日中流した夥しい量の汗も夜間の澄んだ空気の中に流れる涼しげな風に浸っているとつい忘れてしまう様な、そんな季節。
雨がしとしとと降り続く陰鬱な梅雨が明け、季節はもう夏。
漫画の中に出てくる様な二階建ての古めかしいアパートの一室ではその部屋の住人である彼、氷上が一人インドアライフを過ごしていた。

「あ”あ”あ”あ”ーーーーーー」

旧式の扇風機に向かって喉から絞り出すような声をあげる。
風力は最高に設定してあるものの、それでもこの暑さを凌ぐには十分とは言えず、
下着以外纏わぬその毛皮からは玉のような汗が滴っていた。
熱い――――
前期の試験期間をとうに終えた俺は毎日こうして暑さと退屈相手に奮闘している。
こんな茹だる様な炎天下の中外に出ようなんぞ考えるのは正気の沙汰じゃない。
そうなると自然に家の中に籠ることになるが、連日の引きこもり生活の結果、積みゲーは全て攻略済みになってしまった。
点けっぱなしのテレビから流れるニュースは今日の気温が30度後半まで上り詰めるだろう、と言っている。

「あっちぃー……」

ぼそりと呟くとそのまま畳の上で大の字に寝転がる。
どうやって退屈を凌ぐか、板張りの天井を眺めぼんやりと考えていた、その時だった。

「ひっかみー! 遊びに行こ〜〜!!」

……こいつにはまともな思考回路が存在するのか?
笑顔で飛び込んで来た浴衣姿の来訪者の笑顔をそれとは対照的な苦い顔して見つめると、俺は軽くため息をついた。

「やっぱさー夏って言ったら海じゃん?とゆーことで今から俺達は海へ出発しまっす!!」

榊の人の話も聞かず、勝手に話進める癖は今に始まった事じゃない。
この三か月の間に散々振り回されたおかげで幾分か耐性が付いてはいたが、この提案には少々驚かざるをえなかった。
それもその筈、俺達には足がない。
俺は車なんぞ持てるような裕福な生活を送ってないし、榊にしても仕事に行く時はいつも現場の人間に迎えに来てもらっている事を俺は知っていた。

「いやいや、大体出発するって言ってもさ、足も無いのにどうすんだよ?」

呆れ顔でそう言うと、待ってましたと言わんばかりに口端を吊り上げ不敵な笑みを浮かべる榊。
ずかずかと俺を押しのけ部屋の奥の窓までやってくると笑みを浮かべたまま無言で手招きし、下の道路を指差した。
一体何なんだ……そう思って榊の指し示す場所を見るとそこには一台の白バンが堂々と露駐してある。

「ふっふっふっ、氷上の考えなんてお見通しさっ!! そう言うと思ってちゃ〜んと車借りてきてたんだから♪」

榊に見通される程の自分の考えの浅はかさに若干肩を落としつつ、ちらりと榊の方に目をやる。
遠足に行く前の子供の様なあどけない表情を浮かべているのを見ると、頑なに拒否するわけにもいかず、これはもう諦めざるをえまい。
俺はただ力なく、首を縦に振るしかなかった。
それから10数分後、俺は白地にエンブレムをあしらったスイムショーツに毛皮より幾分明るい青のタンクトップといったラフな格好で車のそばに佇んでいた。
首から下げたシルバーのクロスが眩しい位太陽光を反射させ、身体からは既に汗が滲み出し毛皮を微妙に湿らせていた。
……遅い…………
この暑さも相まってあの能天気な虎に対する苛立ちが込み上げる。

「ごめ〜ん、待った―?」

背後から聞こえるいつもの間の抜けた声。
文句の一つでも言ってやろうと振り向いたそこには藍地に黒の籠目文の甚平を着こなす榊の姿が。
今から海行くんだよな?てことは他の人も来てるわけで……ってことは他人の目に触れる訳だし普通の格好して行こうって気にはならないのか?
つい先刻まで文句を垂れようとしていた事もすっかり頭から消え去り、ただ唖然とするしかなかった。
そんな俺の考えを知ってか知らずか

「どうよこれ?この間新しく買っちゃったんだよね〜似合う?」

とはしゃぎまくる榊。
口を半開きのまま言葉なく二、三度頷くとガッツポーズしてそのまま勢いよくバンに乗り込んだ。

「ほら、氷上何固まってるの〜?乗って乗って!!」

その言葉で我に返ると俺は急いで助手席に乗り込んだ。
……まさかこいつ、下まで…………
大きな不安を抱えたまま、バンはゆっくりと速度を上げていった。




「すっげー!!やっぱ夏と言ったら海だよなー!!」

車を走らせることおよそ一時間弱、松林を通り抜けるとそこには幾千もの光をちらつかせる青い海、
ゴミ一つ落ちていない白い砂浜が広がっていた。
見る限り波も比較的穏やかでこの分なら滅多な事でもない限り海難事故に遭うこともないだろう。
他の海水浴客もまばらにしか見えず、伸び伸びとくつろぐことができそうだ。

「榊、よくこんな穴場知ってたな!!海もすげー青いし綺麗だし!!」

あまり気乗りしなかった事など露知れず、すっかり現在の榊の様子など忘れ、珍しく子供の様にはしゃぐ俺。

「ソウ……オレノカオトドッチガアオイ……?」

榊の顔は蒼白で今にも嘔吐寸前の様だった。
というのも運転を開始してからすぐに榊の顔は段々と青ざめてゆき、到着する直前には真っ白な灰の様な状態になっていた。
慌てて榊の気分が落ち着くまでゆっくりと背中を擦ってやる。
いつもは大きく見える背中が今は弱弱しく映る。
しかし数分もすると榊の顔は血色を取り戻し、尻尾を立てられるまでに生気を取り戻した。

「ありがと〜氷上。もう大丈夫だよ」

普段より弱弱しい声ではあるもののこの分だと大丈夫そうだ。

「それならいいけど……もしかして乗り物弱い?」

「ちょっとね……」

どう見てもちょっとってレベルじゃないだろあれは。
毎朝現場までコイツを乗せて行ってる人もいつ吐かれるか肝を冷やしてるに違いない。
……帰りはどっかでビニール袋確保しておくか、一応。

「さっそれじゃ行こうか!!周りに人いないしここで着替えてっちゃおう!!」

すっかり元気を取り戻した榊はそう言うとおもむろに甚平の紐を解き、黄色の毛並みに黒の横筋が映える引き締まった背中をはだけ出した。
と、ここで俺は綺麗な海を見た感動と榊の容態のおかげですっかり忘れていた例の憂慮を思い出す。

「なぁ榊……お前……下はその……もしかして…………」

今現在榊が締めているのではなかろうかと危惧する「あの物」の具体名をどうしてもはっきり言いだせず、一人もじもじしていると、

「あ〜氷上ったらもしかして俺の水着が気になるの?全くエロいんだから〜」

いつもの調子でにやにや笑いながら俺を挑発する榊。

「ち、ちげーよ!!!!ただ俺はお前の水着がちゃんとした物か気になって……」

顔を赤らめ反論する俺。
しかし榊は俺の反論など全く意に介さず、寧ろ反論してきた事によりそれが事実だと勘違いしたらしい。
俺の方へ向き直ると残りの甚平に手をかける。

「そんなに気になるんなら見せてあげるよ。それっ!!」

一気に甚平の脱ぎ捨てるとそこには……赤い競パンが。
しかもどうやらジャストフィットしている様で、榊の股間が普段より強調されていた。
最悪の事態は回避……できたのか?
これはこれで問題ある気もするが……
そうやって頭を抱え一人思い悩んでいると

「氷上〜早く行こうよ〜〜」

遠くから俺を呼ぶ声が聞こえる。
顔を上げれば榊はとっくに海の方向へ向っていた。

「もう考えてもしょうがないか……」

そう振っ切ると急いで自分も泳ぐ準備を始めた。
口からはどこかほっとしたような溜め息が漏れた。



砂浜は足裏の肉球を通してもなお熱く、その一角にブルーシートを広げる作業は二人ともやや困難を極めた。
口々に熱い熱いと愚痴を溢しながらも何とかシートを敷き終え、尻尾を大きく振りながら波打ち際まで足早に駆けた。
押し寄せる波の感触が更に気持ちを高揚させる。

「榊ー、向こうの方まで泳いでみようぜー」

後方の榊にそう告げると返事も聞かず、興奮冷めやらぬままどんどん深みへ進んでいく。
膝上ほどの所まで来ても未だに底が見えるほど海水は綺麗で、思わず足を止め足元を見やる。
そこには鮮やかな色の貝殻が散らばり、時折小さな魚が泳いでいるのが見えた。
ふと顔を上げると榊はまだ波打ち際で足を止めている。

「何やってるんだよ、早く来いって」

榊に向かいそう呼びかけると、ゆっくりと海の中に足を踏み入れた。
一瞬躊躇したようにも見えたが、俺は何の疑問も持たず榊が俺の方へ来るのをその場で待っていた。
が、次の瞬間、榊が次の一歩を踏み出したと同時に前のめりに倒れたではないか。
何やってんだよ……
榊のドジっぷりに軽く溜め息をつき、その様子を眺める。
またあの素っ頓狂な声を恥ずかしげもなくあげ、俺の方へ駆け寄ってくるんだろうな、なんて思っていた。
しかし現実には榊は一向に起き上がる気配もなく、ただただその場で腕をまわし水しぶきを掻き揚げるのみ。
しかも始めは盛大に上がっていた水しぶきも段々とその勢いを失い、遂に海面はいつもと変わらぬ穏やかさを取り戻していた。
俺はここに来てようやく現状のまずさを実感し、急いで榊を救出に向かった。
榊が沈んでいたその場所は30cm程の深さしか無く、榊の後頭部が海面に覗いている。
急いで榊を引っ張り上げ肩に担ぎ、浜へ急ぐ。
俺よりも一回り大きな榊の身体が重く俺にのしかかるが、今はそんな事も気にならない位必死で浜へ向う。

「おい、榊!!大丈夫か!?!?」

そう呼びかけるも返事は無く、力無くぐったりとしている。
浜へ着くと榊をその場に降ろし、榊の名を呼びながら何度も頬を叩く。
しかし榊の意識は一向に戻らない。
俺の只ならぬ様子を察したのか周りに他の海水浴客が集まってきた。

「榊!!榊!!!!おい榊!!!!」

何度も何度も呼びかけるも効果は無く、榊は目を覚まさない。
形振りなんぞ、構ってはいられなかった。
人の目なんぞ、構ってはいられなかった。
意を決し大きく息を吸い込むと榊の口を囲むように手を当て、自分の口から直接榊へ呼吸を施す。
一度、二度、三度……
そうして何度めだろうか、空気を榊に送り込むべく息を吸いこんでいると榊が水を吐き出し、目を開けたではないか。

「……あれ?氷上何やってるの?」

「……バカ野郎っ」

その声を聞いてこれほど安堵した事はこれまでも、そしてこれからも多分無いだろう……




「何?じゃーお前全く泳げないくせに海に行こうとか誘ったの?」

日が傾き、太陽が地平線へ沈むのを砂浜に腰を下ろし眺めながら、榊に尋ねる。
あの後、息を吹き返した榊と俺は共にシートの上で昼寝したり、浜辺で砂遊びしながら今まで過ごした。
榊はいつも通りの無邪気さを見せ、俺はそれを微笑ましい気持ちで見守っていた。

「実はそーなんだよね〜ていうか俺、一回も泳いだこと無いし」

ははは、と笑いながら答える榊。

「乗り物にも酔うわ泳げないわ……何でそこまでして海に誘うんだよ……」

釈然とせずただ溜め息をつく俺。

「だってさ、氷上このところずっと暇そうだったじゃん?だからどこかに連れて行けば喜ぶと思って……」

榊は俺の方を向き、申し訳なさそうに呟いた。
……なんだこいつはこいつなりに俺を気遣ってくれたのか。
榊のうれしさが嬉しく、小さく尻尾を揺らした。

「……ありがとな」

俺はそう言って榊の方へ手を差し出す。
榊は正面に向き直り、そっと俺の手の上に自らの手を重ねた。
寄せては来る波の残響が辺りに響き渡る。

今夜は連日よりも熱くなるだろう。




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