森の王・下 冬風 狐作
 茂とミルサの奇妙な生活はそうして幕を開けた。あの一連の夜明けの出来事の後、ミサルはここ数日飢えていた茂に朝食を供した。その中身は彼並みに考えた上での内容・・・日頃から常食としている肉を細かく刻んだ上で米と一緒に煮込んだ肉粥、果たして過去から来た茂の口に合うのかとミルサは心配したが、幸いな事に茂は如何にも美味しそうに一気に食したので胸を撫で下ろした次第であった。
 そしてまだ疲れている気配の強い茂に今日は寝ている様に促し、寝るのを確認した所でミルサはその場を離れた。ミルサにもやらねばならない事が幾つかある、それにこれまでは多少放置していても自分が割を食うだけであったが今日からは自分だけで生活するのではない・・・そう考えると不思議と力、いや一種の使命感が湧いてくるような気がしてならなかった。

 茂がこの森に現れてから半月ほどが経過しようと言うある日、目を覚ました茂は何処と無く体全体を襲う倦怠感の存在に気が付いた。こちらに来てミルサと出会って以来、あちらにいた時には有り得ないほど深く満足な睡眠を取っていると言うのに体が重かった。まるで夜遅くまで連日の如くゲームをして夜更かしをしていた時の様な感覚に近かったが、今感じているのはそれよりも酷い様に思われた。
「どうした茂・・・具合でも悪いのか?」
 余りにもどうしようもなくてその場に寝転んでいた茂に狩から戻って来たばかりのミルサが、その手には捕まえてきたと思える鹿の様な生き物の遺骸を掴みながら話しかけてきた。
「うん・・・まぁ何だかだるくて・・・。」
 茂は正直に答えた、そもそも何も隠し立てする気も無かったので率直に感じたままに答えた。ミルサは気遣う言葉と共にわずかに困った気配を言外に漂わせながら立ち去った。そしてしばらくすると朝食を持って来、その後は普段通りに何処かへと姿を消したのであった。茂は非常に申し訳なく感じたが、そうは思えど倦怠感が消える訳でもなく仕方なくその場に寝転がるしかなかった。明日には治っている事を信じて。
 だがその翌日もそのまた翌日も倦怠感は留まる所を知らなかった。もう初日には可能であった事、トイレ等で起き上がる事すら非常な苦痛を伴うまでになり、微熱程度であった熱も次第に上がって今では息苦しくすらある。その様に苦しむ茂を見てミルサは持てる知識と経験を絞って色々と手を打ってくれるのだが、中々それは効かず事態は悪化するばかり・・・もうこのまま駄目になってしまうのかもしれない。
"まさか虫にやられていたのか・・・?"
 とすらミサルが思い、かつ茂るもまた虫とは関係はなしに危機を強く抱く。そう二人が強く感じつつ共有しつつあったそんな矢先にそれは起こった。

"あっ・・・そうだ茂は・・・。"
 ふと差し込む朝日の下で目を覚ましたミルサは慌てて飛び起きるとその4つ足を動かし洞窟の奥へと向かった。洞窟の奥、軽く屈折した奥に茂は寝ている。前夜も遅くまで付き添っていたのだが水を飲みに行った帰りにどうやら疲れ切っていて入り口の辺りで寝てしまったらしかった。その事を悔やみながら更に接近していくミルサ、そして曲がろうとしたその時ある匂いに彼の嗅覚は敏感に反応した、その匂いは彼の本能に深く働きかける物で何処か病み付きになるそんな予感を感じさせられる物だった。
"何だ・・・これ、この感覚・・・体が変・・・。"
 感じた途端背筋が震えるという表現が四足で動く虎に通じるかどうかは不明だが明らかにミルサ自身は己に異変を悟っていた。背筋どころか全身が震える様な感覚、神経が何かに対して極限にまで緊張すると言う感覚であった。そしてその原因たる匂いはこの先のカーブの先、そう茂のいる場所より発せられていた。その匂いから生じた感覚はそれこそ未知の物で皆目難であるのか見当がつかない、しかしこの全身を全感覚を捕らえる代物である事は明確だった。そう思う間にそれこそ意思とは無関係に体は動いて奥へと、カーブを進み入っていった。
 カーブの先、そこはあの己を震わせる匂いが、それこそ濃厚で味等無いのだろうが甘味の中に取り込まれた様にすら感じられる。そしてそこには茂がいた、昨夜最後に見たときと同じ様に横になった姿にて・・・しかし全てが同じだとは言えなかった、若干の違いを持って寝転んでいたと言う事は出来るだろう。まず第一にその姿からは苦しむ様は全くうかがえなかった。確かに汗ばんではいて声も漏れている、しかしそれはとても苦しいとかそうではない・・・安らかな寝息と言うべきだろう。ただ時折寝息にしては大きな喘ぎ声とも取れる物が漏れてはいたが。
 ミルサは思わずその姿に見蕩れいる自分に気が付いた。恐らく数十秒近くじっと一心に見つめていたのだろう、そしていきなり我に返り内心で1人大いに慌てていた。明らかに普段とは異なる自分、気が付きその場から離れようと思っても体が従わずその場に留まり続ける。そして強く息を荒げて興奮していた、体が意思に反して夢中になっている感覚は獲物を狙っている時の感覚に何処か類似していたが何処かで大きく異なっているのを強く感じていた。同一の様で決して同一でない感覚に苛まされる・・・正にそうであった。
"何だ・・・何だよ・・・俺はどうして、どうして茂を・・・茂は獲物じゃない・・・のに・・・どうしてっ。"
 ただそれが同一の感覚でないとまだその時点でミルサは気が付いてはいなかった、あくまでも気が付いたのはもうしばらく先の事でありその時点ではまだ狩をする時と同じに、体が茂を獲物として看做してしまっているのだとただそればかりに考えていたのである。だから彼は必死になって体の制御を取り戻そうと努めた、そうすればこの場から離れて体を落ち着ける事が出来ると信じて動こうと自らの中で格闘していた。しかしそのある意味健気とも言える努力が無に帰すのも、またこの一連の急展開に同調しているかの様に早くそして急だった。
 そう目を閉じ歯を食い縛る・・・ただ意思の下に全てを取り戻そうと必死になったが故に彼はそうした。それ以外にはただ何も思わずに一心不乱になってそのようにしようと努めていた彼は、まるで憑き物が落ちたかの様に体が軽くなったのを感じた。それまであたかも匂いを感じれば感じるにつれ、全身が引き千切られる或いは引き剥がされる様な強い力の圧迫を受けていると感じていたと言うのに、その一瞬の隙を境にその様な圧力は全く感じられなくなり元通りの何も無かったかのような静寂に全てが包まれていた。
 ただ相変わらず響くのはあの音、茂の放つ静かなる寝息と時折の甘い喘ぎ。あの彼を惑わした匂いは不思議と感じられなくなっていた。ようやく体から力を抜きミルサはその場に脱力した・・・これまでに感じた事が無いほど、そして息を大きく吐き肩を上下させると大きく頭を振り回してろくに茂を見ることも無く、すっかり疲れたという足取りでふらりふらりと洞窟の外に出て行った。

 そして更に時間が経過した、朝日が昇り夕闇が来て月が昇りまた朝日が・・・と恐らくそれを3日ほど繰り返した頃の恐らく昼かその辺り。洞窟の奥で動きがあったのはちょうどその付近であった。
「ん・・・んふ・・・ぅ・・・。」
 その呟きとも喘ぎとも取れる息を漏らすのはそこに横たわっていた茂、そう彼はずっとここから起きる事無く横になって眠り続けていたのだ。その茂が唐突に息を漏らして体が軽く揺さぶられて姿勢がずれて目蓋が開く、ぼんやりとした様子でそのまましばし薄暗い空間を見つめようやく目をしっかりと開いて上半身を起こすまでには更に幾許かの時間を要するのだった。
「・・・ああ・・・気分が凄く良いや・・・治ったみたいだなぁ・・・。」
 体に走る何時もの暖かいとも冷たいとも無い普通の感覚。すっきりとしたそれを茂は強く感じそして大きな喜びの息を吐いた、そしてすっかり横になって固まっていた体を解すかの様に大仰に動きつつ起き上がり伸びをする。そのときの背筋を脳底へと突き上げていく感触の心地よさは相変わらずの物であった。
 そして一通り体を解して感覚を取り戻した茂はようやくある事に気が付く、そうミサルの気配がしない事に。何よりもミサルの独特な強い体臭がしない事に気がついた、正確に言えばそれは残り香としてあるのだがあのすぐそこにいる時の強さが微塵も無い。その事に疑問に感じつつ出口の方向へと歩を向けつつ声をかけてその名を呼びかけるも反応は無くその姿も無かった。
「どこかに出かけてるのか・・・な。」
 茂は思わず頭をかいた、せっかく治って目を覚ましたというのにタイミングが悪いと思いつつしばらく佇む。そう洞窟の入口に、岩肌に口を開けた洞窟のそこに立って改めてその周囲を見回した。矢張りそこはあの森だった、あの日茂が辿り着いた熱帯を思わせる風に包まれた森があり燦々と太陽はその光を降り巡らせている。当然それは熱い、じんわりと汗がにじみ出てくるのだが今はろくに身に付けていないのもあってか然程きつくは無く、またもうここにいてそれなりの時間が経過して体が順応してしまったのか違和感すらなかった。
「本当静かだな・・・ここ・・・おーいミールーサー!」
 そして呟くと共に大きく探している名前を叫んだ、静かな森にこだまするその大声は森を軽く揺らめかせたが吸収されて終わった。しばらく反応をその場で待った茂ではあったが反応が中々見られないと分かるや足を踏み出す、そして何かに導かれるように今だ未知の森へと身を投じた。ある意味でそれは一心不乱とも言えようか、必死にそしてある確信を・・・自分が行かなくてはと言う意志を抱いて裸足でほぼ全裸に近い格好で道なき道を知っているかのように突き進んでいったのだった。

 ミルサの耳はぴくりと動きその体はその姿勢のままだった、そうあの大声・・・茂の呼びかけはそれなりに離れた場所にいたミルサにも届いていたのだ。最も虎の感覚を持つのだから聞こえて当然であったのかもしれないが、敢えて彼は動く事無くその場に留まり聞き流して水面に視線を落とした。
"茂・・・目を覚ましたのか・・・。"
 今のミルサにとってあの晩の事は脳にこびりついて今だその多くを覆っていた。あの匂い、甘美な匂い・・・その時の自分の興奮の具合がどうしても忘れられず茂に会うのを極端に恐れていた。そうまた再燃するのではないかと、あの狩にも似た自分の興奮が再び沸き起こるのではないかと危惧していたのだ。どうして危惧するかと言えばそれが元で茂を傷つけたくは無いと言う思い故、助けた存在を自ら傷つける・・・その様な事はしたくなかったからだ。
 だから彼はもうあの朝以来家、つまり洞窟に戻っていない。もし何とか耐えられると信じて戻ったとしてもそれがずっと維持出来るとは到底考えられなかったからだ、だからこそミルサはずっとこの池の畔の水辺に腰を下ろして過ごしていた。何時まで居ればいいのかも分からぬまま、何よりも寝込んでいる茂を放置したままで良いのかと言う思いに駆られつつ悩み苦しんでいた次第と言えよう。
 しかしその思いを知ってか知らずか、確実に茂の足音・・・と言うよりも気配はこちらに乱れずに向かって来ていたのだ。自分がここにいる事は知らない筈であるのに、そもそもこの森の事を殆ど知らない筈の茂が恐らくは彼自身よりも正確にこちらに向かって来ているのである。これもまた彼を驚かせる要因の1つだった、まるでこれでは茂は人ではない、そうとの印象を感じざるを得ない内にその気配はすぐそこにまでに・・・。
「ミルサッ。」
 その声がかけられた途端、ようやくミルサは強い風と共にどこに茂が居るのかを知り、どうしてそこまで茂が正確に現れたのかよりも・・・新たな驚きの前にそれまでの同様は消えざるを得なかった。


   続
森の王・終
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