ぱっと見た時の印象は黒い何か、と形容出来るものでちょうどベンチと通路挟んで反対側にある水銀灯の光をその相手の体が遮っていたから、余計にそうと見えたのだろう。それだけにまるで後光がさしたかの様で、体の詳細は分からずとも、その輪郭、それは立派な見るからに筋肉のついた体で無しに体躯、が浮かび上がった瞬間に僕は一体何なのかと視線と共に言葉を奪われた。
一体何なのか、とは即ち驚きの感情である。だが普通言葉まで奪われる事はない。奪われる時は余程のものと遭遇した時と相場は決まっているものである。それを踏まえるなら僕は確かに言葉を奪われるものを見た、とここではっきりと述べなくてはならない。
頭の上の被り物、と最初は思えた。あくまでも視野の片隅に入ってきている程度であったその部分は、気になってほんの少し視線を上に上げた途端、出かけていた喉からの声を単なる息の塊へと戻すだけの効果がある。それもただ頭の上にある被り物と思しき物、それだけでその様な反応を示すに至ったのではない。むしろそこから更にあるものに気付き、そしてそれ等が全て一体となっている事、それに気が付くなり僕は言葉を失って唖然としてしまったのだから。
それは本物の顔であった、大きな葉っぱの様な広がりと先端に分かれ目のある突き出しを持つ被り物と突き出た口元を持つ。つまり角と突き出た両顎、口吻、マズルがその体躯の顔であったのに気付いてしまった、と言う訳だった。
それが分かってしまうと後は一気に、いわば牛蒡抜きの如く詳細が暗い中でもわかってしまう。まず顔その物の中に見えたの黒々とした眼であった、それは一瞬馬を思わせるものがあったがそれよりもやや小さく、何より馬には角がない。また馬にしてはあの特徴的な顔の形とはやや違う、そう素人目である彼であっても捉えられる顔をしていたのだ。
ではその顔は何だろうか、顔の角度自体が馬に比べたら大分上向きになっているのを認めた辺りで答えは向こうからやって来たと言うほかない。即ち、向こうから顔を寄せてきたのだ、擬音で描くならそれには「ぬっ」と言う言葉が相応しいだろう。それと同時にふと臭い息が顔全体に吹きかけられる、横に広く奥行きもある大きな口から吐き出された、いわゆる生々しい獣臭さにくらっとした途端、舌が僕の顔を舐め回す。
まるで気付け薬を飲ませようとするかの様だった。臭いで揺らいだ意識を舌のもたらす粘液、そしてそれ自体の暖かさによって引きずり起こそうとするかの動作は一瞬の眩みの淵から僕を連れ戻して、再び視線をその顔へと集中させる結果を生み出したのだから。
だがあくまでもそれは視線、即ち集中する事を立て直させる、つまりそうでなくてはならないと僕に強制する動作に過ぎないかった、とも次の瞬間に僕は悟る事になる。きっかけはまたも暖かさであった、ただそれは顔にではなく胸に注がれたのが唯一の違いだろう。
「え・・・なにこれ・・・っ」
「暖かいだろう?」
そして伴われる言葉は疑問形でありながら、しかしそうであるのが当然と言うニュアンスを含む強い言葉、それが投げかけられて頭に力が加えられる。またも強制されたのだ、見ろの一言と僕の体に対して暖かい液体を今尚ぶちまけている代物しか見れない様に頭を捕まれて固定される。そこまでされてまだ固まっているというのは流石に出来なかった、既に言葉は奪い返していたのだから。
故に今、その驚愕の1つを口にしたのであり、だからこそ僕は逃れようと言う意思をようやく浮かばせる事が出来た。だが遅かったと言わざるを得ない。怪力と言うのは評価し過ぎだとしても並やそこ等の並の力ではない、強い握力は完全に僕の頭を掴みこんでそのままある方向へと動かしていく。
向かう先には目の前に見せ付けられたままの、液体を今なお放つ棒の様な存在が控えている。その具体的な名前が分かってしまうからこそ僕は強い嫌悪感を感じずにはいられない、何とか回避せねばともがくのはそれは当然の反射的で、尚且つ確信的な行動だった。だが全ては見通されていたかの様に抗する事など出来ない、ホールドされた頭はそのまま運ばれて喚く口が上手い具合に開いた瞬間、その中へすっぽりとはめ込まれて、はいお終い。
そう感じたのが後か先か分からないほど瞬時に、もう口の中には強烈な香りと質感、それは実体としての質感と味の双方を含むものがあふれ変える。酷くおかしな気分になるのは言うまでもなく、認識は酷く揺らぐ。
「う・・・うえ・・・ぇっ」
認識を揺らがせたのはそこから注がれる液体だった、既に僕の胸から下をすっかり濡らし尽くした液体の正体は誰しもが体から等しく出す存在である。それは恐ろしく暖かく、空気の寒さを浴びた後に強く感じさせられるほどの熱が強い臭いと共にある、尿だった。
その臭いは「におい」と言うよりも最早臭気と言うに相応しいほど強くムンムンと立ち込め、呼吸する度に鼻腔へ吸い込まれていく。鼻から呼吸したくなくとも口は、その尿を放つイチモツによって塞がれているのだから否が応でも窒息しない為に鼻で呼吸をするしかない。しかし吸い込む度に、息にはその尿の臭いが軽く熱を帯びた状態で酸素と共に入り込んできて、その嗅覚が痛く刺激されてしまえる。
その成分が肺胞まで通じる事、つまり体内へ吸い込む事はたまらなく苦痛だった。だがそれ以上に最悪だったのは吐き出す呼気も臭いを帯びていた事だろう、それは自分の体の中の臭いと交じり合って変質した新たな臭いとなって、まるで吸い込んだ臭さと己が一体化してしまったかの様な不快感に塗れていたとしか言えない。
しかし現実はそんなものではない、口の中にはイチモツが入れられているだけならまだ良いものだろう。前述した通りその先端からは尿が今なお、注がれ続けている。こればかりは息を通じて臭いをいかにして吸い込まない様にするか、と言う問題よりもずっと対処が難しい。
気体ではなく液体である以上、明らかに形として口の中を満たしていくから我慢しようとしても限界がある。何よりも苦しいのだ、既にわずかな隙間しかない口腔の中は尿とイチモツで実質塞がれているのだから、あふれた分は自然ともう1つの出口であり空間でもある喉へと逃げていく。そしてそれに抗する事は出来ない。
そうなるとその時は、もうまともな思考をこの期に及んでもしてしまっている己が悔しくて仕方なかった。そして惨めさの余りにどこかでは、その潤んだ目すらも口腔から喉へとあふれていく尿にすっかり浸されてしまったかの様に思えてならなかった。