甘露の味〜芽生え〜冬風 狐作
 太田順三は都市近郊の新興住宅地に住み二児と妻の4人家族を持っている。子供が2人いるとは言え、もうそれぞれ大学を卒業して、定職を得ているので最早親の手のかかる範疇にはいなかった。彼自身も、そして妻も定年退職を向え真面目に働いていた事が功を奏して、多額の年金とこれまでに築き上げた財産で楽な生活を送ってはいたものの、どこか現役時代と比べると満たされない所が幾つか残っていた。それを満たす為にはどうすれば良いのか・・・色々と悩み考え抜いた挙句、何ら有効な手立てを見出せなかった太田はふと旅に出てみようと思った。
"場所を変えれば良い考えが浮んでくるかも知れんしな・・・試してみる価値はあるだろう。"
 その事を妻に伝え、了承を得ると彼は数日後1人で旅支度を整えて家を出た。どこへ行くかはその場その場で考える自由気ままな旅をしようと思いながら、駅へ行きとにかく切符を買い求めると電車に飛び乗った。
 数週間後、彼の姿は日本から遠く離れた太平洋上の孤島にあった。日本各地を回ったものの明確な答えを導き出せなかった彼は、一旦家に戻って数日の休養を取ると世界地図を眺め、ふと目に止まった太平洋上の孤島に行く事を考えた。色々と調べた結果、その島を領有する国は日本人に対してビザを免除しており、交通も東南アジアのとある都市を経由してその国の首都まで航空機で行き、そこから今度は船で2日間程で行けるとあったので早速、今度は海外に言ってくると伝えてパスポート片手に軽装で家を飛び出した。流石に、急に海外に行くと聞いた妻は不安そうな表情を浮かべたが、何大丈夫だと言い既に入手しておいた航空券とパスポート片手に出国して行った。

 成田から空路7時間、海路を2日ほどかけて彼はようやく目的の島へと上陸した。航空券に関しては地元の旅行代理店を通じて全て手配出来たが、最後の区間であり最も重要な島への唯一の交通手段である船に関しては、現地でしか取る事が出来なかった。またネット上に流れていた情報では不定期運行だと聞いたので、船を掴まえるのに数日かかる覚悟で訪れものの、まるで自分を待っていたかのようにスムーズに島へと向う船の切符を手にする事が出来、到着して数時間後には船上の人となっていた。そして、今彼はようやくその目に付いた念願の島へと上陸を果たしたのである。船とは言え漁船を大きくした様な船の荷下ろし作業を尻目に、太田は島の集落の中に唯一ある宿へと足を運んでいった。
「ようやく、来る事が出来たな・・・。」
 彼は宿の部屋の窓から沈み行く夕日を見つつ、一人煙草を吸っていた。この島には灯台の光以外に電気と言うものは存在しない、それ故に灯りとなるのは時代が買った古ぼけたランプの光であり、この部屋にも先ほど宿の主人が灯したランプが灯っている。
「お客さん、食事出来ました。」
 そうこうしている内にどう言う訳か、流暢な日本語を話す宿の主人の息子が食事が出来たと伝えに来た。案内されて付いて行くと、宿屋一家が食卓について太田の到着を待っていた。そして彼が席につくと共に食事が始まった。宿屋一家はなにやら土着宗教の祈りを唱えてから食事をしていたので、その中で食事を一人始めるという無粋な行為はし辛かった。そこで彼は軽く手を合わせ、意味の無い事を唱え一家と歩調を合わせて食事を始めたのであった。
 出された料理は主食の芋を中心に海産物を調理した物で、見た目は余り美味しそうには見られなかったが、いざ一口口にすると中々の美味しさであり、どこかしら懐かしさすら覚える不思議な味が口の中へと広がっていくのが何とも心地よい。
"やっぱり、思い切って来て見て正解だった・・・七恵も連れて来れば良かったな・・・。"
 と自らの選択の正しかった事を噛み締めつつ、ふと日本に1人残してきた妻の事を思うのであった。

 それからと言うもの、太田は数週間に渡って思うが侭に時間を過ごした。日本から持ち込んできた無数の本を片っ端から読み、趣味の川柳を作り、気が向いたらその小さな島を散歩して英語の喋れる島民と談笑し、昼寝をする・・・とても日本では出来ないことの大半をやってのけたのだった。そして、次の船がようやく港に入ると主人から聞かされたのはこの島に来て早一ヶ月余りが過ぎ去った日の事であり、入港予定日はそれから5日後となっていた。船は一日この島に停泊するので賞味6日がこの島において私に残された時間であった。
 後2日で島を離れると言う日、ある程度帰る準備をした私は名残を惜しんで今一度島を一周して見た。私の目に入る島の情景は何とも美しく、是非又再来したいと言う思いと共に出来るものならここへ移り住みたいものだとの想いも募り、ふと気が付くと私は数週間前、宿屋の家族に連れられて訪れた島の内陸部にあるこの島独特の土着宗教の神殿の前へ迷い込んでいた。周囲に人気は無く目の前にはただ石造りの、どの様にして造ったのだろうかと言う程の荘厳な神殿が構えていた。
"確か・・・ここは月に一度の祭りの時以外は開かれないのだったな・・・。本当かねぇ?ちょっと見てみるか。"
 連れて来られた際に誰かから聞いたその言葉を不意に思い出した私は、そっと周りに誰もいない事を見て目の前の観音開きの大扉の取っ手に手を掛けて力を加えてみた。かなりの力を加えてみたのだが扉はびくともせず、先程思い返された言葉の通りであった。しかし私はどこかから入れるのではないかと思い、腕時計にてまだ時間のあるのを見るとあちらこちらを回って怪しげな所を片っ端から探り、何も起きずにそのままであるのを見てホッとした反面、どこか満たされない気持ちのまましばらくそれを続けていた。そして・・・
"これで最後にするか・・・気が付いたら1時間もこんな事をしていたな・・・。"
 私はもう開く所は何処にも無いだろうとすっかり心に決め込んで、わずかばかりに残るそれでもと言う思いを退治すべく見当を付けていた最後の場所を軽く引いて見た。案の定、微動だにせず一気に期待していた心は消えてふんぎりが付き、立ち去ろうかと腰を上げかけたその時だった。余りに何度も腰を屈めていたせいか、機が緩んだせいかは知らないが思わずその場でよろめいてしまったのである。よろめいたまま倒れない様、手を無意識に伸ばして壁に当て何とか姿勢を保ち、再び元に戻ろうとそっと手を壁から離したその瞬間奇妙な音が耳に聞こえた。
"まさか・・・。"
 嫌な予感を感じて視線を上に上げて壁を見回すが、蔦に絡まれた壁には何ら異常は無くあの小さな奇妙な音も最早聞こえない。気のせいだったのかと力を抜いて、離れかけた正にその時だった。急にゴトン、と何かが落ちる音が聞こえたのは。そしてそれは壁からではなく足元から響いており、予想外の場所からの音に動転しかけたその時、体が宙に浮いた。自分の足元だけきれいな形で正方形に穴が開くと、私の体は掃除機に吸い込まれる埃の如くその闇に包まれた穴の中へと急降下して行ったのだった。とても悲鳴を上げる暇さえないその展開に私はすっかり飲み込まれ、私がようやく悲鳴を上げた時には既にその入口は何事もなかったかの様に閉じられて、元の人気の無い神殿前の広場の一角を演じていた。

「あっ大丈夫でしたか?オオタさん。」
"ここは・・・。"
 気が付くと私は見慣れた場所にいた。そこは宿屋のベッドの上、宿の主人の息子が枕元に付き添っており声を掛けてきた。
「あっ・・・いや、何とも無い・・・一体如何したんだい?そんな顔をして?」
"一体全体如何したと言うんだ・・・私は確かに穴の中へ落ちたはずなのに・・・。"
 私はそこで何が起きたのか分からないと言う風にして応えて様子を見た。実際、神殿の前で穴に落ちた私がどうしてここにいるのかは分からなかったので、何か知ってはいないかと尋ねて見ようと言う向きもあったからだ。それに対して彼は驚いたような顔をして、こう言った。
「えっ・・・何も知らないのですか?オオタさん、あなた浜辺に傷だらけになって倒れてたんですよ。もうビックリしました。」
「浜辺って・・・どうして?」
 私は意外な場所に倒れていたと言われて思わず聞き返してしまった。無論、応えが返ってくる事無く反復されるだけに終わった。その後詳しく聞いてみた所、私が発見されたのは今から半日ほど前の早朝の事で漁に出掛けようとした漁師達によって発見されたのだという。それまでの間、昨晩以来宿の一家を始め手の空いている人々は手分けして、夜を徹して島中で私を探していたとの事で私は一先ずその件を謝ると共に改めて一体何があったのかは覚えが無いと事実を告げ、次に最後に覚えているのは浜辺からやや陸地側に入った辺りを歩いていた記憶はあると半分嘘を教えた。
 その後、私の部屋には彼の連絡により宿の主人や町長等がやってきて事情を改めて聞かれ先程の通りに話し、なんやかんやと言葉を交わし手いる内に賑やかとなり部屋の人口密度も増え、最後には酒まで登場して半ば宴会となってからようやくお開きとなった。そして私は数日そのまま部屋で休み、予定通りの日に船に乗って島を後にして一路帰国の途に着いたのであった。
 約一ヶ月ぶりに踏む日本の風はむしむしとした夏の暑さであった。こうも湿気が多いのは敵わないがやはり何十年にも渡って生活してきた環境であるので、居心地は良く出国客のラッシュと対照的に都心へ向う空いた電車の揺れに身を任せると程無くして自宅の最寄り駅へと到着した。
「あなた、お帰りなさい。」
 駅には妻の俊子が迎えに来ていた。久々の再会と無事買えってきた事を喜びつつ、車に乗り自宅へ向う。久し振りの我が家はなんとも心地が良く、その晩は夕食を食べるとさっさと床について眠ってしまった。

「う〜ん・・・なんだか寝たりんなぁ・・・。」
 翌日目を覚ました私は寝起きだというのに妙な倦怠感を全身に感じていた。時間を見ればもう日も高く上がった午前9時、優に10時間余り寝たというのにこの体の重さは少しおかしい物であった。
「時差ぼけかも知れんな・・・まぁ何れにしろ起きるとするか・・・フゥアァア〜アッ・・・。」
 そして布団から立ち上がったのだった。

 だが、一日か数日で終わるものと思われたその倦怠感は一向に減ずる気配が無かった。そればかりか日に日に増して行くような気がするほどで、正直参ったと言うのが本音であろう。余りに酷い倦怠感に体を捨てたいと何度思ったか知れない。しかし現実にはそんな事は出来るわけは無いので思うに止めて日常生活を、出かける以前より遥かに充実した日々を過ごし、時には医者にそれとなく掛かってみたが全く要領を得ず原因不明のままで、何時しかすっかり体が慣れてしまい何とも思わなくなり始めていた丁度その頃、ある日突然妻が私にこんな事を言ってきたのだ。
「ねぇあなた、ちょっといいかしら?」
「うん?なんだい?」
 私の気の良さそうな軽い調子の声とは対照的に妻の声は重く顔は沈んでいる。
「あの・・・私、この頃変な夢を見るのよ。」
「変な夢だって?どんな?」
「夢の中で・・・その・・・。」
 急に妻は言葉を詰らせた、その表情は何処か恥ずかしげでなんだか言い難い内容であるようだ。
「その・・・って言われてもね・・・もしかしたら、僕が死んでいるとかそんな夢かい?」
「そんなのじゃないわよ、もう・・・良いわ。あのね、夢の中で何だか変な生き物に・・・その襲われるのよ・・・。」
「襲われるって・・・一体どんな風に?」
「恥ずかしくてとても言えないわ・・・あれよ、あれ。あれされるのよ、分かるでしょう?あれって・・・。」
「まさか・・・そう言う事か。しかしどうしてそんな夢を・・・何時の頃から見始めたんだい?」
「あなたが帰ってきてから数日経った日からよ・・・最初は何かから逃げていて・・・その内に、襲われる様になったのよ。何だか大きなそれに・・・もう毎晩よ、なんとかしてあなた。」
「何とかしてって・・・じゃあこうしよう。一先ず、今日はお前と寝ることにしよう。そして何かおかしな点があったら互いにすぐに起こすという事で・・・いいだろう?」
「えぇ、お願い。とにかく夜は近くにいて、このままじゃ私おかしくなっちゃうわ・・・。」
 私はそう応えてとにかく夜の妻の様子を窺って見る事にした。


 甘露の味〜芽生え〜  甘露の味〜開花〜へ続く
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