当然、その布団も僕と彼で共有で、かつ彼の体の獣毛は季節に合わせて厚みを増す。つまり柔らかさのみならず保温性もまた高まった事から、今年はまだ冬用の布団を出す事なぞ全く浮かばなかった。
それだから僕はもう彼なしではいられない、と暗にでもなく明確にでもなく、ある種の感覚として抱いていたのは違いない。だからこそ前述した通り気持ちが落ち着かなくなったのだろう、これまで全て僕がしていた家事だとか様々な雑事をする必要がなくなったばかりか、睡眠と言う最も無防備な時間に、体を預けられる、その全てに関わる彼の存在こそ、僕の心にあった義務感だとか、緊張感の類を悉く解除した。
それは例えるならば砂袋を捨ててどんどん高度を上げていく熱気球だろう、上手い風にも乗れて燃料も節約、正に良い事尽くめの中に僕はあったとしか見れない。そうその調子の良さにすら気付かないほど夢想的な中に置かれていたが故に、結果としてあの晩を迎える事になったのだとシミジミと思えてならなかった。
続