水銀の重み・中編 冬風 狐作
 予想はしてはいたとは言え、こうも鉢合わせにも近く相対する形になった2人。彼らは思わず息を呑みそして思考を互いに忙しなく働かせる・・・それぞれ異なるとは言え相手について捲らせるのであった。
"確かこの生徒の名前は・・・何だったかな。"
 京野が浮かべ巡らせていたのはそれであった、顔は覚えているそしてこの生徒がこの学校に来た経緯も全て覚えている。しかしどうした訳か分からないが名前だけはすっかりその全てから、それこそ空白と言う言葉が似合う様に抜け落ちそして思い出せられない。
 顔はほぼ日々、授業のある度に見ているから馴染みの顔、この学校に転校して来たと言うのも親の仕事の都合に寄るものでそれが経緯・・・では名前は?それが浮かばないし、ヒントとなるひらめきにも通じた頭の中のしこりすら感じられなかった。
"弱ったなぁ、どうも聞くわけにも行かないものだしなぁ・・・。"
 そしてその場を取り繕うように片手で軽く首筋を掻く。だがそうして京野自身が焦りと迷いの中にある一方で、相対する生徒もまた同じ様に焦りと迷いを抱えていた。彼の名前は青村良吉、それ以外の事は少なくとも京野の知っている通りの二年生である。
 彼の働かせる思考、その中身は表向きの激しさこそは似ているとは言え全くの別物であった。焦りの中に内包された悩みと決意、全てが並列に同じ様に位置しているのではなく焦り、悩み、決意の順に順繰りに内包されているのが特徴的だろう。
 少なくとも彼は何かを忘れてしまったからではなく、こちらから行動しようとしていたのに先手を不意に打たれたが故に焦っていた。本来はその中に内包されている迷いがその思考の一番外側にあったのである。だが二度も先手を、つまり京野の側から言葉を投げかけられてそれに反応するという轍を踏む様な愚を犯す気は早々なかった。青村はすぐに焦りの余り染まっていた白の中から思考を解き放つと、わずかな動揺感を漂わせつつも言葉を投げかける。
「あの・・・何時もお世話になっている青村です。」
「ああ、どうしたんだい?青村君、こんな時間に生物実験室に忍び込むように入り込むなんて。」
 京野の返事を聞きつつ青村は、自らが教師からの反応に対しても若干の恐れを抱いていた事に今更ながら気がついた。青村自身は大抵の教員、つまり京野を含めた教員全般との関係は良好であるし、何よりも中より大分上の成績である事ので転校生として日が浅いにも関わらず、期待と信頼を得ていたのは大きかった。だから特段恐れる必要は無いが矢張り見つかったというのはある。それが前述した様に先手を打たれた、つまり先に気が付かれたと言う事で想定外の事態への焦りに伴って恐れが生まれたに過ぎなかった。
 そして気が付くと共にその恐れは消える。内心で忘れていた名前を、こちらから尋ねる事無く聞くことが出来た事に安堵しているとは青村は知らない京野から返されてきた言葉は、至極何時も通りでそこに問い詰めようと言う気配は微塵もなかった。何より、京野の顔が微笑んでいた事が青木の恐れ、更には焦りの全般と悩みの大部分を打ち消す結果となった。そして決意が強化され、ふと彼もまた京野に対して微笑を浮かべて返し言葉を続けた。そうどうして来たのかと言う納得出来る用件を口にした。
「ちょっとお聞きしたい事がありまして・・・それで。」
「ん・・・ああ、今日の講座でのかい?質問ならあの時受け付けると言った筈だが・・・。」
 少しばかり強い口調で京野は眉をひそめつつも尋ねる。最も何時もこうしている訳ではない、もっとただ時間帯が悪かった。そもそもこの様な時期のこの時間にわざわざ尋ねに来る、その事に対して京野は眉をひそめたのだ。質問を聞きに来る事は良い事だしそれを彼は推奨している。だからほぼ毎日の様に数人の生徒が、日々異なる顔触れだとしてもこの生物室へ足を踏み込んでくるし、丁寧にその都度互いに納得するまで額を突き合わせる事もしばしばであるのがその証明だろう。
 だがこの様な時間、時計を京野が軽く顔を脇に動かせて覗き見ると19時半も回った辺り。これが受験なりを控えた三年生であれば、まだ別の校舎にて居残り学習会をしているから聞きに来る事はまだ有り得るし何よりも承知している。だがまだ受験に関係ない・・・最もセンター試験まで1年を切り、受験生たる3年生の中にも推薦から始まって一般入試でも合格者が出ているこの時期にあっては既に受験生なのであろうが、とにかく少しばかり早すぎるのだ。
 だから眉をひそめ見つめる。だが長くは続かずすぐに落ち着いた表情に戻ると、京野は教員室の中に青村を招き入れて何時もの様にそれ用に用意してある椅子に腰を落ち着かせた。それを見届けてから京野も自らの腰を下ろす。
「さて・・・どこで質問なのかな?」
「ええっとですね・・・このプリントの・・・。」
 京野の言葉と共に鞄から青村はプリントを取り出し言葉と共に指で指し示す。それを京野はじっと眺めて・・・少しばかり早くそして遅い解説の時間が始まった。

 青村の疑問は単純な幾らかの事柄が絡み合った上でのものであったから、そう解決に時間は要しなかった。しかしその時間は有に1時間を越えていて、終わった時には時計の針が示すのは21時。もうすっかり夜でありまた暖房がかかっているからいいものも、それでも鉄筋コンクリート造の無骨な校舎ゆえ何処か薄ら寒い・・・。
 京野にとっては何時もこの位まで仕事をしているから特に差し支えはないのだが、問題なのは青村であると京野は見ていた。今時の高校生は・・・とは言え矢張りこうも遅くなるのは幾ら己の監督下にあったとは言え矢張りよろしくはないと言うのが昔からの信条だ、また幾ら暖冬であるとは言え夜は強く冷えるものだから体調でも崩してしまったら・・・とふと心配が走馬灯の如くその脳裏を駆け巡る。
 しかしその思う心を知ってか知らすが青村はどこか未練がましそうに、それでいてささっと片付けると鞄を手にして座り込んでいる。手早く片付けたからには早く帰ろうという意思があるのだろうが、片付けた後も尚も座り込んでいるその姿に京野はどうも弱かった。何故だか自分も座り込んで立ち上がる気にならないのである。
 無言のまま向かい合った解説の時と同じ構図で向かい合い座る教師と生徒・・・どこか滑稽な沈黙の時間、時計の針だけが静かに動き時間だけは流れ2人はまたも思考の中に没頭する。そこで最も強く考えられていたのは京野が如何にこの何処か繊細さを漂わせた転校生、つまり青村のそれを傷付ける事無く家へ帰宅させるかと言う教師らしいものであったのに対し、青村は今や最も剥かれた思考の中の思い・・・決意をどう示すかと言うことだった。
 そもそも青村のした決意とはただこれ如き、つまり質問が目的なのではない。確かに質問したい事、つまり今解説してもらった事があったのは事実で大いに気になっていた事だったから、それが解消されたのは喜ばしくその為に聞きに来た事それもまた決意の1つだろう。
 しかしそれは主ではない、ある意味教師、つまり京野の下に来る為の口実や建前に近く主な目的ではないのだ。そしてその目的はその心中にまだわずかにも解けずに残っている、まだ果たされていもなければ今この場で表に出していない目的・・・それも今日に対する決意。最後の最後の段階になって、ある意味その様な事を述べるのに絶好の機会である今になって、わずかに躊躇する己を恨みつつそれでも言えない自分に寄り掛かりつつ京野を見つめる。そして・・・。
「あの・・・。」
「おっセンセ、まだ仕事してたのか、毎度熱心だねぇ・・・そろそろ時間だから見に来て良かったよ。」
 だが躊躇する事、それはまだ言うべき時ではなかったとも言える暗示だったのかもしれない。ようやく口を開きかけた瞬間、教員室の扉が開けられ冷えた廊下の空気と共に新たな声が飛び込んでくる。振り向けばそこにいたのは守衛の姿、それに京野は軽く会釈しつつ立ち上がり青村の方に手を置く。
「いやねぇ忙しくて、あとほら解説もしてたから・・・普通ですよ。ちょうど終わったところですから良かった。なぁ青村君。」
 いきなりむけられた声に再び青村は今日の最初の時の様に慌てて応じる。そして立ち上がると京野と守衛の2人それそれに軽く頭を下げて、京野にはまた来ますとささっと言葉を投げかけるとその足で廊下を駆け足で去って行ったのであった。
「ああ、何時でも来てくれな。」
 その京野の言葉が耳に届いたかは分からない。


 続

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