インシデント〜後編〜冬風 狐作
 21世紀中葉の事、ある薬がこの世にその姿を現した。「ヘルペルスヒ」と名付けられたその薬は世界的に大きな反響を沸き起こした、それはこの薬が画期的な免疫抑制剤であったからである。
 これまでにも数々の免疫抑制剤が開発され、移植などの現場での免疫反応を抑えるべく利用されて来たが、目的とした拒絶反応の押さえ込みには成功しても、それ以外の必要とされる免疫能力まで低下させてしまい些細な病気等で死に行ったり、回復後も定期的に服用を続けねばならないと言った数々の問題点が存在していた。
 それ故にそう言った弊害を起こさない理想的な免疫抑制剤の開発に、世界各国の研究者や製薬会社はその真の思いがどうであれ、心血を注いでいた。免疫抑制剤に頼らない別の方法も考えられていく中でようやく誕生したのがこの「ヘルペルスヒ」である。量や成分を調整する事によって、抑制が必要とされる器官以外には影響を及ぼさないこの薬を各国の研究者を始め、政府は慎重に分析し安全性に問題が無い事が分かると、1つの国が承認したのを皮切りに続々と各国でその使用が承認され、僅かな期間の間に無くてはならない薬として重用される様になっている。

 しかしながら、この薬には2つだけ欠点が存在した。第一に生産能力の小ささである。正確に言えば、薬の原料となる幾つかの物質の内、その根幹を成し最も重要な働きを示す成分を生み出す植物の希少さと言う事になるだろう。この成分は偶然、とある製薬会社が長年採取し続けてきた多種多様な植物の成分を分析している際に発見された物で、マウスに投与した所著しく効果的な免疫抑制効果が認められ、その事実が新型抑制剤開発の始まりとなったのである。
 そしてその効果の精度を更に高める為に、相性の良い人工的な化学物質と組み合わせる事で夢の新薬「ヘルペルスヒ」は誕生した。とは言うものの外堀であり補完的な要因である化学物質は、容易に製造出来ても、本丸とも言えるこの成分に限っては化学合成が上手く行かないまま、その植物からの抽出のみに頼って生産供給されているのが現状であり、真にその期待と需要の大きさに反比例していると言わざるを得ない事態に陥っていた。
 結果として生産にコストのかかり過ぎるヘルペルスヒの薬価は上げられ、先進諸国であっても高い事で有名な薬として評判になっていたのはもちろん、発展途上国、特に後発発展途上国と呼ばれる最貧国で手に入れるのはまず無理な存在に過ぎなかった。
 第二は覚醒作用である。前述した様にヘルペルスヒは植物由来の天然成分を根幹とし、それを補完、強める目的で4種類の化学物質が添加されている。だが、それらの中の1つの物質もまたこの薬のために開発された特殊な物質で、添加された物質の中では最も効果のある物なのだが、後の検査にて過剰服用した際の覚醒作用が問題となった。だが、流通が始まり多方面で高い評価を得ているこの薬を販売停止にする訳にはいかないと言う配慮が働き、医師の処方箋が無ければ使用出来ない医薬品として示威される事によって一応の解決を見せた。
 以上の様に様々な問題点を考慮しつつ全体を見ると、その薬によってその命を救われた人の数は生半可な数には留まらず、人類の健康に対して多大な貢献を果たしている事は明白であり、開発から8年後、生みの親であるライム=ヘルペール博士とその助手に対しノーベル医学賞が授与された。

 数年後のある日、大月洋平は友人の本尾田修司と共にすっかり空いた国道を都心に向って車を走らせていた。昼間は人と車と自転車で混み合うこの道も、深夜ともなればその様相を変えて静けさの漂う道と化していた。先程からすれ違う対向車は、高速道路を避けて一般道を走る長距離トラックや終電に乗りそびれた人々を郊外へと運ぶ深夜急行バス程度のもので人の姿は無い。時折走ってくるパトカーと信号にさえ気を付けていれば、どんなに飛ばしても問題は、法的な物は別としてそこには存在していなかった。
「いや〜気持ちいいねぇ。こう空いていると、何ともいい気持ちになるな。」
助手席に座る修司が満足げに語る。その声はまるで無邪気にはしゃぐ子供の様にウキウキとしていた。
  「そうだな・・・下手な高速よりずっといい。昼間もこうだったら楽なんだが・・・。」
落ち着いた口調で洋平は同意を返すと、再び静かにハンドルを握った。
「そう言えば・・・目的の場所には何時になったら付くんだ?もう、2時間は走っているが・・・。」
「あと30分、いや20分位で着くだろう・・・まぁ、飽きるなって、それよりも今の体でもう二度とこの光景を見る事は出来ないんだから、よく堪能してみたらどうだ。」
「今の体ねぇ・・・まっ未練は無いが、洋平がそう言うのならそうしましょうか。しっかし、楽しみだなぁ・・・。」
「そうそう焦るなよ、人間待っている時が一番楽しいんだからさ。」
「全は急げって言うじゃん、だからだよ。それに待っている時がって洋平はその後を楽しく思っていないのかい?」
「馬鹿言うな、そんな事ある訳が無いだろう。俺だって楽しみにしているさ・・・ただ、表に出していない。それだけさ。」
「なるほどね・・・あっ今の交差点曲がるんじゃなかったか?」
「えっ?あっ・・・しまった、曲がり損ねた・・・仕方ないここじゃ分離帯あるから戻れんから、次の交差点でUターンするしかないな。全く、お前が余計な事話してくるからこんな事になるんだぞ。」
「うわっ、酷い奴。お前だって楽しんでいたじゃん、お互い様だぞ。」
「それはそうだがな・・・。」
と交差点を行きこす等の間違いはあったものの、首尾よく誰にも見られずにUターンして戻った彼らは急いで曲がるべき交差点を曲がり、道路沿いの住宅地の中へと消えて行った。

「はい、では横になって下さい・・・行きますよ。」
 看護士のその声と共に背中に走る鋭い痛み、そして痛みの後に広がる全身の眠気・・・それを感じて洋平は意識を失い、眠りに付いた。早朝6時、指定された数時間前にその場へとやって来た2人はそれぞれ個別に処置を受けて、全身麻酔をその身にかけられていた。彼らが今いるのは先程の住宅の奥にある、かつての里山の山腹に木々にカモフラージュされる様に立つ1件の民家。一見すると日当たりの悪い環境で、住んでいる人がいるのかと思えるほど古ぼけているが2人の様な人々の間ではちょっとした有名な場所であった。
 男同士でありながら肉体関係を持つ2人は一般には、そして同様の趣向を持つ人々からはゲイとして見られている。確かに、関係を持ったと言う点ではそうと言えよう。
 しかし、ややその事情が異なっているのは2人以外誰も知りはしない、実を言うと修司は純粋なゲイであったが、洋平は男も好きでありながら女も好きと言う両性愛者、所謂バイであるのだ。それ故に彼が男に目覚めたのは大学院を修了して、公務員として勤務する傍ら、長年に渡ってある1人の女性と緊密な関係を続けていた。一時は同棲する等して、互いを溺愛していたのも束の間、唐突に交通事故によって女性は死亡。何とも言いようが無い絶望感と空白感に苛まれて苦しんだ彼は、何時しかゲイバーへと足繁く足を運ぶようになり、気が付いた時にはすっかり男に溺れていた。
 その頃になるとゲイバーへ行くきっかけとなった彼女の死によって引き起こされた、女性への恐怖感情も相当な和らぎを見せており、ゲイとして楽しむ傍ら、日を変えて風俗店にて女との交わりも続けていた。

 修司とであったのはちょうどその様な時であった、自分がバイであると深く認識して新たな自我を見出し、ようやく心の平静を取り戻して今までにも増して仕事に取り込んでいたある日、久し振りに行きつけのゲイバーへと行くと、まだこの世界には言って日の浅い修司と出合った。自分よりも5才年下の彼に対して、洋平はこれまでに感じた事の無い感情を抱いき、丁寧にまだ詳しい事を知らない彼をアシストした。修司もまた、見ず知らずの自分に丁寧に接し教えてくれる洋平を好む様になり、最初はゲイバーのみであった出会いも次第に拡大、それぞれの自宅に至った段階で自然と2人はカップルになっていた。
 付き合って行く内に、純粋なゲイである修司はバイである洋平に対して少なからずの不満、どうしてすべてを自分に注いでくれないのかとも思った事もあった。しかし、ゲイとして様々な事を経験して行く内に彼もまた何かを悟り、今では全く気にはしていない。
 だがその一方で洋平の中にはある思いが芽生え始めていた、それは自分は果たして何者なのかと言う事。一度は回復し新たな自我を取り戻したかに見えた洋平ではあるが、やはりそれまで生きてきた中で積み重ねていた常識や価値観の修正は容易ではなく、再び混迷の淵へと沈み行く事になってしまっでのである。
 幸いな事に今度ばかりはその影響は仕事には出なかった、とは言え私生活、修司との関係にも微妙な影響を及ぼし純粋なゲイである筈の修司の心中にも波紋を広げていた。そして、とうとう悩める洋平は修司にある固まった決意を表明した。
「俺は女になりたい。」
 そう告白した時、洋平は修司との関係の決裂すらも覚悟していた。静かに待って出て来たその答えは了承、驚いた洋平がそれとその真意を今一度確かめようとすると、動きを止めた修司は逆にこう続けた。
「僕も同じだからさ・・・。」
 これぞ正に驚愕の瞬間、洋平の瞳からは何時しか涙がこぼれ、2人はその晩延々と男泣きをしていた。2人の思いが同じとなれば話は早い、幾度かの話し合いを経て彼らはペニスを残しつつ女性器をつけると言う事、つまりはふたなりとなる事を決意した。とは言え、性転換手術が一般化したこの時代であってもこの様な手術はまず不可能であった。それは医学的にと言う意味ではなく、倫理的に不可能な問題であったからである。  彼らは手術を実現させたいが故、多方面から情報を収集し調査した。そして互いの思いを知ってから5年後、ようやくそれを引き受けてくれる医師を見つけたのであった。それが前述の一部の同性愛者の間で有名な病院である、病院とは言うもののその実態は法に反した施設であり、意志の免許を持った数名の医師と看護士が半ば趣味的に。本来の仕事とは別にそう言った手術を請け負っていたのである。
 無許可の施設であるから死亡しても甚大な後遺症を負っても、責任を問う事は出来ない。いや、出来はするがそんな事をしたら本人までもが巻き込まれてしまい事実上不可能だった。それ以外にも様々なリスクがあったが、本職の医師や看護士達が運営しているので実の所は信頼性は高く、また勤務先の病院からこっそりと持ち出してくる正規の医薬品や用具を用いるので極めて安全であった。それ故に通常の性転換手術でも、病院で受けるよりも安く迅速だと言う理由でここを利用する者は後を絶たず、ましてや洋平と修司の様な特殊なケースには最適であると言えよう。ハイリスクハイリターン・・・それが評判であった。

"半陰陽化手術か・・・えらい久し振りだな。"
 執刀医師は準備の整えられた2人を見てそう思った。表の世界ではとある有名大学病院の幹部を勤めているこの医師は、学会でも重鎮として知られていた。
「では、これより手術を開始する・・・。」
 彼らの手術が始まった。


 インシデント〜前編〜終  インシデント〜後編〜へ続く
インシデント〜後編〜
作品一覧へ戻る
ご感想・ご感想・投票は各種掲示板・投票一覧よりお願いします。
Copyright (C) fuyukaze kitune 2005-2013 All Rights Leserved.