さらわれた少年をスラムから連れ戻し、宿に着いたのは3時を少し回った頃だった。
部屋に戻ったオレ達は、会話もなく、することもなく、ただ黙って部屋で時間を過ごしていた。
少年はベッドの上に座ったままうつむき、オレは窓際の椅子に座って、わずかに開いている窓の外を見ている。
静寂が部屋を包み、ただ時間だけが無意味に過ぎていく。
1時間程の長い静寂。
その静寂を破るようにオレは立ち上がり、窓を全開にする。
初夏とはいえ、夕暮れ時ということもあって、涼しい風が部屋に入り込む。
オレは再び椅子に座り込む。
その時だった。
「……あ……の……」
不意のことに驚き、オレは声のした方に顔を向ける。
そこで顔を上げてこちらを見つめている少年と目が合った。
「……あの……助けてくれて……ありがとう……ございました……」
初めて聞く少年の声。
まだ声変わりもしていない、少年特有の高い声だった。
「いや、礼を言われるようなことじゃないさ。
元はといえばオレのせいなんだし……
あの時、一緒にいてやればあんなことにならずにすんだんだから……」
謝るオレを見て首を横に振り、再び少年が口を開く。
「……あの……どうして……助けてくれたんですか……?
それに……どうして……何も……しないんですか……?」
「どうしてって、オレはお前の保護者みたいなものなんだから助けるのは当然だろ?
何もしないのは、そういうことが目的でお前を引き取ったわけじゃないからだ。
最初に何もしないって言っただろ?」
さも当たり前のことのように答えるオレを、少年は不思議そうな目で見て、
「じゃあ、なんでボクを買ったんですか……?」
と聞いてきた。
「あ〜……金でやりとりしたのは悪かったな。
あの時はあの方法が一番穏便に事が済んだやり方だったからな。
おまえを引き取ったのは、ただお前を奴隷ってやつから開放してやりたかっただけだ。
本当は、お前に家族がいれば、家族の元に送り届けてやりたかったんだがな……」
オレがそう言うと、少年はうつむいて黙り込んでしまった。
そして短い沈黙のあと、少年がうつむいたまま話し出す。
「クーア……さまは……今までのご主人様とは違う。
ボク、クーアさまになら……」
「お前が奴隷だったのは昨日までだ」
言いかけた少年の言葉を、オレは少し強い口調で遮った。
少年は顔を上げ、また不思議そうにオレを見つめる。
「言っただろ? 奴隷から開放してやりたかったって。
だから、オレのことを様づけして呼ぶ必要も、敬語を使う必要もない。
お前が思ってるようなことをする必要もないんだ」
オレは少年の目を見つめ返し、諭すように少年に話しかける。
それを聞いた少年は困ったように眉をひそめ、
「じゃあ、ボク、何をしたら……」
と言って、再びうつむき、黙り込んでしまった。
オレは少し考えたあと、椅子から立ち上がり、少年の隣に座る。
少年が顔を上げてこちらを見つめる。
オレは少年の頭を撫でながら、優しく語りかけてやった。
「オレと一緒に来ればいい。
さっきも言ったように、オレはお前の保護者みたいなものだからな。
お前が独り立ちできるようになるまで、責任を持って面倒を見る」
「保護者……」
「そう、保護者。
まぁ、父親か兄貴ってところか」
「……父親……兄……
……お兄ちゃん……」
少年は反芻するように呟く。
「どうだ? 一緒に来るか?」
物思いに耽っている少年にオレがそう聞くと、少年は迷うことなく答えた。
「うん。 ボク、行く。
クーア……と一緒に、ボク行くよ!」
そう答えた少年の顔は、とても嬉しそうな笑顔だった。
何があれほど頑なだった少年の心をここまで解きほぐしたのかは分からない。
だが、今のオレにはそんなことはどうでもよかった。
初めて見る少年の笑顔。
それを見ることができた、そして少年が心を開いてくれたということが、オレにはとっては何よりも嬉しいことだった。
「そうか! じゃあ、よろしくな!
えーと……」
そこまで言ってオレは言葉に詰まる。
そういえば、まだ少年の名前を聞いていない。
困惑した様子のオレを見てそのことに気付いたのか、少年が笑顔で名乗る。
「ジーク。
僕の名前はジークだよ!」
「そうか。 じゃあ改めて。
よろしくな、ジーク!」
「うん! よろしく、クーア!」
そう言って満面の笑顔を浮かべて挨拶を返してきたジークの顔は、出合った時とはまるで別人のように輝いて見えた。