偏愛の代物・第3話冬風 狐作
「ンウウ・・・ッ!」
 喉を潰したかの様な声を漏らした時、弟はすっかり空にした注射器を脇に追いやって注射したばかりの部分を拭く。最もそれは病院の様に、その場に消毒用のアルコール入り脱脂綿がある訳ではないから、また脇から持ってきたウェットティッシュで拭くだけと言う簡易でありまた杜撰とも言えるものだった。注射された痛みは大きかった、それは素人である弟が刺すから当然なのだろうが、それを抜きにしても余りにも痛くそして痺れが止まない。
「皮膚の下まで貫いたから」
 それを知ってなのだろう、素っ気無く言ってからしばらく弟はこちらに背を向けて何かをしていた、恐らく注射器を処分していたのだろう。何かが袋と接しての音が響くのがふと聞こえ、体を伸ばしたのだろうか。間接がポキポキッとなる音の後はしばらく静まり返った。
 その間と言うのは数十秒の事であっただろう、だがその間に私は体が急に強張るのを感じた。まるで全身がしこりと化したかの様な硬さ、そしてこもる熱。それらが体全体を覆いそして息が荒くなるのを私は思いでしか受け止められず、ただどうなるのかと言う異様な不安に苛まれて白い天井を見つめる。

 だがそれにも違和感を感じ始めたのは間もなくだった。最初は目に感じる腫れぼったさ、まるで体内からの圧力で外に押し出される、そんな風に感じ始めたのだ。苦しさは何とも言い難い、加えて喉の渇きが急激に沸き起こってきた。そして感じ始めた頭痛と共に顔をしかめてしまう。
「はあ・・・くくく」
 何時の間にか再びこちらを向いた弟はニマッと笑って見下していた。そしてベッドの上に載る事は無く、手を伸ばしてまた体を撫で始める。先ほどまではそれが薄い生地を境にゾクゾク、と文字にするならばその様に強く感じる事が出来たのだが、今では何だか霞ががかった様にしか感じられず大味にしか分からない。
「ああ愉快だ・・・愉快だよ、姉ちゃんがこれを身に付けてるなんてさ・・・」
「ウグ・・・ウウッ」
 私がしたのではない、その言葉に強い反発を抱いたのは当然だった。しかし相変わらずギャグボール越しに呻くしか出来ず、むなしく舌はそのボールを舐め、皮肉な事にそれで出てくる涎が喉の渇きをわずかに潤す。
 だがそれも一時の経過に過ぎなかった、全身のしこりは次第に解消する代わりにこもっていた熱が解放されて全身に吹き荒れ始める、その瞬間。それは解消ではなかった、少なくとも苦痛については継続、そして悪化以外の何物でもなく展開し始める。思わず震え、思わず仰け反り、そして思うも何も無く痙攣する体、そして弟の口がまた具体的に開き始める。
「これさぁプレゼントだったんだよ、勿論姉ちゃんじゃないよ?」
「でも女なんだよね、プレゼントしてきた相手・・・まぁ一応、彼女的な?」
「きっと姉ちゃんは思ってもいなかっただろうけど、僕はその相手にここも大人にしてもらったんだよ。ここをね」
「だけどさぁ変な女で・・・」
 一続きで、一息に言っているその言葉があたかも1節毎に分かれて聞こえてしまう、その脳裏。そしてニタニタとした笑いを相変わらず浮かべて口にし続ける、弟の姿が視界に入るタイミングは奇妙にまでに重なっていた。それはまるで今、感じている苦痛と相通じる波であった。引いては戻り、戻っては引く、その繰り返しの中で口の中には強い湿気がこもり、呻く度に多量の涎が泡となって口角の隙間より流れ出る。
 全身に感じる震えはゾクゾクとした大きな物に今や成り代わっていた、そして何かが伸びていく感触。各所、随所、腕に脚にとその骨と筋が伸びていく錯覚、いや実感。ふとその様な中で浮かんだのは筋肉痛、と言う懐かしい言葉だった。まだ幼い頃に、成長期にふとした思い痛みを親に訴えるとそれは成長痛だ、大きくなる証だと言われたその淡い記憶が脳裏に走るのだ。
「ウッ・・・ンヴグウ・・・ッ!」
 だかその様なある種の回顧的な瞬間から自らを呼び覚まさせたのは現実であった。それは口に付けられた枷、ギャグボールを後頭部に回して繋ぎ止めている革が限界まで張ったが故に、後頭部が締め付けられ、口角部の柔らかい部位に両者をつなぎ合わせる金具が食い込んだ事による物だった。
 どうしていきなり張ったのか、それは彼女には分からない。余りにも咄嗟の事であったし、ただでさえ頭ないし顔の内側からの圧力による頭痛等で苦しんでいる中での、その原因の明らかな物による痛みは発生源が分かったからこそ、排除してしまわないとと言う思いが強く働いたからこその叫び、呻きなのだった。
「ああっとそうかそうか、ごめんねぇ・・・っ」
 文字でも薄いが言葉では更に薄い、むしろ皆無な軽い口調をするなり弟は身を乗り出して後頭部に手を回す。そして繋ぎ止めている金具から革を外して、それまでされていたのが何だったのかと言うほどあっさりと口枷を外してしまったのだ。
「くほっ・・・は・・・はああ・・・っ」
 その途端に注ぎ込んで来た空気の美味しさとその涼しさ。それらを忘れる事は私には出来ない。幾らこの室内にこもっていたとは言え、塗れた咥内にたまって温くなり、更には臭いすらまとっていた満足に酸素が含まれていると思えない、涎と共に飲み込まざるを得ない空気と比べたらそれは諸手を挙げてしまうほど素晴らしい物だったのだから。
 だから口が解放されたと言う事がすぐさま、好きに何でも喋れる様になったと言う事に結びつかなかった。そう私はしばらく意識が行かなかった、むしろ新鮮な空気が大きく吸える、その事に神経が集中して乾きに苦しんだ獣の如く、余計な湿気も臭いも無い空気を外聞も何も無く、しばらく貪るのみ、それが私であった。

「長くなっちゃった口では喋れないのかなぁ・・・?」
 そしてそれに気が付かせたのは弟の一言だった。しばらく私が必死に貪る様をたっぷりと眺めてから、その模様を、何れもその際に気が付いたのだが、ビデオカメラに録画までしてからようやくかけた一言であった。
「な・・・長くなった・・・?って言うよりもね・・・!?」
 それは二重の戸惑いの連鎖であった、最初は何を言うのかと言う、そして続いては現実を知った瞬間の。何を馬鹿な事をと思い、ふっと沸いた何と言う事をしてくれるのか、との憤りを交えての。そしてそれでも反射的に視線が寄って鼻先を見た、いや見てしまっての反応でしかない。
 目が点になるとはこの事を言うのだろう、言葉を言うのも忘れて唖然と私がする原因となった、その先端を弟が撫でる。
「ミィッ・・・!?」
「ああしっとりとしてるんだなぁ・・・でもやっぱり怪しい代物だったんだね、これは」
「な・・・ミィィ・・・ッ」
「だってさ、あの女、僕にこれを熱心に着せようとしていたんだぜ?かわいくなるからって、でもさその女が・・・あんな様になったんだ、だから着なかったけど・・・まぁ1度見てしまってるから驚きはしないよね。うん、僕は、姉ちゃんがこんなになってもさ、むしろかわいいと思うよ」
 不思議と先ほどの様に不自然に言葉が途切れて聞こえる事は無かった。そうしっかりと一続きとして耳に届き脳で再生される言葉、何だか何を言っているのか要領を得ない点に多く含まれるそれを聞きながら、撫でられてしまう自分の喉から出ているとは思えない響き、ある意味悲鳴とも取れるそれに大きく意識が揺さぶられる。
「な・・・なにこれ・・・ぇっ」
「これって?」
「これ・・・これよぉ・・・っ!」
 故に私は思わずそう口にした、これ、そうこの訳の分からない、自分のものとは認めたくない、信じられない鳴き声に向けて。だが弟には通じない、考えてみれば分かりそうなものだが弟はむしろ相変わらず同じ場所を撫で続ける。
「こ・・・・これよ」
 だから私は余計に焦ってしまったのだろう、そして通じない事にイラッとしてしまって口にしてしまったのだろう。それはある意味、何も学んでいない事の証左。私の伸びていた鼻を見た瞬間に、最早鼻と言うには相応しくない顎も口も全て一体となって、前へ突き出ていたのを反射的に見て瞬間的に、二重の戸惑いを浮かべてしまった、正にその瞬間と対象こそ違えど実質は同じであったのだから。そしてそれは更なる宣告を自ら招いたようなものだった。
「ああこれか。これはね・・・鹿の鳴き声だよ」
「鹿・・・!?」
「そうだよね、だって姉ちゃん見てご覧よ、今の顔・・・ほぉら」
 何時の間にか用意されていた、掃除していた際には影も形も見かけなかった手鏡。それを手中に収めた弟は鏡面を私に明らかに向けていた、そしてそこに映し出されるその顔に私は・・・これまでにない悲鳴、鳴き声を浮かべるのみだった。ふと哀愁すら漂う、その顔に相応しい鳴き声、黒く湿った鼻先を頂点とした決して長くはない、しかしすらっと整った印象の漂う鹿色のスエードの様な毛の生えたそのヒトと比べたら明らかに長く異質な顎。
 くりっとした眼は深い黒色をたたえていて、その時になってこれまでは分からなかった様な部分まで見えてしまう事に気が付き、そして水仙の葉の様な具合でピンとした耳が外向きに立っている、そんな顔がそこには映されていた。

「丹精な鹿さんなんだね・・・姉ちゃんは」
「し・・・しか・・・ぁ・・・っ」
 その言葉にまた啼きかけた、しかし堪えたが故の半端な響きが一層の悲哀振りを強調してしまったのは否めない。でも私はそれから逃れる事、いや逃れられる筈は無かった。ただその「怪しげな代物だった」と言う言葉が気にはなって、そして鹿と言われた事に納得が行かなくて嘆き啼きつつも声を振り絞る。
「ん・・・知りたいの?」
 この現実、としか思えない瞬間にはただうなずくのみだった。
「そうかぁ、知りたいんだ鹿さんは・・・」
 弟はそれに対してそう呟いてからしばらく黙り込んだ、その間にして来る事と言えばそれは私の体を撫で回すのみ。それも妙に感じてしまう露出の代わりに生地、薄っすらとこの出来事のそもそもの発端となった、それの上からひたすら私を撫で回す。
「本当僕が着なくて良かったよ、だって着たらもう姉ちゃんとは会えなかっただろうし・・・そしてこう楽しみも出来ない」
「んあぅ・・・っ!」
 しかし言葉に反して明確に弟は答えなかった。ただこの姿になってもなお、その姿形をたたえてる胸へ手を移していた。ろくに男に、そもそも触られた事すらないその胸は女を知っている、と言うその言葉を重ね重ね口にしながらの手によって、それこそ揉んで抓まままれて、奇妙に形を変えては私を喘がせていく。
 悲しい事に、その気持ち良さは認めるほかなかった、抵抗の気持ちすら翻弄の果てに弱まっていくその流れの中、弟はまるで私の心中を読取っているかの様だった。
「本当、やっぱりレオタードって女の人に似合うものだよね・・・あとそうそう、これで終わる筈が無いよ?」
 そして息も絶え絶えの衝撃の中で更に投げつけられたその言葉、思わず首を閉められたかの様な心地にすらなる。その変わり果ててしまった、目を開けば見えてしまう人ならざる、深い黒色をたたえた瞳に移る私の顔。それは酷く絶望的、と言う色を浮かべていると私は思った。
 人の顔でないのにそう言う色を見てしまうのは、矢張りそれが私の顔だからなのだろうか?そして今更ながら、全ての始まりとなった今私が唯一まとっている物、それに言及された所で何の慰めにもならなかった。
「ミュッ!」
 そんな想いをそっと浮かべて自ら絶望の縁に飛び込む、いやそれは一種の防衛機制だったのだろう。これ以上の現実を知りたくない、直視したくないと言う極めて後ろ向きではあるけれども、その様に逃げ込みかけたその瞬間、私はそこから引きずり出された。この状況に追い込んだ、その背景すらしっかりと明かさないその弟の手が私の股間を強く揉み掴んだ、その刺激によって大きく引き戻されてしまうのだから。



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