春一番の吹いた翌日の未明、まだ風吹き止まぬ町の小さな繁華街の外れにある居酒屋の中から複数の人影が表へと現れた。彼らは同じ会社の職場に勤める者達で今日は転勤する人を送る送別会である、今回の異動では5名がこの職場から去り別天地へと向かう。
それは総勢12名からして見ると中々の規模の物であるから例年よりも盛り上がり、23時頃にまずは解散としたものの殆ど大部分が残留し二次会三次会そして四次会・・・偶然にも異動するのが1名を除いて全員同期であったので皆飲みに飲み語らった。まるでその様は明日にでもこの世の終末を迎えるのかと思えるようなもので、終いにはもう殆どの者が仮面を投げ捨てていた。
つまり普段見せている彼らと彼らはそこにはなかった、いるのは素のままの彼らでこれが正気で皆いたなら新たな一面の発見に驚きあった筈だ。しかし酔っていたからこそそう思う事はなく仮にそう思ったとしても酔いが醒めると共に忘れ去ってしまった事だろう、何よりもこの様な姿はここまで酔ったからこそ現れた物なのだから。
そうして酔いによって表に暴露された彼らのプライベートは記憶にも残る事無く、ただ酔いの中で起きた夢物語を構成する一幕としてのみ・・・もしかするとそれすらも適わずにある意味では場を盛り上げたBGMとしてしか思われないかも知れない。
しかし時間の事実としてそれが成されたのは残される、それが人には分からない形であっても一秒一秒が無限大なる過去と言う地層に残された上に、彼らは新たなる過去を作り踏み締めていきそして何れはその一つとなるのが定めなのだから。
白々とした未明の空の下に散っていく参加者達、多くが代行やタクシーを利用して帰っていく中で一人珍しく歩いて帰宅している人がいた。彼の名前は岡本啓、28才で今回、初めての異動を迎える。だが今、岡本はこの年齢にしてこの職場の最長老でもあった、それを聞くと十人中十人が驚きを見せるが紛れも無く真実で彼は高校を中退して以来ずっとここで働き続けている。
その長さは12年余り、通常2から3年のサイクルで異動の辞令が下る中で異例の長さであった。当然これに何か事情が隠されていない訳がない、それもまた本当で岡本は自らの会得した技術が故にこうも居座っていたのだった。
彼の会得した技術、それはパソコンやサーバーに関するものである。ふとしたきっかけで父親の使用していたパソコンを通じてその世界に接触した岡村は当初こそただ物珍しさで触れていたものの、一体何がきっかけとなったのかは分からない。しかしその程度の事で技術的な事に興味を持ち始め、学生として学業に励む傍らそういった知識と情報を次から次へと吸収して行った。とにかく吸収を、一体こうしてまで集めた知識をどうするのか、その様な事は当時は二の次に過ぎなかった。
むしろ知る事による喜びを噛み締める更に味わうべく集めに走っていたと言っても過言ではない、だがその答えは意外に早く彼に示された。
それは高校中退という全くの青天の霹靂の出来事であった、成績は中上位にいた岡本だが父親はガンに倒れ頼みの母は既に亡かった。その状況下では仮に奨学金等の支援を受けたとしても、高校を卒業するのが関の山で、そこから先の上級学校へ進める余裕はない。ましてや岡本には3人もの兄弟がいる、一番上こそ自分とは年子だがその下は更に小さい。
その様な現実の中で大黒柱たる父親が不能な今、彼が家族の中で事実上のトップとなっていた。例えそれがどの様な物であっても上に立つ者はその下に従ってくる者に配慮を与えなくてはならない、だが、と岡本が大いに迷ったのは言うまでもない。
そうした果てに彼は高校を自主退学するに至った、当然教師からは引き止められた。しかし事情を説明して立ち去り、最初に見つけた職はレストランのウェイター、それを皮切りに新聞配達、郵便局の配達員・・・とにかく自分に出来ると思った事には片っ端から手を出して奔走した。
だがそれまでは勉強一筋であった身にとっていきなりの急転は、最初こそともかく次第に重課となり体を蝕んだのは当然の事。そして彼は結果的に体を壊し全ての仕事を辞めざるを得なくなる、この時が恐らく岡本自身にとっては人生最悪の時であったことだろう。
布団に身をやつしながら若干快復して来た所で、その状況でも可能な内職を始めぎりぎりの水準を保つように努めた。だがそう生易しい事は無く全て悲観しかけたその時、岡本に救いの手がようやく差し伸べられたのだ。
その手を差し伸べてきたのは近所にある事業所の所長であった、その事業所の所属する会社ではその当時大規模な電子化が企画されていた。しかしその事業所では切り替えまで日が無いと言うのに上手く準備が出来ず、頭を抱えていた所に飛び込んできた話。それが岡本に関する評判だった。生活に困っているパソコン等に詳しい青年がいると、その話を耳にした所長は早速外に出るとその足で岡本の自宅までやってきたのである。
所長は頼んだ、どうか手伝ってもらえないかと。それに対して彼が即断にて引き受けたのは言うまでも無い。そして翌日から彼はパートと言う形で事業所で働く事となった。この仕事に対して彼が蓄積してきた膨大な知識と経験は大いに役に立ち切り替えは無事成功、これでお役ご免かと名残惜しみつつ挨拶をして後にしようとした時、再び奇跡は彼に起きた。そうそこで引き止められたのである、そして以来12年の間にパートから技術系正社員へと昇進して、なお彼はその場に残り、自らを転身させるきっかけとなったサーバー等の管理保守を行いつつ今日までを過ごしてきた。
しかしそれももう終わり、初めての異動発令の時の驚きと意外さへの喜びは今感じている寂しさから比べれば比較にすらする事は出来ない。だからこそ岡本は気を紛わそうかと飲みに飲み狂った、だが酔わない・・・彼は格別に酒に強い体質であった。よって一般に足が立たなくなるほど、極端に言えば酔い潰れて死に掛けるほど飲んでも大丈夫と言う特異体質の持ち主だった。普段は自慢のそして羨望の対象となるこれがどれ程恨めしく感じられた事か・・・そして解散を迎えた時、彼はすっかり酒漬けで体からは酒の匂いが漂っていた。
まさに浴びるほどに飲んだからである。しかしそれでようやく彼は深く酔っ払えたのだ、そして酔い潰れる事は出来なかったのだ。またも失望に彼は襲われつつ、どこか重い足取りで皆から隠れる様に立ち去り自宅へと向かう。昼間であったら道行く人に奇異の目で見られたかもしれないし。それに対して彼も何か行動を起こしてしまったかもしれない。
だからこそこの時間帯である事は岡本自身と不特定多数の道往く人を救ったのだ、しかし完全ではなかったと言えよう。ほんの一瞬の時間帯の隙にして対応し切れないと言えるべきものがまだ待ち構えていたのだから、それも決して動じる事無く。そしてそれは予測出来た事ではなかった。
町の外れの狭い橋、これを渡りって少しの所に彼の自宅はある。今では家にいるのは岡本自身と一番下の妹しかいない、間にいた2人の弟は住み込みで働ける建設会社に就職し家を離れて久しく、父親ももう他界して久しかった。あの最悪の頃とは打って変わって静かな、そして余裕のある生活を彼は今送っている。しかし数日後には妹一人残して遠く離れた土地へと移らねばならない。あの時はまだ8才だった妹も今では19才・・・それも明日には20才となる、もう心配などかける年ではない事は兄として良く分かっているのだが、どこか不安でもあった。
実を言うと妹は兄弟の中で唯一の、高校そして大学へと進学した言わば高学歴者で、今は大学2年生となる。彼が一家を支える縁の下の力持ちであったとすれば、彼女は一家の希望の星なのだ。そして妹自身も、その期待に応えようと努力していたので彼女の地位はもう別格だった。
それは岡本以上に優遇されていたであろうし、何より彼自身がそうする様に仕向けていたのだから。そんな風にして自覚しているとは言え生活し、一度として本格的な社会生活、加えて一人暮らしと言うものを経験した事の無い妹を荒波に近づける・・・しっかりと見守り助ける所は助けよう、そう固く心に誓っていた。
そして橋を渡り切った所で酔った足取りで塀に沿いながら進む。家まであと数百メートルと言う所で角を曲がらねばならないのだが、彼はその手前で曲がってしまった。その手前にある角を曲がるとどこに行くのか、少なくとも行き着く先に人家は無い。
一応家はあるがそれを家であると言うのは難しい所があるだろう。何故ならそこに住むとされているのは神様であるのだから、つまりはその角の先にあるのは鳥居であり参堂そして拝殿へと突き当たるのである。だが酔っ払っている岡本が気付く事は無かった。彼は千鳥足のまま参堂の石畳の端から端へと大きくブレながら奥へと入り込んだ、そうしてようやく気が付いた時には目の前には太い木の柱、そして斜め下には巨大な木製の賽銭箱・・・拝殿の軒下の下へと到達していたのだった。
「ううっ・・・なんだぁお稲荷さんの境内じゃねぇか・・・。」
わずかにそう呟くと、岡本はそのまま拝殿の前を横切り、鬱蒼と茂った鎮守の森を横切って外に出ようと動き始めた。そして敷石を外れ大きく盛り上がった巨木の、地面に張り出した根を跨ごうとした所で不意に踵を返す。
何をするのかと見つめている間に元いた場所へと戻った彼は不意に激しく鈴を鳴らし、平手打ちでもするかの如く激しく手を叩き合わせて拍手をする。その鈴の音に拍手の音は冷たい朝の空気に良く通った。その中で手を合わせつつ彼は頭を一頻り下げると、財布の中から適当に鷲掴みにした小銭を賽銭として入れてその場を後にした。
酔っていた事から順序や作法はかなり無茶苦茶であり、はっきりと何を願ったのかはもう離れ始めた時点の彼の頭の中には浮かんでいなかった。だが岡本は何処からとも無く湧き上がる高揚感と達成感に包まれ、そのまま森を横切ると柵を乗り越え自宅の前へと続く道路をまた千鳥足で歩んでいった。
家に帰り着いた岡本は寝ている妹の顔をそっと見ると、気が付かれない様に部屋から出て一人更に酒を煽った。何だかすっきりしつつあったのだが、どうも物足りず冷蔵庫の中にあったワンカップの日本酒数本を全て飲み干す。その後は簡単に温くなった残り湯に浸かり、汗と酒の残滓を落として寝巻きを身に付けたら後は、雑多な自室に敷いたままの布団へと身を投げ出しそのまま眠りへと落ちる。
一転して静かになった彼の部屋の中には、あの飲みっぷりからはとても思えないほどの彼が発する静かな寝息の音がこだまする。ただそれのみであった。
ジリリリリリ・・・!
岡本が寝付いて1時間もしない内に家の中にはけたたましい音が響き渡った。そのずっと、聞いていたら精神を害するのではないかとすら思える音に揉まれて妹は目を覚ました。そして彼女はいつも通りの事をこなし大学へ向けて家を出る。最も兄の残した残骸を片付けると言う余計な仕事をした上で、彼女は暖かい春の日差しの下に繰り出して行った。
そんな兄に外れていた掛け布団をかけ直した、その足で。