「はい、どなたですか?」
夕刻の雨天の中、不意に激しく叩かれた扉の音に応じたのは香奈子であった。立場を言うならそれは巫女、この町の外れにある神社を守る一家に生まれた彼女はその流れを汲んで巫女となり、今日は1人でこの奥社へと通じる道の途中にある詰所にて辺りを見守る役目を担っていたのだった。
「すいません、あのちょっと怪我をしてしまって・・・」
扉を開けるとそこにいたのは服や体のそこかしこに泥が付き、そして濡れている姿をした男だった。男と言っても細い体形でメガネをかけた、そんな具合の男がいかにも申し訳なさそうな顔をして香奈子を見つめていた。そして怪我をした、との言葉の通り大きく破れたズボンの裾が赤く染まっており、庇う様に足を曲げている姿は何とも痛々しい。
「これは・・・入って下さい、手当てしませんと。あと、今から下の方に連絡して助けに来てもらいましょう」
招き入れて扉を閉めながら香奈子はさっとそれを口にした、そしてすぐにその場でズボンを脱がせると共にきれいな水を用意する。彼女は決してそう言う資格を持っている訳ではない。しかしこの神社は山肌にそって社が設けられている事から年に数回、転んで怪我をする参拝者がいる事から一応の応急処置の心得、それに関しては持っていたからこそあくまでもそれに沿っての行動を起こしたまでだった。
「う・・・ああすみません」
玄関に座らせて傷口があらわとなった足を清め、消毒する度にその様な言葉を男は漏らした。その度に彼女は状態を尋ねる言葉を返しつつ、慰めるのだが幸いな事に出血こそしていたものの、これまでに幾度か接してきた記憶を振り返る限りでは素人目の彼女の印象とは言え、その傷口は決して深くなく、何とか応急処置は上手くいきそうな具合だった。
そしてガーゼを貼り包帯を巻いたところで彼女は再び立ち上がった。土間の部分にしばらく屈んでいて余り慣れない姿勢であった事から辛かったのもあるが、何よりも下の社務所に連絡して救出に来てもらわなくては、と言う次の対処をしなくては、と浮かべていたからだろう。
よって少し待って欲しいと告げて履物を脱いで上へ上がり、すぐそこにある受話器を手に取ろうとした時、彼女はふと思った。一体どこでこの人は怪我をしたのか、と。
「あの・・・どの辺りで怪我をしたのですか?」
少なくともそう尋ねた時、彼女の頭の中には3ヵ所ほどの心当たりがあった、1つはちょうどこの詰所と下の奥社への参道入り口の中間地点にある急坂の場所である。続いては奥社の手前の階段、何しろ古いものであるからすっかり磨耗した階段は慣れている彼女たちですら用心して歩かないと、思わず足を滑らせてしまうそう言う場所だった。そして最後は詰所のやや下の場所にある橋の付近だった、そこも坂になっており時として水が流れてくるので、こう言う天候の時には危険な場所であったのである。
「えーとその・・・」
だが言いかけた途端、男は黙ってしまった。しばらく答えを待つと言う意味で香奈子も黙っていたがどうにも具合がおかしい、幾ら雨の音が室内にも響いているとは言え、息遣いすらも聞こえてこないのはどうしてなのだろう?そう言う疑問が浮かんだ訳だった。決して自慢するのではないが彼女は、昔からこう言う環境で過ごしているからか妙にそう言う気配とかを察する勘が妙に強い。
彼女自身、今の子であるから神社で巫女として神に仕える身である一方で無条件にそう言うものを、つまり偶然だとかは存在する、そう言う見方をしている巫女とは別の考え方も持っていた。しかしそうであっても、つまりそちらの見方から見てもおかしいと思える沈黙だった。まるで自分以外は誰もいない、そこで1人呟いているのではないかと言う疑念を持ててしまえる空気はこれまでに味わった事がなく不気味であった。
「あの・・・?」
「・・・すみません・・・その怪我なんてしてないんですよね」
ああようやく返事が返ってきた、そう安堵を吐くと同時に来たのがその一言であった。一瞬思考が固まり、続いて軽く脂汗をかきながら振り向くとそこに男の姿はなかった。あるのはきれいに解かれたガーゼと包帯だけでまるでずっと前からそこに置かれていたかのような雰囲気すら漂う中、次の気配が唐突に自分の背中に沿って感じられた。
「今度はあなたを治療してあげます・・・」
唐突に届いた言葉、それは紛れもないあの男の声だった。だが余りの展開に香奈子の口から漏れる言葉と言えば言葉ですらない、混乱の余りのうめきとも言える断片的な空気の音色。しかし何時しかそれすらもただ神経を伝って感じられる、体の、彼女の全身へと加えられる刺激による反応を音として外へ漏らす口であったスピーカーから漏れる音でしかなくなっていた。
もちろん口がスピーカーになってしまったのではない、あくまでもそれは比喩に過ぎないが意思ある言葉を吐けなくなってしまった点では正しいだろう。つまりそれは単なる音なのである、獣の発する鳴声以下の音でしかないのだ。今、香奈子は床に転がって痙攣をしている、身に纏っている巫女服は半ば肌蹴て帯はすっかり緩んでしまっている。そうそれは裾除けすらも肌蹴ている状態で、とても人に見せられる姿ではない。
だがそれすらもまだ普通と言えてしまえる光景があった、それは彼女の下半身へと視線を向けばよいだろう。本来なら緋色の袴があるべき箇所はすっかりずれて隠されているべき生足が露出しているばかりではない、そうそこには足ではない部位が明らかに付着し蠢いていたのだ。
それは半透明なゼリーの様なものだった、少なくとも淡い黄色のそれは奇妙に目立っているばかりで気色が悪い。まるで蛸の様な軟体動物的な奇妙な動きをする50センチほどの大きさの存在、それが足にこぶの様に取り付いているのを浮かべてもらえばそれは分かると言うものだろう。そして蠢く、蠕動する度に彼女の口からは声が、喘ぎ声が漏れた。口から漏れる涎は留まるところを知らず瞳はすっかり白目を剥いている姿に普段の清楚な姿を浮かべる事は難しい。
何より奇妙なのはその痙攣とリンクした蠕動の度にゼリーは小さくなっていく事だろう。それこそ果てないと思えるその動きに果てがある、それを浮かばせる動きではあるが、決して不快なそのゼリーが消失したのではない事を次第に思い知らされる事になる。
「くっうう・・・あ・・・く・・・くるしい・・・っ」
彼女の口から久々の意味のある言葉が漏れた時、それは口がスピーカーで無くなったのを示していただけではなかった。それは目覚めであり転機だった、彼女の足にまとわりついていたあのゼリーの姿が消えると同時に言葉が戻った彼女の姿は、一見すると元通りで何もおかしな点はない。
言うなれば服装の乱れと汚れがある程度だが、何故か彼女はそれを気にする素振りはなかった。ただ起き上がるとしばしぼうっと辺りを眺めるのに続けて体に手を這わせて、まるで体がそこにあるのを確かめようとするかの動きをする。
「ふう・・・はあ・・・えへへ」
その動きに被る意味のない微笑みは奇妙、その一言の印象しかなかった。口元は何時しかすっかり緩んで目尻もそれに従っている、そしておもむろに動いた手がする事と言えば巫女服を、つまり身に纏っている一式を脱ぎ捨てる鮮やかな動きだった。
「はあ・・・あれ・・・うん、良いんだよね・・・ご主人様・・・」
造作なく、と言う具合に脱ぎ捨てられた装束の下から現れたのは彼女の整った肉体。程よい大きさの腰周りと乳房はもしここに男がいたならその瞳を釘付けにすることだろう、だがここにいるのは彼女1人。しかし次にその口から漏れてきた言葉は低音の男の声だった。
「ああそうだよ、香奈子。もう君は僕と共にご主人様の奴隷さ・・・ほら、電話するんだ、雨が酷くて帰れそうにないって・・・だから泊まるんだろ?そう判断した時はここに」
「はい・・・そうですね・・・そうします」
まるでそれはふざけているのか、と思えるもの。腹話術の様でもあるが疑問もある、それはそこまで他人、それも性別の異なる声を使い分けられるのか?と言うものだった。少なくとも腹話術でないのが明白であるのはどちらの声を出している時も唇をはっきりと開けている事だろう、当然腹話術でも唇は動かされるがあくまでも最低限に限られるものである。
それを考えると余りにも唇が大きく動きすぎているのであり、そしてその始まりから語尾に至るまでの男女にイントネーションの違いまでも完全にカバーされているのはとても説明しきれない。そしてその顔は平然としていてとても何かを演じている時にある様な強張りが見当たらないのも、そうではないと説明するのに有力な証拠となるだろう。
そうなると一体何なのか?それは最も考えにくく有り得ない、と言えてしまえるがその肉体の中に2人、男と女がいると言う事に他ならない。そして交互に繰り返される1つの肉体の口から出る会話はもう1人の存在がいる事を多分に示唆していて、全く否定どころか詳しく肯定すらしているものなのだからそうと理解するしかなった。
「ふふ・・・今晩はここに私達だけですよ・・・」
「ええ、そうですとも・・・ご主人様」
「ご主人様・・・何なりと」
電話を終えた香奈子の口は再び男女の声、女声は間違いなく香奈子であるが、それを紡ぐと沈黙した。まるで何かを崇めるかの様に低くなり畳に肩膝を付く、そんな姿勢である。
「ふうん・・・そうだねぇ」
閉じられていた口から漏れたのは今までに漏れたどちらの声でもない低い声。しかしどこか無邪気さと言うだろうか、そう言う調子が含まれていることから明るい声ではある。
「2人の姿を見たいね」
「はい」
「はい」
続くのはただ従う声だった。