夢示す・前編 冬風 狐作
 薄暗い世界、しかし幾筋かの確かな光の感じ取れる世界・・・そう朝が来た。目をこすりながら体を起こし瞳を開けたそこは見慣れた、何時終わるとも知れぬ片付けの真っ最中の俺の部屋。あちらこちらになだらかな稜線を持った山の姿、正確には本とそれ以外の物によって出来ている手製の山。
 すぐ片付けるつもりであったのに気がついたらずっと放置しっ放しで今に至っている山がそこにはある。そんな雑然とした部屋を見て軽く息を吐くと俺はそっと心を撫で下ろす・・・ようやく目が覚めたと静かに撫で下ろすのだった。

「やあ、広石君おはよう。」
 自転車をこいで進む学校への坂道、軽い単調な坂道の両脇にはススキが無数に密集しており吹く風もどこか涼しい。ほんの一週間前まで湿気と明らかに熱い熱気を含んだ風が吹いていた、あの熱射地獄の影はどこにもなかった。
 ふと背後を見下ろせばそこには町、色とりどりのトタンに瓦屋根の家々の広がる町の所々に、そして少し抜けた先の辺縁部には一面広がる淡い黄色の絨毯・・・まだ青々としていた筈の稲はここ数日ですっかり装いを改めて、今や稲穂を垂らしつつあり数週間もすれば気の早い農家の田圃から稲刈りが始まる事だろう。とは言えこの辺りでとれる稲はどうも質が良くないと聞く、土壌などの様々な要因によるらしいがどうすればよいのか手をこまねいている・・・そんな事を以前に取材に行った先にて耳にした事がある。
 そんな事を思いながら立ち止まり今一度自転車のペダルに力をかけて登り始めたところで一台の軽いエンジン音が背後から近づいてきた、大体察しはつきつつもそのままその場で立ち止まり振り返るとそこには明らかに数世代前の何処となく丸っこい旧式の軽トラの姿。そして運転席の窓からは見慣れた顔がのぞいている。そう教授の顔だ、入学前のオープンキャンパスでの個別相談会の時から不思議な事にずつと縁があり、今ではゼミの担当教官とゼミ生と言う間柄になっておりその逸話はゼミの中では誰もが知る話となっていた。
「乗っていきなよ、どうせ僕のところに用があるんだろう?」
 低速で接近してきた軽トラを真隣に止めると教授は事も無げに、明らかに手馴れた調子でそう誘ってきた。それを受ける俺にとっては全く断る理由がない。
 夏季休業中の大学にわざわざサークルにも入ってないのにやって来たのは教授に用があってのことだし、何よりも町を一望できる丘の上に十年ほど前に移転したこの大学は国立大学の強みを生かして毎年のように拡張しており、丘の上に止まるどころかそれを裕に食み出して周辺の山の斜面にまで広がっている。
 お陰で大学の面積が全国の大学の中でランキング何位だとか言う話が先日の学生新聞に載る始末で、その事に大学当局側と学生の中でも単純に能天気な連中は喜んでいるようだが、大多数の学生と多くの教職員にとっては迷惑極まりないばかり。
 一応学部ごとに敷地は定められているのだがそれはあくまでも移転当初のコンパクトな案によるもの。移転からしばらくしてから学長が交代して以来、新学長の下ではそれまでの学長がライバル関係にあったからとか何とか言われるが、当初案を殆ど無視した大拡張案が一気に練り上げられて実行に移された。
 当然そちらはそちらで配置を考えていたものだから、既に完成していた各学部校舎の位置との整合性が取れていないのは当然で学生・教職員の間からも懸念の声が上がった。しかし聞く耳を持たない上層部はそれら一切を前学長派による反対工作として無視し計画を断行。結果として8つある学部全てが均等にその独断専行の被害に遭う羽目になった。
 中でもいの一番に移転していた文学部は最大で1.5キロ近く敷地を横断しなければならないと言う、現学長の出身であるにもかかわらず燦々たる現実に直面させられている。その事に対して前学長の出身であった法学部から表向きではないにしろ同情の声が寄せられる始末であった。

 そんな上層部が訳の分からない合理的でないことばかり仕出かす大学であるが、国立というブランドに加え地方にありながらも、堅実かつ着実に使える人材を輩出してきた事もあってレベルは高く人気も根強い。俺もそんな流れで入ってきた口であるし、何よりも都会の大学へ行くよりも学費以外の諸費用の面で大いに助かる事が一番の決めた理由だった。
 実際入学してみると前評判通りに中身はしっかりしている大学で、教授や学生も生き生きとしており中々に面白い。唯一上層部がおかしいだけだがその上層部を反面教師としているからこそ下が・・・の向きも否定は出来ない。しかし純粋にそういった細かい事を考える事無く俺は大学に馴染み、そして今やこの土地にも慣れてすっかり地元顔負けの情報を蓄えて行動している。
 そんな俺が所属しているのは第一社会学部、第一というのは朝から夕方までが講義時間帯と言う一般的にイメージされる大学であり、第二がつくと夕方、正確にはこの大学では昼から夜までが主な講義時間帯となる夜間コースとなる。
 その第一社会学部村内ゼミが俺の主な居場所だった、そして軽く礼を言いつつ後ろの荷台に自転車を載せると助手席に腰を下ろす。それを見届けた教授は満足げに微笑むとアクセルを踏み、ディーゼルの排気音も高らかにもう良くぞ現役で走っていると思えるほどの黒い排ガスを後に残して坂を駆け上っていった。

「んー良い出来だね、これは良い。」
 何時も通りに研究室に置かれた半ば擦り切れたおんぼろソファーに腰を下ろしつつ、持参した麦茶を飲んで涼をとっていると満足げに呟く教授の声が聞こえた。ふとそちらに軽く横目を流せば本がうず高く平積みにして俺の部屋の状況よりも酷い、崩れた壁となった向こうに辛うじて机の上部の木が見える。その机の上にも山となった書類と本の中に埋もれる様にして、先ほど渡したA4版の紙・・・レポートに目をやる教授の姿がようやく確認できるほどなのだから。
 正直言ってもう何十年もここに住み着いている、そんな気配すら漂う本の芳香に満ちた部屋は実は1年前に出来たばかりのまだまだ新しい研究室だ。2年生の時にはまだ第一社会学部は第二社会、医学、薬学、生理化学部と共に町の中にありそこにあった研究室の入った建物は築100年かどうかと言う年代物の骨董品。当然ながら冷房はなく窓を開け放って扇風機を最強にし川縁にあった事から、時間になると吹く川風に頼る今時では到底考え難い古典的な方法で夏を乗り切るのが風物詩となっていた。
 その時の村内教授の研究室と今の研究室とではどう違うのか・・・それはこの研究室に来て少しでも暇が出来る度に思わず考えてしまう事だった。散らかり具合は若しかするとこちらの方が酷いかも知れない、かつての研究室の方が散らかっていたとは言え、散らかりの中に一応の整然さは保たれていたと感じられる。
 どうしてその様な事が生じている、いや生じていると見えてしまうのか。それは矢張りその場所にどれだけいるかの差なのだろう、つまりはどれだけ村内教授が居座り馴染んでいた度合いではないのかと思えてならなかった。言ってみれば巣作りである、かつての研究室に教授は任官して以来20年近く居座り続けていた。
 その間教授はその都度その都度の必要に応じつつ、その度毎に片付けさえしていればベストであっただろうが、まるで地層であるかのように新たな形を築いては築きと延々繰り返して来た訳である。だからこそそうして出来上がった研究室の様相、そう言う事を知らない周囲の素人目からすると大変なとんでもない物以外の何者でもないが、当事者たる教授にとってはその研究室・・・つまり"巣"の形状は大変居心地の良いものであった事は想像するに難くはない。
 しかしその"巣"は自らの意とは別の次元の決定によって破壊されてしまった。恐らく教授は意向調査の際に反対の意思表示をした事だろう、しかしそれはほんのわずかな少数派でしかなかった。殆どの教授はあまりにも旧式で猛暑の下で苦しみつつ、職責を果たさねばならない環境に既に愛想を尽かしていたのだから。
 そうして圧倒的多数の賛成の下に行われた計画とその実行の前に村内教授はすっかり沈黙した。時折学生相手に愚痴ることはあったがそれも本当に軽い愚痴、研究室を"巣"にまで仕立て上げたあの愛着を、破壊される事への惜しみと反感を抑えて努めて冷静に・・・振舞っている間に新たな敷地に新たな研究棟が完成し引越しがなされたのだろう。
 そして新たな研究室、これまでの物よりもずっと広く冷暖房完備で断熱構造と言う割り当てられた研究室に足を踏み入れた村内教授が一人にんまりと笑った事もまた想像するのに苦労はしない。この無垢とも言える空間をいかに自分好みの過ごしやすいものとするかと頭に浮かべた事は。そして荷物が運び込まれた時点で教授は抑制を解除した、そうそれまで溜め込んでいた様々な思いを新たな"巣"の構築の為に噴出させ爆発させたのである。
 封じ込められて時折愚痴としてしか、それもわずかにのみ噴出すことの出来なかったそれらは喜怒哀楽全てを包括し、それもそれぞれの感情の最も強い部分であったからその濃度は高い。高濃度に圧縮された喜怒哀楽は教授の考えそして行動の中を目まぐるしく激しく動き回り、その結果できあがったのがこの今の研究室。しかし教授が・・・20年の伝統と実績を持つわずか2年で納得する筈が無い。だからこれはまだ未完成なのでありまだまだ展開されていくのだろう・・・。

「おーい広石・・・広石君っ。」
「あっは・・・はいっ。」
「どうしたのかね?ここに来る度何か考え込んでいるようだが・・・。」
 気が付けば教授の姿は本と机の峰の彼方にではなく、すぐ目の前の小さな机を挟んだところにあった。じっと顔を近づけてのぞき込む様にしているのは教授の癖であり、最初の頃は大いに慌てたものだが今ではこれはこれと割り切れるまでに慣れたものである。
「いえいえそんな事は無いですよ、教授。」
 正直言って何事かと考えに耽っていたのは事実であり全て読まれている。しかしそれはあくまでも考えに耽ると言う形に過ぎない、その中身・・・それが自らの研究室の事についてとは全く考えもついてはいないだろう。そしてそうであるのを自ら教授は口にしていた。
「ふむレポートの中身についてかね?今回のはなかなかな出来だと言ったのを聞いておらんのかね?」
「あっはいそれは聞いています。」
 慌てて記憶をたどると考えに耽っている間に耳から入り、そのまま聞き何もしないでいた中に確かにその様な内容があったので、さもしっかりと聞いていたかのように取り繕って首を縦に振る。その後も幾つか教授は何を考えていたのかと探ろうとして来た、確かにこの考えなぞ別に隠し通す必要は無い他愛のない考えだと信じているからこそ別に口にしても俺としては良かった。
 しかし幾ら俺がそう感じているからと言って教授がどう感じるかは分からない、納得されるかもしれないしただ受け流されるだけかもしれない。しかしながら研究棟移転に際してじっと心の中に、恐らくは強い気持ちを蓄え込んで来た人だから決して油断できないのも事実であった。
 だから俺は教授の思うところの問いに何も感じていないようにして答えつつ、その本当のところをすっかりひたすら隠す。そしてそろそろ終わろうかと言うその刹那に、あれほどの冷や汗をかく事になろうとは全く予想していなかった。


 続
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