水銀の重み・前編 冬風 狐作
 僕は何故かあの部屋、そしてあの部屋にあるある物が好きだった。その部屋のあるのは学校で、校舎の中の教室よりも広い理科の実験室。その更に奥にある自分の狭い部屋の広さにも似た準備室の冷蔵庫、その中には入っている小さな小瓶。銀色ではなく銀色にも見えるねずみ色に近い物質、小瓶の中でそれは半ば以上を占めて残り上部は普通に水で充たされているようだった。そしてたまらなくひんやりとしていた・・・あの小瓶。
 その準備室には絶対と言う事は無いが少なくとも教師の許可無く立ち入るのはよろしくない事だったのだろう、しかし僕は入っていた。教師に許可をもらって?いやそんな事は無く、ただ昼休みとかに皆の気が緩んでいる時にコッソリとその階へ回って、そして堂々と踏み込んでいたのである。
 しかしそれはある日突然に泡と消えた、全く予期せぬ事ではなく事前に承知していた事なのではあったが・・・あのひんやりとした冷たさが失われた事、それには僕は少なからず同様をしばらく覚えなくてはいけなかった。

「ん・・・?扉が開いているな、誰か入ってきたのか?」
 年度末まで後二ヶ月余りとなった4月起源の暦としての師走、それは太陽暦と同じ様に矢張り忙しさと忙しなさを伴う時期であった。特に学校、中でも高校・中学では学校一丸となって卒業年次の生徒達を無事卒業、そしてその先にある新たな段階へと進ませるべく必死さも加わる重大な時期とも言えよう。
 その中で彼、京野道広は比較的ゆとりのある立場であった。どうしてかと言えばまず彼は担任や主任と言った立場に就いていない・・・そもそも非常勤講師であるのだからそういう立場に就く事はまずありえない。担当した生徒達の受験や進学の為に各書類も自ずと自分の担当した分野に限られてくる。
 また、何よりも専任講師として言わば生物科を仕切っている教員が何でも自分でやりたがる性分であったのもプラスに働いていた。しかし以上の事実があるからと言ってそれを不真面目として批判するには値しないだろう、幾ら他の教員よりも楽な仕事をこなしているからとは言え、それは与えられた職務の中で責任を果たしている事には何ら変わりは無いからだ。そもそも常勤と非常勤で根本として他の立場が違うのである、だからそれには当たらないし加えてまだ知らざる彼がある事を我々は知らない。
 ではその知らざる彼とは一体何なのであろうか?生真面目さかそれとも私生活であろうか?残念ながらそう言う事ではない、考えてみるとどうしてこんな時間・・・時計は19時を過ぎた頃、まで彼は生物室に隣接してある生物科教員室の中、そこの自分の机に向かって黙々と作業をしているのであろうか。もう常勤講師は帰宅しており、何よりも彼は書くべき書類は既に仕上げてそれぞれの生徒の担任に手渡してある。
 しかしその机の上には積み上げられた書類・・・と言うよりもプリントの山があり、その一つ一つを丹念に見て細かく中身をチェックする姿。そこには真剣さがあり時間を忘れて取り組んでいる彼なりの夢中さがあった、では彼がそこまで打ち込むそれは一体何なのだろうか。

 ここで思い出して欲しい、彼は教師であると言う事を改めて。非常勤と言う事は関係無しにとにかく教員、教員と言うのはそれが公立であろうと私学であろうと対人、つまり生徒と言う1人の人間に教授し何よりも共にいる存在である。そこにある生徒は言ってしまえば非社会人として、社会人とは又異なった感性を持つ発達途上の存在に他ならない。
 そしてその感性は時として御しやすく、時としては手強く時には脅かされる・・・言ってしまえば予測不能の一言に尽きるだろう。もっと砕いて良い様に言えば将来性と楽しみがあり、悪い様に言えば現実的に一歩誤れば将来がどう転ぶか分からない脅威であるのだ。そして生徒達は集団で教員と相対する、幾ら年の差があってもそれは数の論理の前には物ではなくなる事も多々あるのだから脅威なのだと言えよう。
 しかし言えようと言う事は、なくなる事も・・・と言う事はそうならない事もまたあると言う事を示している。少なくとも京野にとってはその後者が当てはまる事だろう、そもそもその机の上にありそして熱心に目を通すプリント・・・それは彼が希望者にだけ配布した特製の添削プリントである。京野は生徒の間で定評の、それも良い意味での物を学年を超えて持つ数少ない教師であった。
 分かり易く的確、何よりも不思議と自ら勉強に向かう様になる・・・それがその評判だった。そのことが他の教員に知られているかはともかく生徒の間ではとにかく広がっており、彼が担当する授業・・・この高校は単位制であり他にも色々と独特な仕組をしているので、毎度学期始めには抽選が行われるほどの人気振りなのだった。
 そして課外で行う講座も同じくであったからこそ、本来のすべき仕事が終わってもこうして多くの事をこなさねばならなかった。だがそれは決して負担ではなく彼にとっては当然の事以外の何者でもない、だからこそこうしてやって行けるのであり引いてはそれが彼、何よりも生徒の利益となっている。それが重要な事なのであった。

「誰かいるのか?」
 急に暖かい部屋に流れてきた冷気、それはほんのりと漂う埃臭い臭いから廊下にある空気・・・ともなればそれが意味しているのは廊下と仕切っている扉が開いたということである。しかしこの生物科教員室の廊下と繋がっている扉は、硬く閉ざされたままであり微動だにはしていない、となるとこの冷気は、背後の生物実験室との間で開かれている扉から流れ込んで来ていると言う事になる。
 つまりそれは生物実験室と廊下をつないでいる扉が開いていると言う事に他ならない、しかし少なくともずっと今に至るまで机に向かい、またその間の出入りも全て教員室にある廊下との間の扉を介していたのであるから開く筈がないのだ。
 何よりもその実験室の扉が閉まっているのを先刻、規定通りに確認したのは京野自身なのだから余計に強みがある。幾ら鍵が壊れていて完全な施錠は出来なくとも自然に開くほど柔な扉ではない、そして誰か来ると言う話も聞いていないからこそ・・・誰かが入る為に開け、そして入って来ているのだと言う確信を持って夜光に沈む実験室に向けかって立ち上がり、体を半ば入れて壁際の電気のスイッチを入れた。
「あ・・・先生・・・。」
 そしてその明かりの下には見慣れたとは言えないが覚えのある顔が、制服を着て驚いた様な顔をしてこちらを見て固まっていた。それは数ヶ月ほど前に転校して来た2年生の男子、そして2人共眼鏡越しにしばし見詰め合い・・・頭を必死に働かせていた。


 続
水銀の重み・中編
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