それから2日後、しっかりと推敲して完成させた小論を提出した私は足取りも軽く、空いた昼時の電車に乗って自宅へと帰った。やるべき事を終えてから見る我が家は、これまでと全く変わった所がないと言うのに不思議と違く見えて来て不思議なものである。とにかく自室へと入った私は、誰もいない家の中を素っ裸で歩いて一風呂浴び、汗を流し気分を更に良くしてベッドの上に飛び込んでそのまましばらくすると鼾を掻き始めていた。
「早苗〜帰ってるの〜?」
一時間後、買い物から帰ってきた母親は玄関にある靴を見て彼女の名前を呼んだ。しかし、応答が無いのでそっと階段を登りドアを開けて、彼女が寝ているのを見るとそっとそのまま閉めて階下へと降りていった。
"夕食の時に起こす事にしましょうか・・・まぁ、それまでには目を覚ますとは思うけど・・・。"
「あっお母さん・・・ご飯は、フゥアワァァ〜。」
「ちょうど出来る所よ・・・ちょっと待ってね。」
夕暮れ時、早苗が目を覚まして階下へと降りるとそこでは母親が何食わぬ顔をして夕食を作っていた。父親はつい先ほど帰宅したばかりらしく、まだ自室で着替えているようだ。
「よく寝てたわね〜早苗、可愛い顔して。」
「えっ!?見たの、私の寝顔〜うわぁっはずかし〜見ないでよ、お母さん。」
「いいじゃないの、親が子供の寝顔を見るくらい・・・多分、お父さんも見たと思うわよ。」
「えっ、何でお父さんまで見るのよ。」
「当然よ、私が言ったんだから・・・いいじゃないの、後少ししたらあなたもこの家を出て就職してしまうのだし、ちょっと位楽しませてくれたって。」
「それはそうだけど・・・あーはずかしい、はずかしい・・・鍵掛けて置けばよかった〜。」
そう言うと母親は軽く鍋の方を向いたまま、食卓の椅子についている早苗を見ずに軽く笑って答えた。
「あら、それもそうね・・・でも早苗、あなたは気が付いていなかったかも知れないけど・・・窓全開だったわよ。お向かいのマンションから見えていたかもしれないわね。」
「そんな〜じゃあ起こしてよ。全く!」
「でも窓を閉めてカーテンは閉めといて上げたわよ、それ位してあげたのだから感謝なさい。ほら、お父さんが降りてきたわよ。」
「あっ本当だ・・・ねぇお父さん・・・。」
結局その日の夕食の席はその話題で持ちきりとなった。その事をネタにして笑い話す両親を前に早苗は自分の浅はかさを痛感する他なかった、最も素っ裸で窓を開け放って寝ていたのだから当然と言えば当然だろう。
そして月日は流れ、私は大学を無事卒業し民間企業へと就職した。そして地元を遠く離れた任地にて単身充実した日々を送っていたそんな頃、不意に実家から連絡が来た。何でもお見合いをするから空いている日を教えろと言う。その時点では結婚など毛頭考えてもいなかった私は適当な日を言って電話を切り、その当日の前前日に確認の電話が来るまですっかり忘れ去っている始末だった。
"うったく・・・何でこんな事の為に大事な休日を潰さなければならないのよ・・・。"
慌てて支度を整えて実家へと夜行列車と新幹線、それに路線バスを乗り継いで遠路遥々帰宅した私は、その日歯軋りの摺る思いでお見合い会場へと母親と共に現れた。母は気が乗らないだろうけど辛抱して、と言ってはくれるが私にしてみればそれなら呼ぶなと言う訳で、またほぼ一日掛けた移動の上に貴重な有給を4日も潰して来たのだから何の成果無しでは悔しい。だからある程度の良い男であるなら一応メアドだけ聞いておいて使える時にだけ使ってやるか、と一言言って邪な考えを抱いていたのである。そして、母と共に椅子に座っていると相手となる男が同じく母親と共に入室してきた。
「初めまして、横倉和弘と申します。」
互いに頭を下げてからまずは男の方から自己紹介が始められた。その時まじまじとその男の顔を見た私は、思わずその形の整った顔に視線を奪われ釘付けとなった。その様にしている間に男の、横倉の自己紹介が終わると次は自分の番、少々自分にしては珍しく上ずりながらも懸命に堪えて紹介を終えて雑談へと移った。
「そうなんですか・・・私は・・・。」
「僕も・・・でして・・・ハハハ。」
その後の流れは始まるまで抱いていた思いとは全く別の物となった。そうなった理由はまず、相手である横倉の顔の良さ、そしてその知的な態度である。その2つに私はすっかり射抜かれ、今や積極的に話しかけては話を弾ませている始末であった。最もこれを恥じている訳ではない、とにかく楽しいのだこの男との会話は。そして最後に互いの住所と電話番号を交換し、またの出会いを約束してその場で別れた。そして私はその足で、すぐに一旦自宅へ戻ると駅へと向かい寝台特急に乗って翌朝、新幹線へと乗り継ぎ最後は普通電車で単身住む自宅の最寄り駅へ帰り着いた。
次に彼と再会したのはその日からほぼ一ヵ月後の事だった。再び寝台特急と新幹線を乗り継いで向うと下車駅にて彼は待っていた。そしてそれから翌日の夕方までの間、私と彼は片時も別れる事無く行動を共にしており、遠く離された自宅への道中1人になった私は過ぎ行く車窓の夜景を眺めつつ、また会うその日の事を楽しみに心躍らせていた。
以来、私と和弘は毎日の如く電話で言葉を最低一回は交わし、一ヶ月に一度必ず面と向って出会う様に心掛けていた。当初こそ私が地元へと赴くばかりであったが数回重ねている内に今度は彼の方がこちらに出向いてきたり、ちょうど互いの中間にある都市で落ち合って共に過ごす事もあり、それらの一時は場所は何処であれ忙しい私にとってはかけがえの無い時間となっていた。
その気持ちは彼も満更ではなかったらしく、私と彼は出会う度に積極的かつ濃厚な付き合いとなりそして先日とうとう体を重ね合わせるまでに発展した。ここまで来れば後はもう決まっている・・・そんな空気を感じながら、その後も互いに切り出せないまま回数を重ねていた時、私はふとあの指輪の事を思い出した。そしてタンスの中からこちらに引っ越してくる際に忘れずに持って来たあの箱を開けると、そこには始めてみた時と変わらずに指輪は鎮座して静かな輝きを放っていた。
"そうだ、今度はこれをはめていこうかな・・・何かそうすると良い様な気がする・・・。"
ふと早苗はそう考えると机の上へとそれを置き、日々眺めつつそれを手に彼と落ち合う日が来るのを心待ちにしていた。
「あら?あなた、あの指輪知らない?」
ちょうど早苗が遠く離れた自宅にて指輪を前に思いを固めていた頃、その実家の方では母親が父親に対してある事を尋ねていた。
「指輪?何の指輪だい?」
「ほら、あの指輪よ・・・あなたが私にプレゼントしてくれた・・・。」
「指輪がどうかしたか?・・・あの指輪なら蔵に保管してある筈だが。」
「それが無いのよ・・・何処にも。ねぇ、あなたどうしましょう・・・。」
「そんな馬鹿な、ちょっとまて俺も見てくる。」
と父親は慌てた顔をして、その場に母親を残して蔵へと向った。そして20分ほどしたとき、彼はすっかり目を丸くして戻ってきた。矢張り指輪は消えていたのである、一体如何してかと彼らは考えていたが、娘が蔵の中でしょっちゅう遊んでいたことなど知らなかったので、譲られるべき本人である娘の手元にその指輪がある事をわずかにも想像する事は出来なかった。
それから半月後の事、普段よりも短い間隔を置いて再会した2人は事前に予約しておいたホテルにあった。
「早苗さん、ちょっとよろしいですか?」
普段より上ずった感じの声で和弘が口を動かす。早苗は薄々その後に続く言葉を察していたが、ひとまず分からない振りをして応えて、わずかな落胆と共に続きを待つ。何とも何時もは快活で元気の良い和弘が、こうかしこまっているのを見るのが何とも楽しかったからだ。
「これを・・・。」
そう言って和弘が差し出したのは小さな藍色の箱であった。
「あら、どうしたのこれ?」
「初めてあった時から思っていたのですが・・・あの・・・僕は早苗さんが好きでどうしようもありません!こんな僕ですが・・・結婚して下さい!」
和弘はそう途中から賽を投げたのか、何時も通りの快活な大声となってそう一気に早苗に告げた。そう、プロポーズである。もう腹の内を固めていた早苗は敢えて即答せずに長引かせ、そして静かにこう答えた。
「いいわよ、私も同じだから・・・ほら、本当は私のほうから告白しようと思って用意もしていたんだけど、無駄になっちゃったわね・・・まぁ良いのよ、結果としては同じなんだから・・・ありがとう、和弘。」
「早苗さん・・・。」
「何?」
「ありがとう・・・ございます!」
「それでいいのよ・・・それで、さてとこれから如何する?朝までは長いわよ。ウフフ。」
「早苗さんが決めてください・・・。」
「じゃあ、早速しようか?告白記念と言うことで。」
「あっはい、わかりました・・・でもその前に1つやっておきたい事が・・・。」
「何?今出来る事ならすぐするけど・・・。」
すると和弘は少し言葉を詰らせ顔を赤らめる。
「指輪を・・・はめて見てくれませんか。」
「指輪を、あらいいわ。お安い御用よ、じゃあ和弘さんは私の用意した指輪をどうぞ。」
そう言って早苗は自分の用意したあの黒い箱を取り出した。箱の中にはあの彼女お気に入りの指輪が入れられており、それを手にした和弘は呟いた。
「凄いなこれは・・・エメラルドかい?」
「うんまぁそのような物よ・・・ほら、見てどう?」
「あっ似合ってるよ・・・良かった。」
「中々綺麗な・・・ダイヤねぇ。あなたもいいわよ、結構似合ってるわ。」
「そうかい、それは嬉しいね。そうだ、これを填めたままやろうか?」
「これをはめたまま?まぁ良いわよ、面白そうだし・・・急に積極的になるわね、和弘さんは。」
「まっまぁね・・・成り行き次第と言う事で、それじゃあまずは早苗さんからシャワーを。」
「あら、ありがとう。じゃあお先に・・・。」
そうして早苗は指輪をはめたままシャワーを浴びに行った、その間一人残った和弘は逸る気持ちを抑えようとしたのかコップ一杯の水を煽っていた。