兎の夢・後編冬風 狐作
(…?)
 ただ最初に気付いたのは彼女だった。彼女が指を、咥えさせている足の指を不意に前後にピストンさせ始めたのが今思えば、その合図だったのだろう。とは言え、それが僕にも変化が起きている事に彼女が反応した動き、であったのを知るまでにはあとしばらくの時間を要する。
 あくまでもその時の僕は、更なる刺激として、即ち彼女の求める要求としてのみ受け取っていた。だからより唇をすぼめて、舌もより絡ませてそれ等を包み込むんだ唾液を嚥下する―あの濃厚な苦さはより体の中へと、染み込んでいくに等しくなってそれ等によって体は次第に変化を始めていたのだ。
 だからふと気付いたのかもしれない、彼女の臭みの原因に。
 それは先ほどから必死にむしゃぶりついている指先が、ある程度の均一な長さで揃った濃密な毛に包まれている―毛のひとつひとつが唾液とは別種の湿り気を常に持っていて、そこからあの臭みと苦味が滲み出ている事、また爪も舌先が触れるとその鋭さにかすかな痛みを感じる位に頑丈である事―それに気付いた途端、僕は一層、気持ちが穏やかではなくなった。
「ん…んふぅっ、ク…ぅんっ」
 これまで静かに舐めていたのが馬鹿らしくなった、との吹っ切れだったのだろうか。途端に僕は水音が立つ程度に力を強めて、親指だけを包んでいた口を少しずらして外せば、そのまま舌を足の裏へと走らせていく。
 足の裏とは人の足であても足の裏とは他の場所とは皮膚の硬さが異なる。つまり硬くてハリと言うよりも丈夫さが求めらる訳で、それは全身を支える重責を担っているからに他ならない。だからそう彼女の足裏もそうだった、ただ全てが等しくあるのではなく、こげ茶色に染まった弾力と湿り気のある部分―そこがまた異なった苦味を発していたのだが―と、それを節で区切る様な毛の生えた筋があって幾らかに分けられている。
 そこを僕は舐めまわした、存分に、指先からそれこそ端まで一息に行ってまた返す。そんな繰り返しを支援する様に彼女は足の角度を変えて舐めやすくしてくれたものだから、僕は四つんばいでなくともいられる様になる。
 既に頭は気持ち良さばかりを求めている。ただ体が反応している程度から意識としても欲している、に変わったこの時にそうされたものだから体を支える事のに必ずしもいらなくなった片手が、どう用いられる様になるかは火を見るより明らかだったろう―新たな快楽を求める事に使われるのは明らかだった。
「あーらら…扱き出しちゃってる、この―さん」
「んふ…は、だって気持ちよくて…ぇっ」
「もっと欲しいの?もっと気持ちよくなりたいの?」
 僕が手をその様に動かしたのは半ば本能的であったが、それを認識として高める効果を発揮したのは彼女の言葉。一部上手く聞き取れないにしても、大体の意味は理解出来るし、それによってますます僕の快感に対する貪欲さは深まって、イチモツを掴む手は強くなるのはおろか、体をかすかに震えるほどに僕は酔う、いや、馬鹿になっていった。
 もう目の焦点すら定まらぬとの具合だったろう。とにかく舐め回した彼女の片足はすっかりどろどろで、僕のイチモツも先走りを漏らしては、扱く力の強さもあってかこれまでにこんなに硬くなった事があったろうか、との程度になっていく―ああもう、どうしようもない、どうしようも、どうなろうとも―もうただ堕ちていく事しか浮かばない。
 そんな時である、不意に考えが浮かんだのは。ひらめきにも近いその正体は疑問であって、つい先ほどの彼女の言葉の内、聞き取れなかった言葉はなんだったのだろうか、との言うものであった。
 考えは巡る。かすかに聞き取れた、しかし意味の無い響きとして頭が処理していた部分を今一度、記憶のガラクタ箱の中から引っ張り出して解析する作業。それはこのひたすら性の快感に酔っている全体の流れとは明らかにそぐわない動き、それをする頭の一部―その珍妙な組み合わせすら僕はどこか自らの餌として、快感をより感じるべくの刺激として用いて、気がつけばそれはある種のリズムを脳内に構成していた。
(ん…んう、う…あってあった…うの次は…んぅ…さ…ぁっ)
 少しばかりの混濁と認識の繰り返し、混濁の間の認識は「あ行」「さ行」そして「か行」だった。
(う…さき…さき…ぃ…んんっ)
 あさき、否、うさき、うさきとは。そんな反復は相変わらず混じる快感による混濁によって、文字通りに濁りを得る。うざき、う゛さき、う゛ざぎ―そして来た、ふと胃に落ちる感覚と同時に僕はバランスを崩した。その場に崩れる様になって、頬に何か力を加えられた感覚を覚えるなり、僕はふと意識を暗転させた。薄暗さがすっかり暗黒へと落ちる、だろう。
 ただその時、僕は今の今まで、口の中で感じていた感触―あの濃密な毛がもたらすもの―が、より広範にある事をふと察していた。そして急速に僕の体からも何かか、臭いとして発されている事に気付いたのだった。

「は…うん?」
「あら、おはよう」
 目を覚ますとそこは静かで、隣には彼女がいた。2人して、それこそ平穏やかに、静かに同じ布団に包まっている具合だった。
「ああ、おはよう…なんか」
「なんか…?」
「いや、何でもないよ」
 目を覚ましたばかりだと言うのに何か体が重かった。そして何か、頭に過ぎったものがあったのでそれについて口に出そうとして、瞬時に思いを変えて口を閉ざした具合だった。
「まぁ朝だよね?」
「ええ、何時までも布団の中にいても仕方ないし…着替えましょうか」
「ちょうど良いね」
 少しばかりの沈黙の後、そんなどこにでもある様な問いかけを僕等は交わすなり、完全に毛布から外に出たのは彼女だった。
「さぁて今日も頑張らないと…んっ、はぁ…着替えて」
 彼女は何も纏ってはいなかった。下着すら全く纏わないその姿でベットの隣のカーペットの上に立つと、両手を突き上げて背筋を伸ばし、おもむろに背筋を背中の側へとそらした時、何が生じた。
 それはボフン、と「爆ぜた」と出来る。尻肉の上、ちょうど背骨が腰に達した辺りで起きたそれが後に残したのは煙幕ではなく芯のある柔らかい集合体。人はそれを尻尾と呼ぶ代物であって、それが幾重も生じている―四尾の狐尻尾であった。
 全体はこんがりとした狐色、先端は白の強い、しかし狐色と言える色。そんな尻尾に僕はふっと四つん這いになって注目してしまって間もなく、矢張り爆ぜた。先ほどの彼女と同様に背中を内側に反らす、よりも捩じらせた時、僕もまたあの背骨と腰の接する辺りが爆ぜた。そう僕にも尻尾が生じたのだ。
 ただ僕の尻尾は実感として彼女とは違う、と分かる。明らかに小さくて、一点にまとまっているそんな尻尾だろう。そう、白い兎の尻尾が僕には生じたのだ。
「んん…」
「ふぅん…」
 互いの喉を突いて流れてくるのはどこか喘ぎとも、あるいは長い溜息とも取れる響き。それはひたすら「着替え」の間続くのだ。尻尾が揺らめく中、その毛の色合いは全身に広がっていく。彼女は狐色と白い毛で体を埋めていくし、僕はそれこそ真っ白に全身が埋まっていく。
 体の形とて沿っていく。特に顔が変わっていく。人の顔を丸とするなら前後、あるいはやや斜めに伸びる楕円形を基調とした具合に、鼻と耳を中心に引っ張られていくのだ。彼女は鼻が中心で、僕は耳を中心に。彼女の顔はそれこそ前に突き出した三角形、僕は盛り上がった丸みとなって、それはマズルと言う人にはない、鼻と口とがあわさった器官を形成していく。
 耳は、彼女は矢張り三角耳、僕は長く伸びて喇叭耳を超えた、兎耳へとなっていく。もう何かの造形の名をつけるよりも明確に、僕自身、即ち兎の耳としか言い様の無い、その大きな伸びた耳を軽く震わせる頃には変化はほぼ収斂していた。
 そこにいるのは四尾の狐とどこから見ても真っ白一色な兎、性別を付ければ前者が牝で後者が牡。そして姿自体も純粋に四つん這いの獣ではなく、人と同じ体つきをしていて、しかし前述した通り尻尾だとか耳だとかを有する獣人。
 牡兎は目の前の牝狐を浮かべるのみ。その瞳は何か、反応を待っている様にごくわずかに動く以外は、何も浮かべていない「無」であるかの様だった。

「さぁて、着替え終わったから行きましょうか」
「え…あっうん」
 最も僕が何も思っていない。との事はなかった。ただ自然とそう言う動きを外に見せていたのみだった。
 よって内面では、胸のつっかえ程度に激しくはない、しかし一定の動きを生じさせ続けていた。
 即ち、僕はその体に、ある程度は全うであると思うと共に、何とも言えない落ち着きの無さを感じていたのだろう。ただ彼女に対する認識に関してはそうしたブレは無かった。つまり何の疑問も抱かず、彼女はそれが素のままであり、言うなれば普段着の姿であると解していたのである。だから前述された「無」とは、それが表に出た動きなのであり、唯一あった内なる動きは―凄く直前の、と思える―意識の暗転する瞬間にあった「広範にある」との認識が確かであると認めていたのみだった。
 そんなところに彼女の言葉が入る。僕は一瞬それに疑問を表明しかけ、しかし、すぐに了解を返す。そう、それは彼女からの「指示」なのだから、と思った途端に僕の感じていた腑の落ちなさはまず存在していなかったかの如く、全て消え去った。
 狐の彼女と共に兎の僕が足を進めたのはある扉だった。そこで僕は気付く、この扉からこの部屋に入ってきてはいないと。この部屋に入ってきたのはもう1つ、ちょうど真後ろにある扉からで、そこからは今回に限らず何度か出入りした事があると。そして本来なら、いや本来ではなく、そちらから出なくてはいけない、と頭のどこかで必死に唱えられている事にも。
 だが僕はそれに従う行動を取る必要性を全く感じない。むしろそうと取るのはやましい事であるとすら思えている具合で、とにかく傍らにいて僕をリードしてくれる狐の彼女の「指示」。それこそが絶対の「命令」であり、自ら従うべき「指示」であるとしか頭には無かった。
 そして目の前で彼女が扉を開けるのを見つつ、僕は口の中に浮かんできた苦みと臭み、そして感触から、この姿になったのも彼女の「指示」の結果であり、それ以前にあった何かによって僕は、この姿こそが本当の姿として与えられた。だから彼女には絶対に服従しなければならないと、自らに言い聞かせて―その間に開ききった扉の中に入っていく、彼女の背中、特に尻尾の揺らめきに引かれていく様に続いて、その場から消えてもういなくなる。
 正に夢から醒めた、そんな気分であった。もうどうしてこうなったのか、との認識すら必要とは思えない。今こそあればいい、そんな心地で前を行く尻尾に従って行く事だけに心を躍らせる。それは正に付き従う、主人に奉仕する純粋なる従者の気持ちそのものだった。


 完
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