"長く走るな・・・。"
1週間後、その男の姿は高速道路を西へ向けてひた走る1台のライトバン、タイプと言えばワンボックスタイプの中にあった。後部には幾らかのダンボール等を載せている以外には彼とその妻、そして息子があり運転席との間には仕切りが置かれていて接せられない様になっていた。故に正面の展望は望めずまたレースのカーテンによって仕切られているので明かりこそは確保されているもののどこか薄暗い印象は否めなかった。
車に乗せられてからもうかなりの時間が経っている、夜明け間際の独特な色合いの空の下で最後に外の空気を吸ったのがはるか遠くの世界の様に感じられて仕方がなく、またあの時に交わした挨拶以来今に至るまで一言も言葉を発していない。ふと視線を逸らせば妻は眠っていた。この1週間、いや彼の処遇が決まるまでも含めたら1ヵ月近くを緊張と多忙の中で過ごす羽目になっていたのだから当然だろう。そしてそれは申し訳なく、疲労の色が浮かんでいるその眠る顔を見ているととても居ても立ってもいられない気持ちになり胸が苦しくて仕方がなかった。
一方で息子とは言えば車に乗ってからしばらくは寝ていたものの、今では起きて先ほどまでは話をしていたが今やすっかり携帯ゲーム機の画面を見つめて指先を動かしている。今年で小学校4年生となっていた息子にしても今回のいきなりの、彼にとっては転校と引越しは大きな驚きであったらしく彼なりに色々と大変だったと聞くがその前向きとも言える性格が幸いして、今では転校先はどの様な所なのだろうかと言う事にすっかり関心を示しているものだった。
"多分、あと1時間位だろう・・・しばらく寝ているかな。"
彼自身にしても、自らに起因しているとは言えこの1ヵ月間は我ながらよく発狂しなかったものだと言うほどの多忙と緊張の中にあった。それでも家族の事を思うと、つまり前述した通りな家族ら対する負担を思うととてもそう素直に思えたものではなくむしろそれらも背負って一層、ますますの深みに落ちてしまう様な気がして仕方がなかったのだから。そして静かにまぶたを閉じて、高速道路を走る揺れに身を任せて眠りへと沈んだ。
「あなたが新しい駐在さん?結構若いのですね。」
運転手に起こされて目を覚ますとそこは夕暮れ時の港であった、眠りに落ちる前はあと一時間ほどと予想していたが更に数時間走り続けていたらしく一般的な地図に名前が載っているのか?と思えるような、これまで住んでいた地域と比べたら明らかに湿度が高い集落にある漁港でそこから船に乗り換えであった。
最も漁港とは言うもののあの波の音などはそう響かない、確かに聞こえてはいるがずっと穏やかであの塩臭さも不思議と感じられない。風向きがそうだからだろうか、いやそうではなかった、そもそもここは海とは言え淡水の湖であったのだからしなくて当然なのである。最も島と言う事から編を連想していたからこそ、彼、そしてその家族もこれには呆気にとられた表情を浮かべざるを得なかった。
「ねぇ・・・あなた、湖だったのね。」
「そうみたいだ、てっきり海と思っていたけど・・・。」
十数時間振りに交わした会話がそれであった、心なしかどこか心がほぐれたそんな気配が感じられ・・・一気に饒舌にお互いになっていく、荷物を船へと移しながらここ最近の事、そしてこれからの事等を大きな声ではないが普通の言葉にて交わし続ける。その中でも矢張り言い合ったのはどう言う生活が待ち受けているのかと言うことだった、部長より渡された書類の中をそのままに受け取るならそれは本当これまでとは違う世界としか言う事が出来ないからだ。だがどこかでまさかそこまではとか、逆にむしろもっとと言う考えが浮かんでしまうので不安ではあるが早く現地を見てみたいと言うのが結局の結論だった。
そして船は、どうやら沖合いに見えている島への定期船の様で荷物を積み込み乗込んでから30分ほどしてようやく動き始めた。漁船を大きくしたような小型船でエンジンの音が大きく響き渡る、その中で見れば見るほど近づいてくる島影を見ていた時、不意にかけられたのが冒頭の言葉だった。
「えっああはい、島の方ですか?」
一瞬戸惑いを浮かべたものの、振り返ればそこに居たのは良い年のご婦人と言う感じの女性でちょっとした包みを手にしていた。そしてこちらからの問いに対して静かにうなずくなり、再び口を開く。ようやく新任者が来てくれて安心したと言う事、島と外とのやり取りは基本的に駐在人が担当している事、故に居ない間は島の者が交代で外へと出て必要な事をしていて自分も今その帰りとの事だった。
「と言うことは、基本的には島の外には出ないのですね?」
「ええそうです。この船も必要な時しか出しませんし、それは駐在される方にも言える事です。」
部長との最後のやり取りで聞いた内容の一部、閉鎖的な土地柄と言う事に対する問いはかくのごとくあっさりと明快なものだった。つまりは島の住人となった以上、その出自や立場に関わらず原則としては島の外に出る事は明確な理由がない限り許されていない、それが決まりなのだとその女性は口にした。
「それで不便などはないのですか?」
ただそれは本当なのかと言うのはどうしても消せ得なかったからこそ、彼としても愚問であるかもしれないと思いつつその問いをそっと投げかけた。少なくともそう言い切られる気持ちは分かれども、その対象がもしかすると今話をしている相手にとっての常識であるかもしれないからだ。つまり自分がそうであるから皆も同じである、と言う一種の思い込みから来る発言ではないかと疑えてしまったからであった。
「ありませんとも、私たちの生活に不便など有り得ません。何故なら変わってしまったのはあなた方、島の外の方々では有り得ませんか?」
そしてそれは思った通りの問いかけであったようだ、幾分か気分を悪くしてしまったらしくそのご婦人はそのまま口を閉ざしてしまった。ちらっと視線を妻の方に向けるとふと困惑したような表情を浮かべているのが見え、彼はそれに対して何とかなるという思いを込めてふっと微笑を見せて視線を元に戻したがこれから住まうことになる島の住人、その全てではないがその1人との気まずい初対面となってしまった事、そして改めて消えずに意識されてしまったこれからへの不安に加えて、ふとなるほどそれは言えていると思えてしまうその考え方の3つの屈折の中でふと表情を曇らせてしまったのだった。