甘露の味〜竜の心・上・戌年記念冬風 狐作
「ご主人様、あの一つよろしいでしょうか?」
「どうした、順子。何事か?」
 その日の夜の楽しみが終わった後、私はご主人様にある事を申し出た。正直そう言いたくは無いし自分としても今なお納得が行かないのだが・・・言わなくては如何にもならない。
「あの今日から数日家を留守にしないとならないのですが・・・すいません、申し出るのが遅れてしまって、でも急遽決まった事でして・・・。」
「何だと?家を留守にするだと、どう言う事だ・・・その仕事の関連か?」
「はい、そうです。急に出張しなくてはならなくなってしまいまして・・・その海外に・・・。」
「海外とな?どの辺りだ、場合によれば付いて行ってやっても良いぞ。」
 その言葉に順子は思わず心躍らせた、だが一つ思ったのはどうやって海外に出国するのかと言う事。当然ながら元から人ではなく南洋の島の神であった竜神には戸籍は無い、だからパスポートなど持てる筈が無いのだ。だからどうやって出国しようと言うのかが気になって仕方が無かった。
「あの・・・ご主人様はパスポートをお持ちではなかったかと思われますが・・・それが無くては海外に出られませんよ?」
「パスポート?何だそれは。」
 不思議そうな顔をして聞き返してくる竜神、大抵の事はこの世の成り立ちから大抵の多くの事は知っている彼にしては珍しい反応だ。

「これです、海外に出国する時は最低限これが無くては駄目なんですよ。」
 そう言って机の引き出しから取り出した自らのパスポート、当然ながら人である時のつまり男である時の物であるから貼られている写真、名前は全て異なっている。それを手に取ると竜神は興味深そうに眺め数ページを捲って戻した。
「ふむ、これがパスポートか・・・聞いた事はあったが現物は初めて見たな。何、これが無くともお前に取り憑いて行けば良いだけの話だ、ここに来た時もそうであったろう?で、どこの国に行くのだ?」
 と得意気に言う竜神。思わず頷かされた順子はその国名を挙げた。
「えぇとですね、タジキスタンと言う国なのですが・・・ここです。」
 部屋に貼られている世界地図、実を言うと順子つまりは順三は根っからの地図マニアである。それ故、彼の自室には無数の古今東西の地図コレクションが収められていた。そしてただでさえ地図などが収納された本棚等で狭苦しい部屋の真ん中に置かれたベッドにて、順子と化した猫女となった順三は夜に限らず暇さえあれば竜神と交わる日々を送っていた。時にはケイやカイを交えての3Pや4Pなどもされたが基本的には2人のみで楽しむ、最初の内はノーマルであった絡み方も次第に複雑さを増して今では道具を使ってのプレイも増えた。
 中にはかなり過激な物も含まれている。しかしその頑強でしなやかな体のお陰で、怪我をするどころか人では到底不可能とも言える楽しみ方を開拓する等出来た。よって楽しみはますます深まり最早欠かす事は出来ぬと言うのが実状である。そんな折に唐突に持ち上がった、順三の出張話・・・地図を見詰める竜神の目は真剣そのものである。

「順子よ・・・。」
「はい、どうするのですか?」
 順子は気軽に言った。恐らくどの様な手段を尽くしてでも竜神ならば付いてくるであろうと予想していたからだ、しかし返ってきた答えはそれとは大きく異なっていた。
「すまぬが・・・着いては行けない。お前1人で行って来てくれ。」
「どっどうしてですか!?何か訳があるのです?」
「うむ・・・実を言うと俺は水とは縁の無い地域は苦手でな、この様な乾燥した地域にはとても行く気はしない。だから1人で行って来てくれ・・・すまぬが良いな?」
 無敵最強と勝手に思い込んでいた竜神の意外な弱点、いや趣向と言うべきか。とにかく順子は大いに驚かされた次第であった、それでもその気持ちに揺らぎは無かった。自分は竜神の僕・・・その意識が余りにも強く作用していたからであろう。すんなりと了諾した、わずかばかりの寂しさを感じつつ。
「本当にすまないな、あぁまで言って置いて・・・許してくれるか?」
 その姿に感じたのだろうか、これまでに無い様な態度となった竜神はすまなそうに暖かく順子を抱きこんだ。

 そして数日後順子、いや順三は家を出て空港へと向った。順三の傍らには1人の長身のがっしりとした体型の男が行動を共にしていた、そしてその男は空港にて順三を見送ると元来た道を経て順三の家へ入る・・・そうその男は竜神であった。竜神が自らの姿を人に偽装させていたのだ、その日は幸い順三の妻は家にはいなかった。その姿は病院にあった、交通事故に遭遇した彼女は足の骨を折って一月ほどの入院の最中であった。だから家にいるのは竜神のみ、最もそれを知るのは順三だけであったから静かにしていなくてはならなかったが、そこは竜神の事。得意の結界を頑丈に掛けて一時的に世界を切り離していたのだった。
"さて・・・この二週間ばかり如何過ごすか・・・。"
 元の姿に戻った竜神は指を鳴らしながら居間に居座ってテレビを眺めていた。順三と出会い島を出てから半年余り、季節は夏から秋そして冬へと変わった。
「全く、色々とあったものだよ。」
 竜人はしみじみと呟いた。それはそうだろう、幾星霜もの間を存在に気が付いたその時からあの島を離れずに過ごして来たのだから。正直今でも幾ら順三が島の者ではなかったとは言え、罰を下すが為に密かに取り付き島を出たものだと我ながら感心している。そして初めて見た島以外の世界・・・それはその片鱗こそ島の者の暮らしより見出してはいたが、完全に自らの想像の範疇には無かったと言えよう。
 そしてその後の一連の出来事、その過程で彼は主に順子を通じて様々な知識見聞を得た。今の所外出は順三に取り憑いてのが大半で人に身を変えて出たのは今日が初めて、首尾良く満足いく出来であったので今後はそうして外出する様になるだろうと予想していた。とにかく驚きと満足に満ちた半年間のあった年は間も無く終わりを迎えようとしている、彼を祭神とするあの島の宗教は太陽暦であるから季節感にはそう差が無い。だからこそ年越しを1人で迎えるのは寂しく何処か遣る瀬無かった。

 新年を迎えたのは順三が家を出てから10日目の事だった、この10日間のうち九割方は下僕であるチエやカイ・・・正確にはカイは順子の下僕であるのだがその順子は竜神の下僕であるので彼らを呼び出し、そして時間の許すままに交わり絡み続けた。その様は一言で行って淫惨で淫らの限りを尽くしたものと言って差し支えない、結界に覆われている事を良い事に家の中は一時的に空間が作り変えられ淫獄の館と化していた。
 しかし幾ら飽きない様に趣向を変えてあの手この手でし続けても飽きと言う物は如何してもやってくる。だから10日目ともなるとすっかりマンネリ化してしまったが為、新年を区切りとして彼らを家へと帰らせた。そして家の内装を元に戻して空気を入れ替える等後始末をしてようやく落ち着いた時間を過ごしていた、人に扮して買って来た酒を飲みながらテレビを見る。
 テレビではお笑い番組と言う物をしていたが、どうしてその様な物が面白いのか理解出来ない竜神は醒めた目で見詰め適当に番組を変えていく。するとあるチャンネルにて一匹の獣が大写しに映された。
『・・・さて今年の干支のワンちゃんの登場で〜す。かわいいですねぇ〜・・・。』
 甘ったるい以外には何の取柄も無い女性レポーターの声は耳障りであったが、次々に映し出されていく様々な毛並みをした獣、そう犬の姿に思わず竜神は見入ってしまった。考えてみれば彼は犬と接した事が余り無かった、猫とはどうも猫女となった順子が順三でいる時も気配が発せられているのか、道を歩けば必ずと言って良いほど猫が姿を見せるので良く知っている。だが犬とは見識が無かった、猫にも様々な毛並みが見られるが犬も同じ、そして形に関しては犬の方が豊富・・・その事が強い興味を惹いたのだった。
「犬か・・・中々面白そうだな、良い気分転換になるかもしれん・・・。」
 竜神は呟くと立ち上がりそのまま部屋から出て行った。

"ふむ雪か・・・。"
 竜神は鉛色に染まった空から舞い降りる白い粉の様な物・・・雪を見て空を見上げた。雪も島ではとても味わう事の出来ない代物である、竜神は何処か可憐なその姿を気に入っていた。だが今回はそのペースが早くしばらく眺めて辺りを見回せば、もう塀の上などには薄っすらと積もり始めており視界も悪くなりつつあった。
「イカンな、早く見つけねば・・・。」
 コートで身を固めた竜神は足早に歩き始めた。目的とする探し物を見つけようと。

 竜神が歩く路地からそう遠くない場所、河川敷に良くあるテニスコート等の見合った季節には人で賑わう設備の横手・・・枯れ草に覆われた橋台脇の一角に小さなプレハブ小屋があった。使われなくなって久しい様に感じられるその小屋のドアは閉じられているが、小屋全体が老朽化で歪んでいる為にわずかに開いている。そこには誰もいない筈であった、しかし気配がある。中を覘くとそこには1人の少女の姿があった、雪が降るほどの気温だというのにその服装は場違いなまでに薄く露出した足は細かく震えていた。
 彼女の名前は加太 陽子、数日前に進路を巡って親と大喧嘩をして家を飛び出してきた。最初は親しい友人の家に行ったのだが帰省しており不在、勢いで飛び出して来てしまった為、殆ど金を持ち合わせてなくわずかな金で何とか凌いできたがとうとう尽きてしまった。その為31日の朝にそれまで過ごしていた漫画喫茶を出て以来、深夜の閉店間際まで大型スーパーをたむろして以降はずっと屋外で過ごしていた。
 以前にこの時期に家出した友人は、大晦日から元旦に掛けては鉄道の24時間運転が行われる事を利用して定期券で入場し、一晩中電車に揺られて過ごしたと聞いた事があったが11月末に定期券の期限が切れて以来、証明書を発行してもらう手間を惜しんで回数券で利用していた陽子には出来なかった。回数券は使い切り財布の中にはわずかに89円のみ、後はレシートとポイントカード以外には何も無い財布を見て駅前にて深く溜息をついた次第であった。
 その後はひたすら歩き回った。コンビニ等にも寄ったが、この所は漫画も立ち読み出来ない様ビニールがかけられている店が増えており中々難しい、かと言って雑誌も似通ったファッション誌程度しか見るべきものが無く余り長居はし辛いので早々に退散した。結局街中を延々と彷徨い柄にも合わない初詣をした後は、河川敷にて見つけたこの小屋へ転がり込んだのである。
 もう腹は減って寒さと共に自らの事でありながら己を苦しめている、水に関しては公衆トイレの洗面台で朝方に飲んできたので何とか今の所は大丈夫だがその内苦しくなって来るだろう。下手したら餓死、その前に凍死してしまうかもしれない・・・そう考えると家に帰ろうかと言う気が起きてくるのだが、すぐに否定して頭の中から飛ばす。今の心境ではとても変える気にはならなかっただからだ。親が謝るまで帰らない・・・そんな子供染みた意固地な気持ちが支配的なのだった。


 下編へ続く
甘露の味〜竜の心・下
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