兎の夢・前編 冬風 狐作
 夢か現か、どこに己が置かれているのかわからない時と言うのは時としてあるものだろう。そしてそれを過ぎてしまえば、そのきっかけすら何であったのか、分からない事もあるものだろう。

 今、僕は確か、誰かの部屋にいるのは分かる。しかし具体的に誰かの部屋なのかは分からない、そんな認識にあった。言えるのはその相手とは比較的親しい間柄で、また色々と信頼している、そんな相手の部屋のベッドの中で毛布に包まっているの2点を多少の違和感と共に抱いていた。
 部屋の中はきれいにまとめられていて印象はとても良い。ただやや整い過ぎている、とも同時に感じざるを得なかった。つまり「匂い」とは、いわゆる生活臭。それがどうも感じられない事、そこから前述の違和感の一部はそこからきていたに違いない。残りは恐らく、どうしてここにいるのだろう、とのものであったろう。
「あら、おはよう」
 おはよう、その挨拶の声に惹かれてふと身を起こして振り返れば、その声のトーンとつながる、覚えのある姿が控えていた。幾度か、もう数えられないほど話をした覚えが蘇ってくる。それは目を覚ます前、毛布の中にいながらにしていた記憶をも含んでいた。
 蘇るとは言え、内容までも克明に浮かんで来る訳ではない。とにかく何か交わした程度の記憶をぼんやりと思い返せる程度であって、むしろ僕はその相手の姿に違和感を声の響きを聞いて抱けた安堵感と共に抱けている、のが実際のところ。
「ふふ、お腹空いた?昨日の夜はあんなに元気だったもんねぇ」
 そんな僕に対してかけられる声はのんびりとしていて、僕の抱えている気持ちがどこか恥ずかしくなる位に柔らかく、無垢とすら評せてしまう響きが濃厚なもの。
「昨日の夜…って」
「もう惚けないでよ、ね?そうじゃなきゃどうしてあなたは裸で毛布に包まっているの」
 僕はその言葉に返す的確な言葉を見出す事が出来なかった、確かにそうなのである。
 言われて気付けば、どうして毛布に全裸で、それが真夏ならまだしも真冬のこの時期にそんな姿でいるのか?それを考えたらどうも納得行く理由は浮かばない。いやそれは不正確だろう、全く浮かばないのではなくただの1つしか浮かばないのである。そしてそれは目の前にいる相手―彼女の存在によってはっきりと確かであったと補強されて仕方ない。
「…ま…うん、疲れたかな」
 冷静になってみればこの返事は大抵の場合、不味い結果を生む可能性を高めるものであったろう。少なくとも一晩を共に過ごした彼女、即ち女の子に対して、仮に実際にそうだったとしても言うべき台詞ではない。程度の差こそはあれ、相手の期待していた言葉と外れている、それだけは確実なのではなかろうか。
 しかし彼女は違った、少なくとも続いて見せた行動と言葉はふと抱けた悪い予感とは違うもので、そこに安堵する僕がいたのは事実。そしてそれによって昨晩に何があったのか、を僕がある程度はっきりと思い出すのを、そして寝起きも手伝っての僕の行動の間の悪さを一時的とは言え、促進させた、そんな硬貨があったと言えるだろう。
 間の悪さ―それは反応の遅さ―は、彼女が求めていた反応を最終的には示すに至るまで、それは余分に時間が要させたものだった。仮に「1」で反応する事を求められていたとすれば、僕が当初示したのは「10」であり、下手したら「20」にもなるほど遅かったのだ。
 よって少しばかり相手の気が短ければそれですっかり、その場の雰囲気、また相手の感情を損ねざるにはいられなかったろう。最もそれはあくまでも一般論、当てはまらない場合も当然ある。
 彼女はそれだった、そんな有様の僕に対して目を細めつつも近付いてくるなり、僕の方から反応を明確に示せないのを承知と言わんばかりに、そちらからそれをぶつけてきたのだ。即ち、僕を動かし、求めたのである。
「私の言う通りにしなさいね?」
 疑問形交じりのそんな言葉、ひとつで始まったとしか出来ない。

 それはその始まりの辺りに印象深く、つまり記憶の中に残っている。それ自体は何時でも吹き飛んでしまいそうな存在感しかない、薄く、そして小さいものだった。
 だが何故か吹き飛ばない、記憶と言う一定にして圧倒的な流れを有している中では見かけとしてはそんな程度なのに、流れの中に全く流されずに、その表面を幾分か削られる事はあっても起立し続ける巌の様な、そんな重厚さを我ながら強く感じ取ってしまえる代物だった。
 ―その削り取られた表面は粒子となって、その後に続く記憶の流れの中に散りばめられて行く。そして関係のない、跡から芽生えた記憶と混ざり合って変化を促す―それは実際には変質なのかもしれない。だがとにかくは関係のなかった存在は関係のある物となり、ふと半ば気を取り戻せば僕は彼女に対してすっかり奉仕を捧げているところであった。
 奉仕、その言葉は今となっては中々聞く事も、また見る事も中々ない言葉であろう。少なくともあるとしたら、世間一般的なところだと百貨店だとか、あるいは何かともったいぶった文章、また逆にとことんリアリティーを無くした場合の類でしかない。

 最も世間一般に限らない場合、その言葉は地味に目にする事になる。それがそう、こう言った「交わり」の場面である。「性的」な奉仕、ご奉仕、その中身はともかくとして言葉が用いられるのであって、そしてそれは人々の妄想や欲情と言った、誰しもが持ち合わせていながら表向きはそ知らぬ顔、時には嫌悪感を見せられる類の感情を一体どれだけ刺激してきたことだろう。
「…んっ…んくぅっ」
 今僕がしているのは、少なくともそう言った場面における「奉仕」、それも「ご奉仕」だったろう。僕はベッドの上に入れなくなっていた、代わりにあてがわれたのは薄いカーペットの敷かれた床の上であり、そこに四つん這いに近い格好となって僕は口をずっと動かしている。
 口が動くからには舌も動く、発せられるのは声ではなくふとした意味のない音の羅列であり、そして唾液の水音であった。つまり動く舌と口は本来の発声ではない別の目的の為、そう舐める行為に没頭していたのだ。その対象となるのが彼女の足の親指である事、それさえ除けば少なくとも「舐める」だけであれば、まだ普通の行為の範疇に収まっていたに違いない。
 しかし僕が舐めているのは繰り返し書く通り、彼女の足の親指だった。毛布から出る様に、ベットから降りる様に、そう続けて指示された最後に来たのが僕の代わりに布団に昇って腰を下ろした彼女が突き出した足の爪先、それも親指を良いと言うまで舐める様にとの「指示」だった。
 ただ「指示」と表現するのもかなりオブラートしたもので、実質的には「命令」だった。僕と彼女の間にある関係を反映したならば、最も相応しい言葉はそれであって、だから僕は逆らえない。何より従うのが自明のものだと感じていたのでとにかくそのままに僕は顔を近づけて。口を開いて舌を動かし始めただけなのである。
 そんな彼女の親指はどう舐めても独特な感触と味がする。最も彼女以外の「人間」の足なぞ舐める機会は終ぞ恵まれた事はないので、そもそも比較が出来るかどうかとの話にすらなってしまうが、とにかくその味は一言で言えば「苦い」し、何より独特な硬さ、ごわごわとして口の中に引っかかる、そんな具合である。
 つまりそれ等の具合をはっきりと説明するなら、その親指ないし足はすっかり毛に包まれている。それも一定の長さと硬さを持って、更に色が場所によって異なる程度の獣毛に包まれているのだ。
 そしてその毛、何より根元からその苦さは来ていた。苦さとなるからには元となる物がある訳で、それが彼女の場合匂いであり、匂いを発する毛にまとわり付いた湿り気であったろう。つまりこの部屋の中にはその匂いが充満していることも触れておかねばならない。

 その臭いは香ばしさを伴っていた。
 例えるなら、そう、嗅いだ事のある人ならば分かるだろう。田舎の納屋の中に積み重ねられた藁の香り、あるいは濃厚な雑草の香り、それ等を皆混ぜ込んだ、としか評せられない独特な野趣のある香りが口の中に、舌を通じては苦さとなって、鼻腔に逆流する形では臭いとなって充満しているのだ。
 正直それはとても苦しかった。感じる傍から軽い吐き気を口を不自然な形で開いている事もあって催していたし、何より前頭部に同様な程度の頭痛を感じていたのは眼球への痛みとなって、明らかなダメージとなっていた。
 でも僕は口を外す事は出来なかった、いや外さなかった。それは前述した「命令」の結果もあったかもしれない、ただその苦しさを味わえば味わうほどどこか気持ちよさも覚えつつあったのだ、その証なのか心臓の高鳴りは次第にはっきりとしたものになっていたし、何より股間が反応していた、そう硬く熱くなっていたのだ。
 この時の僕は体にはもう何も纏ってはいない。冒頭でベッドに横たわっていながらの時からそうだったが、わずかに纏っていたタオルの類すら今はなくなっていて、その白い体をすっかりこの空間に晒している。
 そして今、している、し続けている彼女への「奉仕」によって、白さに似合わない程度の熱を体が帯びているのは前述の通り。そしてその何時の間にかに、僕もまた臭いを放ち出していたのだが気付く暇はなかったのだった。


 続
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