少年は懸命に記憶の糸を手繰らせる。記憶の中で少年は普段通りに下駄箱の辺りで友人たちと別れて1人で、学校裏の校門から外に出ると冬枯れた梅畑の中を北風に吹かれながら歩いていた。
"寒いなぁ・・・早く家に帰ろう、今日は確かお父さんがあれを買って来てくれる筈だし。"
少年は寒さに身を振るわせながら、3キロ先の自宅目指して一歩一歩風に立ち向かって行った。折りしも昨日の晩から降り積もった雪のお陰で足場は悪く、寒さは相変わらず厳しいので昼にわずかに差し込んだ太陽によってなまじ溶けた一部はまだ日が暮れていないのに凍っているほどだ。だからただでさえ厳しい冬の通学路は今の彼、中学二年にしては小柄で貧弱な体格をした少年には中々の、そしてある意味過酷な試練とも言えよう。
そんな通学路の途中にはどうした訳かトンネルがある、長さにしては20メートル程で天井川の底を潜ると言う今時珍しい代物であった。夏には川を流れる水のお陰かトンネル内にはどんなに外が酷暑であろうとも、常にある程度の涼しい空気に満たされておりコンクリートの壁に出来た亀裂等から漏れ出てくる水の音も、その雰囲気を更に強める効果をもたらしていたと言っても過言ではないだろう。
だがその夏の涼しさも季節が秋に、冬へと移っていくにつれて心地よい物から変化していく。またトンネルの構造もそれに拍車をかけていた、普通天井川の底のトンネルと言うものはそのまま道路と同じ平面で作られている物であり、多少勾配があるとしてもそれはあくまでも小さな物に過ぎない。しかしこのトンネルは反対側の出口が見えないほど深い勾配が付けられているのだ。そして外以上に中は冷え切っており、漏れ出た水などで路面は凍っている有様で中央に設けられている手すりを使わなければとても安全に歩く事は出来ないだろう。現に少年はこの冬には行ってから既に数回この中で転倒しており、その度に尻餅を付く等して痛い目にあっている。
その様な危険なトンネルなのだが少年にはこのトンネルを通る以外に最適な通学路は無かった。確かに他に道が無い訳ではない、とは言え歩道の付いている立派なトンネルはここから西へ数キロ行った先にしかなく、最寄にあるもう一つのトンネルは鉄道用のトンネル。数年前までならともかくここ最近は線路際に柵が立てられ、昨年発生した死亡事故を受けて監視カメラまで設置されているからとても度胸の有る無しに関わらず立ち入る事は出来なかった。
「うぅ・・・ここは本当に寒いなぁ・・・冷える冷える。」
手すりに捕まりながら急な坂を少年は下っていた。薄い軍手を通して手すりをも凍っている事が良く分かる、そして暗いので吐く息は白く浮かび上がり何時までも残っている様に思えてくる。そして一番底に降りた少年はようやく見えた出口の光と風にホッと一息つくと、再び手すりに手を掛けて今度は坂を上り始めた。正直、こうして上る方が神経を使うと彼は常々思っていた。下る時は先は暗く又イメージ的に気を付けなければと言う意識が働いてくる、しかし上る時は出口が見えていることから妙な安心感を抱いてしまうので気がどうしても緩んでしまう。
だから慎重に進めるべき足も自然と速度が上がってしまい、結果としてヒヤリと神経を使う事になることが多い。そうなってしまうのは良くない事だ、と意識していてもなってしまうのだから始末が悪い・・・その様な事を考えながら彼は坂を上っていた。そして後一歩で外に出るという時、不意に手が滑った。頼りにしていた手すりがその辺りだけガチガチに凍っていたと言うのに、そこで力を強めたための結果であった。悲鳴を上げるまでも無く彼の体は重い頭から重力に魅かれて一回転していく、世界が一瞬で早回りしたかと思うと鈍い衝撃と傷みと共に少年は意識を手放した。そしてその体は勢い良く凍った坂を滑り落ちて寒い空気の中へと消えて行く。
「そして気が付けば森の中・・・こんなに暖かいと体がどうにかなってしまいそうだ全く・・・。」
思い返しながら歩く少年は制服の前のボタンを外し、ネクタイを多少緩めて汗を拭いていた。先程までの、意識を失う前までの環境と比べると今いるこの場所は全くの別世界。暖気と湿度に満ちており、何とか寒さを凌げるよう彼なりに工夫していた服装は今や無用の物となり果てて、その一部は今や肩掛け鞄の中へと丸く収められている。
「でも本当にここは一体・・・。夢の中ではなさそうだしな。」
記憶を幾ら思い返しても、ここが何処なのか一向に思い当たる節は浮んでは来なかった。ただあのトンネルの出口の所で転んだ筈が、気が付いたらここにいた・・・ただそれだけしか分からなかった。
「まぁ取り敢えず・・・行ける所まで行こう。」
そうしてまた汗を拭うと道無き森の道の奥へと消えて行った。
さてその頃、その同じ森の中にて少年とは別に動く影があった。その影は少年よりも大きく動きは緩慢、しかし地にしっかりと付いた安定感がそこには見られる。人より低い視線を放ち薄暗い森の中でジンワリと輝く瞳、その体を覆う縦縞の獣毛に長い丸みを帯びた尻尾・・・そうそれは一匹の獣、虎の姿であった。虎は巨体を揺らしながら静かに、まるで息を潜めるかのように森の中を進んでいきやがて森の奥へと彼もまた消えた。しばらく立ってから咆哮の様な物が聞こえたが、それがあの虎の発した物かは定かではない。
ただこの森の中で確認出来る大型獣は彼、つまりその虎しかいない事は留意しておくべきであろう。
「う・・・朝か。」
少年が目を覚ますと既に日は高く上っていた。昨日は全く聞かれなかった鳥の鳴き声が耳に入ってくる、目の前に広がる湖の上には幾羽かの水鳥が気持ち良さそうに、朝日の中水面を気持ち良さそうに滑っている。まるで風景画の様な世界がそこには広がっていた。
もし少年が写真家であれば必ずやその風景をカメラに収めようとしたであろう、カメラが無くて悔しがったかもしれない。だが生憎少年は一介の中学生に過ぎず心には強く焼き付けられはしたがあくまでもそれまでの事、それよりも少年は酷く空いていた腹に関心が行っていた。昨日の晩は先日食べるつもりで入れておいたコッペパンを半分齧って済ませておいた、一応残りの分量から見るに今日の昼食と夕食、そして明朝までは何とか持つ事が出来る筈だ。
しかしそこから先の目途は全く無い、見た所周囲の木々に実の様な物はなっていないので試しに水際に生えている草や木の葉等を口にしてみたがとても硬くて不味く口に出来た物ではない。良くこんな不味い物が存在するものだ、そう思わず感心させられるほどの不味さであった。これでは小学生の頃に興味半分で食べた川原の雑草の方がまだ食べれた物であろう。
「しかし本当に困ったな・・・食べ物が無いなんて、ここが何処なのか分かる以上に問題だよ・・・。」
そう少年は頭を抱えると半分以下の長さとなったコッペパンを鞄に仕舞い動き始めた。とにかくまずは新たな食料の確保、そして次にここは一体何処なのかを把握する為にこれまでとは全く異なる一日へ足を踏み出した。
だがそう簡単に、予想こそしていて薄々そうなるだろうとは踏んでいたが食糧は見つからなかった。
"駄目だった・・・どこにもないじゃないか。"
その顔には焦りの色が色濃く残っていた。もう日暮れも近く何処か今夜一夜を過ごす場所を見つけなくてはならないのだが、食料が間も無く尽きるという事で頭が一杯でありとてもそちらまで十分な気を回す事が出来ない。その様な有様であるからその歩き方もフラフラとして、何処か頼り無く辺りにも十分な気配を払う所の話ではなかった。
だから目の前に倒木があっても避ける事は出来なかった。実際の所その存在には気が付いており、視野の中にははっきりと捉えていたのだが空腹と疲労、そして強まる焦燥感により散漫かつ緩慢となっていた神経は的確な判断を瞬時に示せず、ようやく出した時には既に足が引っ掛かっており前へ向けて倒れ始めた瞬間であった。それでも衝撃を少しは和らげようと反射的に手が前へと伸び、地面に胴体がそのままの勢いでぶつかる事を避けようとした。
ところがである、またほぼ同時に今度は倒れる体を迎えるはずの地面に変異が現れた。何と勢い良く中空へと浮び始めたのである、平坦で草の生えていた土は持ち上がると共に無数の亀裂を生じさせて落下していく。わずかに残った土は尚も中へ上がって行く物、そう格子状に編まれた網の縄の上に載って・・・それは何者かが仕掛けた罠であった。その事に気が付く間も無く絡み取られて捕らわれた少年の体は、紡錘上に網を弛ませたその中に入ったまま木の幹から吊るされた。縄は太く荒いが頑丈、網の目も意外に細かく網自体が小さいのでわずかな身動きすら出来ない。
"な・・・何なんだ・・・これは。"
その戸惑いの動きすら表にする事は出来ずに少年は、内に示しつつ何とか息苦しさを回避するので精一杯であった。そしてようやく取り戻した正気によって現状を分析し始めたのだが、全てはもう後の祭り。何も出来ないでいる内に日はとっぷりと沈み、闇が再び森全体を覆い尽くされて行った。
少年が網にかかってから数時間が経過した。この狭い網に包まれて身動きも出来ないので鞄の中にある水筒を取り出す事も出来ない、よって酷く喉が渇き同時に飢えも次第に酷くなってきた。正直飢えだけであれば良いのだが喉の渇きだけは如何せん我慢し難い。
元の世界・・・恐らくここは違う世界だろうと状況から判断しての事だが・・・にいた頃には人は飢えても一ヶ月近くは生き延びるが乾きでは数日と持たないと言う事を本やテレビ、そして人の話より度々聞き知っていたが、まさか自分の身にその話に聞いた事が起こるとは思っても無く何処か遠い世界の話の様に、実態の無い話の様に思っていたものである。
だがいざこうなってみるとそう軽く思っていた自分が愚かに思えてきた、そして余りにも身近に潜んでいた事にわずかな恐怖すら覚えてくる。と共に一体この罠を仕掛けたのは誰なのか、と言う事も気になり始めた。
"もしかしたら人間が仕掛けたのじゃないのかも・・・。だとしたら一体・・・。"
どうしてそう思えるのか少年自身も漠然とした考えのままであったので、上手く説明は出来なかったが、それは昨日からこの森を彷徨っていて鳥や昆虫の他に生物を見かけなかったからかもしれない。とは言えただ偶然遭遇していないだけかもしれないのも否定は出来ない、だから少年はある意味こうして罠にかかったのは幸運な事だったとも思う様になってきた。
仮に人間であった場合、人間である自分を見て助けてくれる筈であるだろうし、もし食人族であったとしてもかぐには食べる様な事はしないだろう。甘いかもしれないが彼はそう考え信じようとした、人間以外であると言う想定は敢えて考えの蚊帳の外に外していた。意識的にしたのではないが本能的なものだろう、とにかく少年は自らの未来を信じていた。何とかして生きて行く、その様な希望を抱いていたのである。
とは言えもしこの罠を仕掛けた何者かが一週間も経ってから現れた場合、恐らく自分は死んでいるかもしれないと言う想定だけは同時に止めておいた。もちろんこちらも何者かが人間であると言うのが大前提である、とにかく人として扱われる事。これを少年がその思春期の始まりの心の中にて強く抱き温めていた事だけは間違う事の無い真実であった。
そして念じながら待とうとしたその瞬間、静かな風の音すらもしない湿気た森の奥から聞こえた物音に強く反応したのも無理は無い。生憎その方面は背中側であったので見ることが出来ないので緊張は嫌が追う無しに高まって行く。一旦音は聞こえなくなったがしばらくすると再び聞こえた、そしてそれは次第にこちらへと近付いて来るのが音の調子で手に取るように分かってしまう。何かの足音であるのは違いなかった、それも人の様な軽い感じのものでは無い何処か重々しい四足獣の物の様に思われる。
"まさか・・・襲われるのか?いや高さがあるから・・・。"
心臓は緊張に極みに達して高鳴り汗が止め処なく頬を伝う、そして足音も嫌なもので不意に止まってしまうと言う有様。もし目の前で何が起きているのかを目で把握していたならば、それは安心出来る材料か否かと判断できるのだが、背後では皆目見当が付かず次の瞬間には背後から襲われるのかもしれないとまで思えてくる始末。そして再び物音が響くと大きく包む網が揺さ振られた・・・。
「ヒイッ・・・。」
"しまった、悲鳴が・・・。"
少年は硬く閉めた筈の口元からわずかに漏れた悲鳴に自らを非難する。だが次の瞬間、彼は再び耳を疑った。
「人間か?珍しいな今時・・・。」
男の声が耳に聞こえてきたのだ、それは久々に聞いた人語であった。
「生きてはいるようだな・・・まぁ連れ帰るとするか。」
"連れ帰る?一体、と言うよりも何者・・・。"
緊張の余り声が出せなくなってしまった少年は、思いを深く巡らせる間も無く意識を途絶えさせた。正確にはふくらはぎの辺りに鈍く感じた痛みと急激に広がった徒労感によってなのだが、彼は目蓋を閉じて全身から力が抜けてだらんとなる。そして数分後、その場所には何の痕跡も残されてはいなかった。ただ湿った空気だけが変わらず満ちていた。