山神様の楽しみ・前編冬風 狐作
「緑が目にしみるなぁ〜。」
 大石知明は山道を歩きながらそう嬉しそうに呟いた。彼が今いるのは鳥広山、都心から電車で1時間半最寄駅まで乗り、そこから更にバスで30分ほど行った所にある山で、少し奥まった所にあるがその良好な自然環境から評判は高く、週末ともなれば家族連れや中高年で賑わう名所である。都内の会社に勤める知明もここへ遊びに来た1人であった、久々に取った休みを利用してここへ気分転換を兼ねて遊びに来たのである。
 そんな彼が楽しんで歩いていると、しばらく先の地点をノロノロと進む中高年の団体が目に止まった。彼らは年のせいにのかは知らないが、山に登りに来たと言うのに一向に話を止める事は無い、時には登るよりも話す事に夢中になってしまい、他の登山者にとっては一体何をしに来ているのかと思いたくなるほど、迷惑極まりない存在となる事すらある。
"うわっ厄介だな・・・・どうしたものか、追い越すだけの道幅は無いし・・・。"
 知明はその場に立ち止まると、持参した地図と前方とを見比べて思案した。確かどこかに今は使われていない古い登山道があるのを記憶していた彼は、地図上を丁寧に見てその位置を探していると、すぐに現道からの分岐点が今いる場所から数百メートル先にある事に気が付いた。
"前の様子は如何かな・・・。"
 前を見上げれば、ちょうどその集団はノロノロとした動きは相変わらずではあったが、着実に前進しており、追いつかない様に歩いていけば、あの集団に気が付かれる事無く旧道へ入れると予測するとゆっくりと歩き始めた。気が付かれる事、それは最悪な事であった、何故ならそれは自らが望んでもいないのに勝手にその集団に引きずり込まれ、全ての計画を断念せざるを得ない可能性を秘めているからである。彼はそのままやり過ごして、そっと旧道へと身を隠した。
「ようやく静かになったか・・・しっかし、荒れ放題だな旧道は・・・。」
 旧道へ踏み込んだ知明は急に表情を明るくし、そしてその荒れ具合に目を見張りつつも楽しげに、その荒れて雑草の生い茂るその痕跡僅かに止めているに過ぎない旧道を歩き始めた。予定よりも山頂への到着が遅れのは致し方ない、そう割り切って耳を澄ますと草を踏む音が辺りへ響き渡り、鳥の鳴き声やそよ風の音が静かに聞こえてきた。そして、時折張られているクモの巣には難儀しつつも、それを差し引いた所で十分な満足感を我が物にする事が出来たのであった。

「ひまだわぁ〜。」
 その頃、知明の歩いている旧道からそう遠くない谷の奥まった場所にある社の中で1人の少女が暇そうに大欠伸をしていた。何でこんな山奥に少女が?と思うがその姿は巫女装束であり、この社に務める巫女さんである事はすぐに知れるものの、どうした事か周りに人の気配は無い。その境内を見るとすっかり荒れ果てたもので、正面へと続く石の参道以外はすっかり枯れ草と新たに芽生えてきた若草とに覆われている。
 さて、その少女を良く見てみると、本来耳がある場所には耳が無く長く伸びた黒髪に覆われた頭頂部から2つの三角が、そして背中の腰の辺りからはフサッと程よく伸びた灰色をたたえた尻尾が飛び出ている。コスプレにしては妙にリアルであり、コスプレに付き物の不自然さと言ったものがあろう事か全く感じられない。それどころか時折、ピクッピクッと動く始末である、その動きは到底機械や何かで現せるものではなく、何より彼女自身がその事に何ら関心を払っていない事に注目すべきであろう。以上の事から導き出される結論はただ1つ、彼女は人では無いと言う事だ。事実、彼女は人ではなかった、獣でも無かった、彼女の正体はこの山を代々治めてきた山神の子孫であり狼の血筋を引いているのでその様な姿なのである。
「散歩でもしましょうかね・・・。」
 そう呟いた次の瞬間、彼女の姿は社の腰掛けていた階段から忽然と姿を消した。そこにはほんのりと温かい春の日差しが降り注いでいるだけであった。
 社を飛び出した彼女はそれまでとは打って変わって素早く、一陣の風の如く森の中を駆け抜けていた。その姿は先程までとは違い、一匹の比較的小柄な灰色の毛並みの狼であった、三角耳をピンと立てて前を見据えて疾走して行くとふといつもとは全く違う気配を嗅ぎ取った。
"何の匂いかしら・・・?いい匂いなんだけど、覚えが無いわね・・・。"
 彼女の鋭敏な鼻が嗅ぎ取ったのはこう何とも言えない仄かないい匂い、一嗅ぎですっかり心が落ち着くという森の木々と同じ系統の匂いではあったが、森の木には無い温かく肉体を持つ者特有の匂いを持つその香りに、彼女は非常な興味と関心を抱いた。そしてそう思うまでも無く、彼女の足は鼻を頼りにその匂いのする方向へと向っていた。
 ガサガサガサ・・・。
 調子よく旧道を歩いていた知明は、ふと自分の動きに沿って隣の藪の中から何か音がするのに気が付いた。試しに何も知らない振りをして止まって見るとその音は止み、再び動き出すとまたしだすという何とも不思議な音に彼は興味ではなく、不気味さを感じた。
"何だ、この音・・・動物・・・じゃないないだろうな、だとすると・・・ストーカー?そんな馬鹿な事がある訳無い・・・と言うか、こんな荒れ果てた旧道で男を追っかける奴がいるとは思えんが・・・。じゃあ、何なのだ?"
 目に見えぬ音だけのその何かに少し恐れを抱きつつも、前へ進もうとしたその時、旧道であった地面には自然の陥没による窪みがあり、そこに見事足を下ろしてしまった知明は派手に転んで、道脇にある藪の中へと倒れてしまった。

"これがこの匂いの元なのね・・・。"
 一方、それからわずかに前の事、猛スピードで狼体型で森を横断してきた山神の少女サキは少し息を切らしても、そっと草叢の影から目の前を二足で歩いている生き物を見詰めていた。二足で歩く生き物、それは人間であり知明の事だ。だが、これまでずっと山の中で育ってきたサキは人間の事を良く知らない、それが故にこれ程までに純粋に興味を持ったのだろう。彼女は知明の動きに合わせて、草むらの中を静かに歩いていた。
"何処へ向っているのかしら・・・優しそうな方ね・・・どこの山神様なのかしら?"
 彼女はすっかり知明の事をどこか他の山の山神であると誤解していた、見た所特に種族を主張する物が見当たらないので、彼女は然るの血筋を引いた山神だと勝手に決め付けていた。
"猿はちょっと範囲外だけど、この方は何だか普通の猿とは違うわ・・・なんかこう、凄く優しそう・・・是非お話してみたいな・・・。"
とまで思った矢先、普通に歩いていた筈の知明、サキにしてみれば猿の山神が不意に倒れた。慌てて近寄って見ると呼吸はしていた、匂いも尚発せられている。
 これは生きている事の証左であり、これを感じ取ったサキはホッと胸を撫で下ろしたが、一向に彼は目を開こうとはしなかった。体も呼吸をする以外では動きはしない、どうやら頭を打った事で気を失ってしまったらしい。サキはここに放って置く訳には行かないと咄嗟に判断すると、その小さな体には余りある知明の体を乗せて、高速で社へ向けて元来た道を駆けて行った。

 社に到着したサキはすぐに人型へと戻ると、布団の上に彼を寝かして必要と思われる処置をしてその枕元に付き添った。目覚めるまでこのままでいようと誓っていたサキは、夜はそこに布団を持ってきて寝て、食事もそこで摂りとにかくずっと付き添い続けた。しかし、何時まで経っても目覚めようとしない彼に業を煮やしたサキはふとある物の存在を思い出した。
"そうだわ、確かお母様がお父様に差し上げていたお薬があったわね・・・あれなら目を覚ますかも。"
 そうして彼女はすぐにその薬を取りに入った。かつて母親が父親に事ある毎に渡していたその丸薬を飲んだ父親は、どんなに疲れていてもすぐに元気になった。それを見ていた記憶のあるサキはすぐに取って戻ると、母親のしていた様にまずその薬を自らの口の中で溶かして、そっと開いた彼の口の中へと注ぎ込んだ。
"これでいい筈・・・早く目を覚まさないかな。"
 彼女はニコリと笑って再び枕元にて付き添っていた。

 その頃、知明は夢を見ていた。何だかよく分からない面白さのその夢を楽しんでいると突然、何かに意識が引きずられた様な気がした。
"何だろ・・・うん?何だか熱いなぁ・・・熱いぞ、急にあっ・・・。"
「うをあっ!?」
 夢を失うと同時に彼は現実へと意識を引き戻された。突然の事に思わず叫び声を上げて、上半身を起こし上げる。
「あれ・・・ここは一体・・・。」
「気が付かれましたか?」
「え・・・はっはい・・・何とか・・・。」
 すぐに冷静になって自分が思いも寄らぬ所に寝ている事に気がついた知明は、そっとかけられたその声にまた冷静さを失った。慌てて首を声がした方向へと向けると、そこには1人の少女が自分を見詰めて正座していたのだから。

「ささ、お茶にしましょうか。」
 あれから数十分が経った頃、ようやく事態を飲み込んだ知明は彼女のお茶に呼ばれていた。
「はぁ・・・どうもすみません。」
「いえいえお構いなく・・・さぁどうぞ。」
と彼女が、サキが差し出した茶碗を手に取り、淹れられたばかりのまだ湯気の立つ熱いお茶を一思いに飲み干す。かなりの熱さに慌てて飲んだ事を後悔しつつ、サキに勘付かれない様に何とか堪えて静かに彼女を見詰めた。
 自らをこの辺り一体を統べる山神だと言うその少女は、背の高さは150センチかその程度、顔は小顔で目鼻立ちは確りとして意志の強さを感じさせる。
"耳は髪の中に隠れているのだろうな・・・。"
 と耳が見当たらない理由を勝手に想像して、残ったお茶を飲み干し元の場所に返そうとしつつ不意に視線を上へと上げたその時だった。彼女の頭の上には、これまでにも何度も見ていたと言うのに全く見知らぬ物・・・恐らく、熱いお茶を一気に飲んで意識をハッキリさせたからだろう。そこにはピクピクと時折小さく機敏な動きを見せる、本来ならば有り得ないはずの物が付いていた。
"あれって・・・・まさかねぇ・・・。"
 それは紛れも無い耳、犬耳だった。綺麗に整った三角形をしたその耳は、全く違和感無くその髪と頭に馴染んでおり、彼の常識以外では全く違和感を感じる事は出来なかった。
"と言う事は・・・やっぱり・・・。"
 耳があるならばと知明はすぐに視線を彼女の腰の辺りへと移した。するとそこには予想通り、身に纏われている巫女装束の背後よりだらんと床の上に横たわる灰色の尻尾があったのだ。

「あれ?どうかされましたか?」
「い、いや何でも無いです。いや、美味しいお茶ですねぇ・・・ハハハ・・・ハハ。」
 サキからの指摘によって正気に戻った知明は、笑いも交えて何とか取り繕ってその場を凌ごうとした。しかし、恐らく意識はしていないのだろうが結果として彼女の方がやや上手であったのは間違いない。
「そうですか、それなら安心ですね・・・ところで、正明さんはどこの山神をしているのですか?私の知り合いには猿の方は居りませんもので、是非とも色々と教えて貰いたいものなのですが・・・。」
「や、山神ですか?あの僕はそんなおおそれた者ではないのですが・・・。」
彼は慌てて彼女の言を否定した。するとサキは自分の想いが否定された事に驚いて切り返して来た。
「え・・・?だって、あなたは猿の山神なのでしょう?」
「いやいや、違います違います。僕はただの人間ですよ、山神なんてものではありませんよ。そもそも・・・。」
 知明は口と目を丸くしてただ驚いているサキに向けて、先程の話で感じていた疑問点も含めて今の思いを一気に捲くし立てた。その勢いに当初はただただ圧倒されるだけであったサキも、次第に勢いに上手く乗り始めて話の要所毎に、その疑問に対しての彼女なりの答えやその場で感じた疑問を逆にぶつけるまでに最後はなっていた。そして、互いの感じていた多くの疑問の殆どを解消してようやく静かになった時、2人の間には不思議な高揚感と連帯感が育まれ、出会ったばかりの頃には考えられない様な砕けた口調で会話にすっかり打ち解けていた。
 続


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