翌日、何時もよりも若干早めに家を出た彼女は昨日よりもやや遅めのペースで小走り気味に家の前の道を歩き始めた。日はまだ昇ってこず気配すら見えない、空には雲ひとつ無く月と星が澄んだ空気の果てに燦然と輝きを放っている。その青白さと銀色は暗闇と相まって何処か寒々とした気配を漂わせており、むしろ増幅させている様な気がしないでもない。見るだけでも萎縮させられてしまいそうな空気の下、彼女は大きく息を吐いて気合を入れつつ寒さ険しい道を南の社へと向けて進んで行った。
村の中央を横断する二車線の道路、外界、つまり盆地の外の世界とは未舗装の林道にて繋がっているのみに過ぎないこの村で、唯一外界と同じく舗装され二車線で村唯一の信号があるこの道路の事を住人は大通りと呼んでいる。確かにこの村を東西に一直線に貫き、役所や商店街が沿道に揃っているから正しい呼び名と言えよう。
しかし大通りと呼ばれる道路はもう一つある、それは矢張りこの村を一直線で突き抜ける道、異なるのは盆地内で完結している事と舗装されているがそれが石を敷き詰めた物であるという事、そして南北に貫いている事・・・共通点はそれぞれ村の四方にある社へ直結している事、東西へ走るアスファルトの大通りの終点は東の社であるし、西は西の社の参道入口まで続いた所で左折して山道へと繋がっている。そして南北の大通りは当然ながら北の社と南の社とで完結しており、2つの大通りは村の中央部にて交差している。
ただその交差はただ十字路になって・・・と言う物ではない。実を言うと村の中央には中の社と呼ばれる神社があり、道自体はその参道となって境内の中で交差しているのだが車馬の立ち入りは禁止されている為、中々に広いその境内を丸く取り囲む様に円形に道路が走っているのだ。パリの凱旋門の交差点を想像してもらえればよいだろう、あの様に日本では珍しく欧米では良く見られる大規模なロータリーが、この外部からは半ば隔絶された盆地の中の村で見られるのである。それは外から来た者からすれば十分に驚くに対する、例えその理由が古くからの伝統に沿った物である事を差し引いても十分に。
よって東西に貫く大通り沿いに住む彼女が南の社に行くには一度村の中心部に行かなくてはならない様に見える、しかし実際には村の住宅地域と農業地域の境ともなっている外縁部の農道を歩くのでその様には動かない。尚、このウォーキングを始めたばかりの頃は南の社ではなく距離の短い中の社へと向っていた。何故南の社に変えたかと言えばそちらの方が距離が長いからであり、より効果的であるからであったからなのだが、その様な縁のある中の社経由で南の社へ歩いて行った事は無い。常に外縁部の農道を辿って行くのが常であり、今後も変える事は恐らくないだろう。
そして昨日と同じく、やや楽に力を抜いて参道に入ろうとする辺りで霧が出始めてきた。昨晩の天気予報で今日の日中は暖かく良く晴れると言っていたのでその通りなのだなと実感しつつ、気持ちも軽く足取りも軽やかに霜を踏みつけて上がっていく。幸いにして途中で足を滑らせる様な事も無く鳥居を潜り境内へと躍り出ると、矢張りこちらもこれまでと同じく拝殿まで行きお参りをし、その足で戻ろうとしようとしてその場に止めた。
"喉が渇いたな・・・上手い具合に社務所の隣に自販機があることだし、何か温かい物でも飲んでから帰ろう・・・。"
振り向き様に彼女の視線はその先に社務所の脇にある自販機を認めた。以前からある事は知っていたが、生憎何時も賽銭分とは別に財布を持ち合わせていなかったので買った事はない、ただ今日は幸いポケットの中に小銭が数枚入っている。これは昨日の昼に穿いていたズボンのままで眠っていたお陰で、会社帰りに自宅近くの雑貨屋の前の自販機にてジュースを買った際のお釣りなのだ。〆て900円、この村の自販機の値段は消費税導入前と変わらぬ100円のまま据え置かれているのだった。
社務所は境内の中に2箇所ある、一つは拝殿脇だがもう一つは入口の鳥居付近。ちょうど拝殿と正反対の場所にあり、自販機はその傍らに設置されている。帰るのと同じく歩いてそこへ行き、100円を入れてボタンを押す。買ったのは冬定番のコーンポタージュ、毎度中身のコーンを全て飲むには如何にすべきかと永遠に悩ませ続けられる代物であるが、今回もまた工夫はしたものの数粒は缶から出る事無く脇のゴミ箱の中へと金属の音を響かせて消えた。
「さてと帰ろうか・・・うん?誰かいるのかな、なんだろうあれ。」
缶を捨てて軽くストレッチをした彼女が見たのは拝殿の脇からちらほらと見える明かり。電気と違って揺らいでいる、どうやら松明か何かに火が灯されているらしい。
"変ね・・・秋祭りの前なら何かの儀式とかでこんな時間に松明で火を灯す。と言うのは聞いた事があるけれど・・・まさか放火?神社に・・・まさかね・・・。"
彼女は思わず立ち止まって凝視し考えを巡らせた、確かに何かの儀式・・・自分の知らない儀式をしているのかもしれない。でもそんな物は噂にも聞いた事が無いし、仮に放火でもくわでているのであったら、それは勿論阻止しなくてはならないし特にこの神社は彼女の一族の祭祀する神の宿す所。それ故村の仕来りに習って何か異変を感じたらすぐに確認に赴かねばならないと決まっている、もしそれを怠れば必ずや報いに襲われ、それ以前に一族の者から村八分にされかねない。
何処か義務的なそう言った考えから静かに拝殿の脇へと歩き始めた慎重に接近する。良からぬ事を企ててる輩の可能性も否定出来ないので、参道を歩み拝殿に沿って裏へと回るが火はまだ先に見える。それを見て取ると再び静かに進み始め、拝殿を過ぎて更なる奥へと・・・拝殿の裏までは子供の頃に遊びに来た事があったが、これより先には大人達に言い包められて立ち入った事は無い。だが火はこの先・・・つまり本殿の方角から見えている、本殿は屋根の付いた石畳の拝殿の裏からの参道の先にあった。距離は100メートルほどで途中には塀で区切られ、参道の所だけ山門が設けられておりその扉は閉じられている。
"鍵が掛かっているのだろうけど・・・もう少し行ってみよう。二度と出来ないだろうし。"
恐る恐る忍び足で山門にまで達し、軽く門に手を掛けて押す。あの火はこの先の、木の上から見えていた。よってこの門を潜らねば正体は分からない、覚悟を決めた彼女が軽く力を入れると何の抵抗も無く拍子抜けに扉は奥へと動いた。軋み音すらしない、かなり念入りに手入れが施されている様で何ともほっと力を抜く事が出来た。
わずかに開いた隙間から中へ素早く入る、目の前にはこれまでと同じく石畳みの道が続きその突き当りには本殿がそびえていた。拝殿に比べて幾分質素で小柄なその建物に異常は無い、少し中に立ち行って辺りを見回すがどこにも火の姿は、あれほど離れた箇所からはっきりと見て取れた火は見当たらない。
「変ね・・・幻覚だったのかしら・・・。確かに火は見えたのに・・・。」
疑問に感じた彼女が首を傾ける、取り敢えず本殿前に異常でない事は確認されたので一応その裏を見てから帰ろうと歩を進め裏を見る。すると不意に辺りが明るくなった、前方からの明かりだ、その先には本殿の本体なのだろう近所にある道祖神の様に小さな祠が設けられていて、更にその先の枯れ草の向こうには大きな広場が広がりその中央には舞台。土台が石で作られ、木製の屋根を持つ中々立派な舞台が見えると共に、その舞台の上から2つ赤々と鮮やかに揺らめき燃える炎の姿があるのをしっかりと目は捉えていた。
"舞台がこんな所に・・・火事なの?でもそれにしては火が固まっている気が・・・。"
彼女は生唾を飲んだ。余りにも興味深く衝撃的な光景・・・それにすっかり魅了され虜になってしまい、一歩一歩と極端に音を立てぬよう細心の注意を払って近付いていく。そして舞台の真下に来ると耳を可能な限り敏感に働かさせた、何か小さな物音の様な物が上から盛んに聞こえていたからだ。研ぎ澄まされた耳に入ってきたのは会話の様な物であった。
「今年もこの季節が過ぎ去ろうとしているが・・・駄目だったな。」
最初に聞こえてきたのは愚痴の様な男声であった。
「そうね・・・もうどれ位になるの?最後のが来て。」
「そうだな、彼是60年は軽く超えているな、最後以来。まぁその代わりなのかは知らないが供物の量は増えたな、それに質も大分上がった・・・彼らにしてみれば代償のつもりなのだろう。」
「確かにそうかも知れないけれど、供物では色々と困るのよね。実際あれらが役目を果たしてくれれば有難いけれど、その様な事はまるっきり不可能だもの・・・まぁ幸いよね、最後に来た子が特大の物を持って来てくれたから。」
「しかし、それもやがては・・・後数年しか持たない。早急に送らねばならないのだが・・・どうやら忘れられてしまっている様だ、このままでは役目が果たせぬ。」
そうして一瞬の沈黙が流れた。何やら意味深なその会話を聞いている内に自分がする呼吸のわずかな音が、その場を壊してしまいそうな気がしてならなくなりそれをする事すらも憚られる、その様な気持ちになって耳を更に研ぎ澄まさせた。
「何か言い策を考えないと・・・時間はもう無いのだから。」
「言われなくともわかっている、だが・・・まぁ答えはすぐに見つかる。すぐに。」
「どう言う事?すぐに見つかるなんて・・・。」
「感じて見ろ・・・ほら、な。」
「・・・そうね、ふふふ・・・60余年ぶりの・・・。」
不意に声の調子ががらりと変わった。これまでは深刻でありながらも何処かあっけらかんとしていたのだが、途端に深刻さがなくなり何かを企んでいる・・・その様に窺える気配となったのだ。
"まさか・・・。"
「そうだな・・・良く、成熟して詰っている。何よりも新鮮・・・。」
「そうね、おいしそうだわ・・・。さてどこかしら?」
「何を言うんだ、ほら・・・そこにじゃないか!」
そう男声の方が語尾を強めて叫んだ。すると寸分も置かずして自らが明るく照らされる、内心どうしてそうなったのか半ば悟りつつ躊躇無く上を見上げるとそこには。舞台の袖の先から2つの炎の塊がまるで彼女を見下す様に姿を現していた。逃げようとしたが余りの事に足が動かない、まるで炎に睨み付けられるかのように彼女もまた睨み返していた。