夏期講習〜始まりの夏〜冬風 狐作
「それじゃあ、お母さん行ってくるね。」
「気を付けてね、無理をしなくて良いのよ。」
 玄関で靴を履きながらそう言う私の背中に、母は心配そうな声でそう語りかけてくる。靴を履き終えた私は立ち上がって軽く整え、隣に置いておいたボストンバックを肩から提げるとやや母の方を向いた。
「大丈夫だって、私だってそんな柔じゃないわよ・・・それはここ数年ずっと引き篭もっていたけど、いい加減その様な事していられないからね。だから行ってくるわ、じゃあ一ヵ月後にね又。」
「気を付けて、行ってらっしゃいね。」
 鍵を外してドアを開けると、途端に流れ込んでくる夏の猛烈に暑い日差しと熱、長らく外へは一歩たりとも家の中から出ていなかった私は少し怯んだ面もあったが、この程度で・・・と思いそのままドアを押し広げて足を踏み出し体を外に出す。母から再び掛かってきた声に対して笑顔と手を振る事で応えると扉を閉めて、自ら鍵をかけた。私はどうも家の中から鍵を掛けられるのが好きではない。何だか、もう帰って来るなと言われている様な気がして堪らなく切なくなってしまうからだ。
"一ヶ月か・・・長い様だけど、頑張ろう。"
 家の門を出て振り向き様に今一度家の姿を目に焼き付ける。一ヶ月間、私はこの家に帰って来ない。それは学校、私が在籍している通信制の専門学校の夏期講習に参加する為のものだった。数年に渡る高校卒業後の引き篭もり生活の半ばで、接客業に対して急に感心を抱いた私は心配する両親を前に自ら積極的に、家の外へは一歩も出なかったがネット経由で講義を受けるのが売りで、近年出来たばかりの接客関係の専門学校の講義を受ける様になった。
 最初の一年間は完全に講義に終始していたが、二年目はその夏休みの時にそれまで講義にて習った内容の実地研修と同時に、実地でなくては教える事が出来ず無論習う事も出来ない幾つかの事柄について、一ヶ月を掛けて習うと言う夏期講習に参加しなくてはならなかった。最初の頃は躊躇していたが、その内に必要ならば致し方ないと思うようになり、むしろ何時までも引き篭もってはいられないと考えて参加する事を決めたのである。当然ながらその心境の変化と行動に最も喜び、そして心配したのが両親であった。何度も引き止められたがその度に私は、既に心に決めた事と行って今日を迎えたのだ。
"お母さんの心配する事も最もだけど・・・私だって何時までも子供じゃないし、何時かは自立しなきゃ困るんだから・・・親が子より早く死ぬのは当然だもの、頼ってられないは何時までも甘えて。だから無事に頑張って帰ってこよう・・・。"
 炎天下の陽炎の立つ道、私は日傘を差して指定された駅前へと歩を進めていた。

「金沢水樹さんですね?」
「はい、そうです。」
 駅前に止められていた学校名の書かれたバスの入口で、名簿を持って立ち校名の書かれた名札を付けているネクタイにシャツと言った井出達の男に、その旨を告げて生徒証を見せると男は生徒証の写真と私の顔、そして名簿に載っている入学時に送付した写真とを見比べて名前を聞くと、生徒証を返し好きな席に乗って待っている様にと告げた。鞄をバスの床下の収納庫へと入れ、必要最小限な貴重品の入った肩掛け鞄を持ってバスに乗り込む。程よく冷房が聞いて外とは別世界のバスの車内には既に10名ほどの顔があり、それを見ている内に私は懐かしい顔を見つけた。水沼小枝子、高校時代のクラスメイトである。
「あらっ金沢さんじゃない、久し振り〜元気にしてた?」
「もちろん大丈夫よ、そう言う水沼さんも元気にしていたの?それにどうしてここに、だって大学に進学したじゃない水沼さんは。」
「大学は行っているわよ、でもね色々とあってね〜就職に備えて併せて受講しているんだこの専門学校に。金沢さんもそうでしょ?」
「まぁそうねぇ・・・就職の為に通っているようなものよ。で、隣いいかしら?」
「いいわよ、いいわよ。座って座って・・・トランプでもする?私持ってきたんだ。」
 そう言って彼女が自らの鞄から取り出したのは懐かしい、高校時代に昼休みとなれば弁当片手に毎日興じていたトランプ、大貧民で使っていたあのトランプだったのだ。
「いいわよ、やりましょう。」
 懐かしさに駆られた私は心からの笑みを浮かべて、首を縦に振った。

 トランプに私達が興じている間にバスは発車し、あちらこちらへと立ち寄って学生を乗せ集めていき研修所に到着した時にはその中型バスの3分の2強が埋まっていた。その多くは女だが一部には男もおり、何だか肩身が狭そうだったがとにかく目的地へと到着したので私達は荷物を引き取ると、建物の中へ入って一人一つずつ割り当てられた個室へと入室した。荷物を置き一段落するとすぐに夕食の時間、食道へと集まり食事を摂り、その後一ヶ月間お世話になる講師陣の紹介や校長の訓示を聞いて解散、各室に取り付けられている風呂へ入り汗を流してその日は終わった。明日からは毎朝6時起床、夜更かししている暇は無いのである。
 翌朝、6時より10分ほど早く目を覚ますとジャージに着替えて顔を洗い、中庭にて全員参加のラジオ体操。何だか小学生の頃みたいで童心に返った気持ちがし、眠いながらも何処か爽やかな気持ちになった。そして朝食を摂ると一日目の授業が始まる、これから10日間でこれまでの内容を徹底的に復習した後、試験を実施してそれを合格した者から順に次の過程、そう実地でしか出来ない講習へと個別に移行するそうだ。
 勿論、その試験は複数回に渡って実施されその内のどれかに合格さえすれば良いのだが、仮にまったく受からなかった場合その人は退学と言う事は無いにしろもう一度、これまでやってきた内容を同じ日数を掛けて学習。いわゆる留年と言う処分が課せられ、そのまま自宅へ送り返される事となる。そうなって一番恥ずかしい思いをするのは当人であり、個室に別れているとは言え夕食やラジオ体操は全員一堂に会して行われる。そこに姿が無いというのは・・・私はとても想像出来なかった。恐らく私は耐えられないだろうと思い、これまで学んできた成果を必死になって示そうと我武者羅に努力したのだ。その結果、試験には一発で合格。講義中の態度や成績も良かったので講師の先生方の目にも止まり、中々の満足行く結果を得て移行したのだった。
「君が金沢水樹さんだね・・・なるほど、しっかりしているね。流石一位通過しただけはあるな。」
 以降後の講習は個別指導である。試験によって移行する分、集団講義に当てる人員が少なくなるのでその人員にこちら専属の人員をあわせた講師陣によって進められていた。
「えっ・・・一番だったのですか、私は・・・知りませんでした。どうもありがとうございます、柿田先生。」
「おやおや、そう言う所以は無いよ金沢さん。まぁこれから2週間、よろしく頼むよ。優秀な生徒の方が私も遣り甲斐があるからね・・・じゃあ始めよう。」
「はい、よろしくお願い致します。」
 こうして始められた講習は本当、最初の数日間は気軽な心構えで十分な扱く簡単なものであった。だが、数日を過ぎたある日を境に様相はすっかり変わった。変わったと言うものではない、根本から切り替わったそれは日を追う毎にかけ離れたものとなっていたのだった。

「先生、こんな所で何をするのですか?」
 その日指定された場所へ行くとそこはこれまでとは全く異なった場所であった。具体的にはこれまでが明るく小奇麗な部屋であったのに対し、今いる部屋は薄暗くて妙に広く埃があちらこちらにうず高く積もっており、お世辞にも綺麗で清潔であるとは言えない。窓はあっても半ばカーテンが閉められて黒板すらないその部屋に水樹は不審感を感じた。特に部屋の片隅にあるビニールシートで覆われて、何が入っているのか分からない物に。
「講習の続きだよ、何大丈夫、少し激しくなるだけだからな・・・。」
「激しくなる・・・一体何をするのです?」
「やればわかるよ・・・じゃ始めるぞ。本番を。」
 そして先生はスクリーンを下ろすとスライドを映し始めた。そして、ちょっと用意する物があるのでしばらくそれを見て待っている様にと言って外に出て行く、一人残された私はどうしようもないのでそのスライドを集中して見続けた。
"何だか喉が渇いたわね・・・先生はまだか・・・。"
 スライド自体は20分ほどで終わり、接客業の何たるかについての教育用スライドであった。特段面白くもつまらなくも無く、そう目ぼしい事も無かったがこれまで習ってきた事の復習にはなったのでまぁ良いかとして、後はまだ戻らない先生を待った。喉の強い渇きを感じつつ。
「あぁ、すまない。ちょっと手間どってしまってね・・・一応、この部屋は乾燥しているから水を持ってきたから飲んだ方がいい。何時でも好きな時に飲みなさい、良いね?」
 スライドが終わってから更に20分、ようやく戻って来た先生は幾つかの教材を小脇に挟むと共に2つのペットボトルを手に持って現れた。そしてその様に言いながらベットボトルの1つを私に渡す、ラベルは外されていて何処のメーカーなのかは不明なもののどうも先程から喉が渇いている私としては非常にありがたい。私はその場で了解を得ると早速、その500ミリペットボトルの蓋を開け中身の喉へ注ぎ込んだ。冷たく程よく冷えた水が喉を抜け、食道を経てすっかり乾いた五臓六腑へと染み渡る。何とも味の方もよろしく、半分ほどを一気に飲んで蓋を閉めると自分用に用意された机の隅にそれを置いた。
「大丈夫か?じゃあ始めるぞ・・・まずはあのスライドの内容を200字で簡潔にこの紙へ纏めなさい。制限時間は10分、さぁ始めなさい。」
 持参したシャーペンを手に私は目の前に差し出された紙へ先端を走らせる。内容が内容なのですぐに5分も掛からぬ内に完成するだろうと踏んで始めたのだが、どう言う訳か半ばまで来た所で上手く筆が進まなくなった。正確には続きの文章は次から次へと脳裏に浮んで来ると言うのに思う様に手が動かないのだ、気のせいか何だかシャーペンを握る手に違和感を感じる。どうも何時も通りに握っている筈なのにどう言う訳かしっくり行かない・・・その様な中で必死に進め、制限時間ギリギリで提出した。提出し終えた時、私は思わず安堵の余り肩を撫で下ろしてしまった。まったくこのようなことは始めてだ。
「・・・良く書けていますね。要点もまとまっていますし、伝えるべき所がしっかりと書かれている。よろしいでしょう、では次に口頭で10分間今の内容を踏まえた上でスライドの感想と自らの考えを述べて下さい。かっきり10分間、途切れる事無く話時間通りに終えられる様にする事・・・それでは3分後に始めますので、それまでは思考時間とします。ではどうぞ。」
 私は正直焦った、そして苦悩した。与えられた課題は結構複雑なものであったからだ、先程は紙に書き純粋に要約であったので苦もなく自然体で書けたが今度はそうではない。紙に書くのではなく頭で考えて口頭で述べなくてはならない、真に一言で言って面倒臭くやる気がしないが何とか条件通りにこなせる様、その3分の間私は足りない頭を回しに回して何とか筋道を立ててそれに臨んだ。
「私は・・・。」
 出だしは中々上手く行っている、いざ始めてみると自分は本番に強いのか思いの外上手くその場で考えながら言葉を吐き続けた。目の前で先生は片手にシャーペン、もう片手で顎鬚を弄りながら時折頷いて私の話を聞き手を走らせて見ている。中々の好感触、その様に受け取った私は勢いに乗って更に続けたのだが、やはり10分はキツイ。5分ならば何とかなったと思うが、大体5分を過ぎた辺りから減速し始め、いまやまだあと2分残されていると言うのにもうネタが尽き掛けている。言葉尻を伸ばして何とか補っているという有様で、先生の表情も険しく先程まで髭を撫でていた一方の手は机の上を叩いている始末。
 何とかしないと・・・その思いが先行する度に私はますます焦り、ネタは目の前で融ける様に姿を消しとうとう後1分半を残して私は口を閉ざしてしまった。先生はやれやれと言った顔をして、脂汗を浮かべて固まっている私をじっと見詰めると手を解いて口を開いた。
「金沢さん・・・どうしましたか?まだ時間は残っているのですよ、私は言いましたね?10分間、きっかりに話すようにと、あなたの考えと感想をしっかり述べる様にと・・・言いましたね?」
「はっはい・・・すいません、考えが尽きてしまいまして・・・。」
 私が心からすまなく思い、そして萎縮して理由を述べると先生は一笑いして急に眉間にしわを寄せると、これまでからは全く想像すら出来ない様な声を口にし憤怒の表情を見せた。正にそれは豹変、羊の皮を被った狼の如くだった。
「金沢!お前、ふざけているのか!謝りに言い訳を付けるとは何事だ、言語道断だよ!全く・・・お前、それで何を学んできたんだ?接客の何たるかを何だと思っているんだ!客に謝る時に言い訳をして信用されるかと思うか?うん、どうだ言って見ろ!」
「し、信用されません・・・。」
「そうだ、なのにお前はそれをした。全くの矛盾だよ、本当・・・これだから試験なんて当てになんないんだ!この見かけ馬鹿が!よし、決めた。お前はクラス替えだ、特別講習クラスへ変更だ。人並みに出来ない奴が人の接客なんて出来るかってんだよ、お前みたいな獣じみた奴にはそっちの方があっているだろうよ!ほら、こっちへ来い。」
「はっはい。」
 鉄の暴風の様に襲い来るその見かけとは全く逆の、講師の吐く罵声にすっかり打ちのめされてボコボコにされた水樹は顔を引き攣らせて、何とか涙だけは見せぬ様にと眼に必死に涙を堪えて講師の下へといった。すると講師は無言のまま、逆を向き柱の壁を外すとそれを脇に寄せその中から姿を見せた巨大な空洞を示した。
「ここへ入れ、いますぐにな・・・この先で新しい講師がお前を待ち受けているよ。だからすぐに行け!」
 水樹はそこへ駆け寄り恐る恐るその穴を見た。穴は垂直に続いており、底は見えない、まるで無間地獄の様だと息を飲んで唾を飲み込んで決心が付かずにただ見詰めていた。しかし、明らかに自分の後ろにいる講師がそうしている事に苛立ちを見せており、このままにしていても背後から押されて怪我でもしたら大変であるとの考えも働いて息を飲み、足から飛び降りた。重力が一気に自分を補足し、下へ下へと暗がりに引き込んでいく。水樹が過ぎ去った後の空間には、上からのあの講師の狂気じみた笑い声が響いていた。


 完
 夏期講習〜始まりの夏〜 夏期講習〜目覚めの夏〜へ続く
夏期講習〜目覚めの夏〜
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