森の王・中冬風 狐作
「おい、何時まで寝ているんだ。おい起きろ、いつまで・・・。」
「はっはい、今起きますっ・・・てっあれ?」
 少年は声に夢の中で襲われていた、自らの全方位から構う事無く全く同じ抑揚で注がれるその単調な声に恐怖した彼は、夢の中を駆けずり回った挙句ようやく目を覚ました。とは言えそれまで夢の中と気が付いていた訳ではないから、どうしてもその場で拍子抜けしてしまう。ただ1つだけ夢ではない事も分かった、それはそこが全く見知らぬ場所・・・程良い湿気と温度の保たれた薄暗い洞窟の様な中であることに。
「夢であって夢じゃなかったんだ・・・。」
 そう思うと深い溜息が自然と口から漏れた、その時気が付いたのだが自分の体には毛布の様な物が被せられていた。夢ではないリアルな記憶の最後では、鈍い痛みと共に網の中に吊るされていた事が記録されている。そしてあの"連れ帰る"と言う声・・・何者かが自分をこの場に意図的に寝かした事は疑いようがなかった。
「一体誰が・・・?」
 と呟いたその時、背後の方から何者かの気配を彼は察した。そして今度は躊躇いも無く体の自由が利く事を良い事に振り返る。それが人間である事を思って、だが次の瞬間少年は大きく瞠目する事となった。
「おう人間、目を覚ました様だな。どうだ調子は?」
 そこには確かに人の姿があった、そしてその口からははっきりとした日本語が放たれている。だがそうであるのにも関わらず少年が瞠目した理由、それはその姿である。人と同じく二足直立の姿勢をしているその者の体は筋骨隆々として逞しい、だがそこまでならそう驚く事は無くむしろ感心するだけに留まるだろうが、問題はそこからであった。
 まずは表面、その表面は肌ではなく無数の均質な毛に覆われている。黄地に黒い縞の走ったどこか見覚えのある柄をした毛・・・虎柄の毛に全身を覆われていたのだ。そして足の間からはネコ科特有の細く丸めの長い尻尾が見え隠れし、何よりもその顔は正しく虎その物・・・わずかに人の様な面影もあるにはあったが、殆どは動物園で以前に見た本物の虎と全く同じである。
「おい、どうした?具合でも悪いのか?」
 そして開かれた鋭い牙の見える口から漏れる人語・・・日本語、夢と現実の記憶の中に残る物と完全に一致している。獣人と言えば良いのだろう、目の前の虎獣人がここまでの事を自分に施したと言うのは恐らく確定的、そう考えると思わず生唾を飲み込んでしまう。
「いや・・・ここは・・・。」
「何だ、話せるではないか。何処から来た?今時珍しい人間さんよ・・・数年ぶりに見たぜ。名前はなんと言うんだ?」
 その虎獣人は続け様に言葉を少年が発せられると知るや質問をぶつけて来た。少年からすれば相手の事を知りたいのは同じであり、また信用出来る相手なのかと戸惑いと共に不信感を抱いていたのだが、とにかくは他に何も分からない中では頼るしかない。正直、自らの切り出しにて他愛も無い言葉を吐いてしまい先手を無くした事に後悔しつつ、恐る恐る言葉を返す事にした。
「名前は・・・等々力茂、気が付いたらこの森の中にいて・・・ここは一体?そしてあなたは・・・。」
 まるでファンタジー小説の中の一節の様だと口にしながら思う茂、そして獣人はすぐに反応を見せた。
「トドロキシゲル・・・古典の中に出て来る名前みたいだな、俺はミルサと言う。ここか?ここは名も無い森だ。それにしても珍しい格好をしているなお前、人間なんて生まれてこの方殆ど見たことは無いがそんな格好をしている奴は初めてだぞ。」
「珍しい格好・・・?って、あれ裸じゃないか、僕の荷物と服をどうした。」
 そう言われてようやく茂は裸になっている事に気が付いた、余りにも環境が良いので全く気が付かなかったと言う訳である。
「荷物と服?あぁそう言うのか、あれはあそこに置いてあるぞ、ほれ。」
 と虎獣人の指差す先にはなるほど、確かに自分の白い肩掛け鞄と黒い制服が丸めて乱雑ではあるが置かれていた。それを見ただけでどこか心が落ち着いたのは気のせいではないだろう。そして取りに行こうと立ち上がろうとすると虎獣人はそれを制した。
「触るな、それにな。幾らお前の物だとしても・・・虫がたかっていたからな、お前だって死に掛けていたんだから虫のお陰に。」
「虫・・・虫で死に掛ける?」
「あぁそうだ・・・知らないのか、余程良い所で育った様だがこの世界で一番恐ろしいのが虫だ。奴らは隙を見て寄生して来やがる、それでお前達人間は滅亡しかけたんだ中から食い破られてな。」
「食い破られただって?虫にそんな・・・。」
 突然聞かされたその言葉に茂は唖然とした、人類に虫が寄生、中から食い破られる・・・ミルサと名乗った虎獣人はまるで独り言でも呟くかのような口調で話した。"今時になって話す事になるとは思わなかった"との前置きを置いて、話自体は非常に短かった。要は環境は悪化していたとは言え人類がまだ繁栄していた時代に、突如として昆虫が突然変異を起こし人体へ卵を産みつけ始めた事、多くの対策が取られたがどれも功を奏しなかった事、人類は激減しごく一部の者だけが生き残った事・・・。
「俺は幸せだった、あの大混乱の中で人として生き延びたのだから。だがな流石にもう限界、自殺しようかと思っていたその時俺は救われた・・・代償として獣と融合する羽目になったが。そしてこれはわずか50年も前の事に過ぎない。」
「50年前・・・あの西暦は。」
「西暦・・・あぁ昔の暦か、ちょっと待ってくれ確か・・・西暦2189年だったな俺がこの体になったのは。あの時20だったなぁ、でそれを聞いてどうするんだ?」
 良く理解していないのかミルサは不思議そうに尋ねて来た。だがそれを聞いた茂は大いに驚いており、とても彼の様に暢気には内心は落ち着いていられず、重々しげに口を開く。
「僕は西暦2006年から来たのです・・・ですから234年前の時代からこの時代に・・・タイムスリップしてしまったのか・・・。」
 その途端僕は目頭が熱くなった、感極まったのだろう。次の瞬間僕は久々に頬に筋を引いており、それはとても止められなかった。ただ流すままにしていた。

「何、泣いているんだよ・・・泣くな、お前・・・いや茂。」
 そう言うと獣顔ながら不安げな感じを漂わせたミルサは、顔を近づけてその舌で僕の頬の涙を拭った。犬と違ってざらついた舌の感触、どこか慣れないその感触には不思議と心が温まるような気がする。
「ありがとう、ミルサ・・・何だか泣けてきちまって、時代を訳も分からず超えてしまったなんて思うと・・・。」
 僕は恐らくその時に初めて虎獣人の名前を呼んだだろう。虎獣人はその事に気が付いたのかどうか素振りを見せずにしばらく頬を舐め続けた、お陰で頬は唾液でテカテカと輝いている。感触も妙だが嬉しく感じられた。
「そうか・・・俺も理解しがたいが、お前の持ち物とやらを見ると信じたくなるな。俺が人間であった頃、人は繁栄していたとは言えもう過去の文明の反動で年毎に環境は悪化し続け、半ば自然の中で暮らしていたものだ。だから茂の言う言葉の一部が分からないのだろう、始めて聞く単語もあったからな・・・。大丈夫だ、お前は俺が守ってやる。ここで暮らせばいい。」
 ミサル自身も内心では当惑していた、どうしてここまでこの昨日罠にかかっていた初対面の人間に対して気を使うのかを。だがとにかくは理屈を抜きにして思うが侭に行動し慰める事に専念した、それこそが今しなくてはならないのだと自分の中から湧き出る声に押されながらも・・・。


 続
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