ボクはまたも逃げていた。
ボクが竜のオブジェに対して組み立てた策は、失敗に終わった。
正確には、失敗に終わりそうだった。
今から30分程前、策を定めた直後に『防塞』を突破した竜のオブジェ。
それをおびき寄せつつマテリアを探すというのは、さほど難しいことではなかった。
何しろ、竜のオブジェは動きが鈍く、通路の角へ角へと先んじて回れば、『ブレス』の脅威にさらされることもなく誘導できたからだ。
そして、誘導開始から10分程して、竜のオブジェと戦わせようとしていたマテリアとも遭遇できた。
遭遇したマテリアは、ケンタウロスというマテリア。
馬の体に首から上の部分が馬獣人の上半身という姿をした、体高3mに近いマテリアだ。
ミノタウロス程ではないが、かなりのパワーがあると見て取れるマテリアだった。
そのケンタウロスを、ボクを囮として竜のオブジェ近くまで誘導し、相対させることにも成功した。
ボクがうまく立ち回り、竜のオブジェとケンタウロスを比較的長い通路で相対させ、ボク自身は脇に伸びている通路に身を隠すことができた。
しかし、そこから策が破綻した。
竜のオブジェとケンタウロスが戦わなかったわけではない。
実際、ケンタウロスは、ボクが通路に身を隠して視界から消え、代わりに竜のオブジェが視界に入ると、即座にそちらに標的を変えて向かっていったのだから、戦わせること、それ自体は成功したと言っていいだろう。
むしろ失敗だったのは、そのあと。
戦いにすらならなかったのだ。
通路の角から動向をうかがっているボクの視線の先で、竜のオブジェが大きく口を開くや否や、強烈な閃光が放たれ、長い通路を貫き走った。
閃光が消えたあとに通路に残されていたのは、ケンタウロスの四肢の蹄の部分だけだった。
竜のオブジェの攻撃の正体は『ブレス』。
『ブレス』には2種類あり、以前ボクに向かって撃ち出されたのは範囲は狭いが威力の高い投射系の『ブレス』で、ケンタウロスに向かって放たれたのは範囲は広いが威力の低い放射系の『ブレス』だった。
しかし、竜のオブジェの放った放射系の『ブレス』の威力は、以前にボクに向かって撃ち出された投射系の『ブレス』とは比べるべくもく強力だった。
明らかに強さの調整がなされている。
もしも、ボクに向かってのブレスがケンタウロスに向かって放たれたのと同じ範囲・威力の放射系のブレスであれば、ボクはとっくのとうに消滅していたはずだ。
しかし、実際にはそうではなく、ボクに向かって撃ち出されたのは、範囲の狭い、しかも格段に威力が落とされた投射系の『ブレス』だった。
(何で?)
疑問が頭をかすめる。
普通に考えて、ボクを排除するつもりなら、初めから先と同等の放射系の『ブレス』を使えばいい。
だが、竜のオブジェはそれをしなかった。
不可解に思いながらも、ボクは再度竜のオブジェを誘導しつつ、マテリアを探した。
それから10分程して、ボクは再びマテリアと遭遇することに成功した。
遭遇したのはミノタウロス。
ケンタウロスの時と同様、ボクは竜のオブジェとミノタウロスを誘導しつつ、自らは身を隠し、相対させることに成功した。
しかし、結果はケンタウロスの時と同様、竜のオブジェの放射系の『ブレス』による、ミノタウロスの消滅という結果になった。
それからさらに10分後、今、ボクは竜のオブジェから逃げ続けていた。
竜のオブジェとの距離を確認し、攻撃の動作に警戒しながら考える。
ボクに対してと、マテリアに対してでは、竜のオブジェの対処方法が明らかに異なっている。
推測だが、竜のオブジェは生物と準生物によって、強さ・攻撃方法を変えているのではないだろうか。
生物やそれ由来のものにたいしては比較的威力を抑えたものに、準生物には威力を抑えていないものに、という具合に。
理由は分からないが、仮にそうだとすれば、ボクの立てた策は成立しないことになってしまう。
なぜならば、ボクの立てた策は、あくまで竜のオブジェとマテリアの力がある程度拮抗していることが前提だからだ。
それがそもそも戦いにすらならないということは、策が根底から覆されたことになる。
(もし次も同じ結果だったら……)
そうであれば、ボク自身が戦わなければならない。
勝算は五分と五分といったところ。
有利ではないが不利でもない。
いや、向こうにあれだけの力があると分かった以上、決め手は向こうにある。
それを含めて考えれば、あきらかにこちらが不利だ。
(でも、やらなくちゃ……!)
策が失敗した時の為の決意を固め、それでも策に望みを託して次のマテリアを探す。
そうして竜のオブジェとの追いかけっこを続けることしばらく。
十字路に差し掛かった時、ちょうど交差点の中央の床の上に、星夜苔による明らかに人為的なものだろう小さな矢印が描かれているのを見止め、ボクは足を止めた。
(! これって……)
ボクはこんなことはしていない。
当然、マテリアもこんなことはするはずがない。
ということはつまり、この階にいるほかの2人のどちらか、あるいは両方が描いた物に違いない。
(ここを通ったんだ!)
この階にいる誰かの足取りを掴むことができ、ボクは自然と笑みをこぼしていた。
ひょっとしたら、見落としていただけで、ボクが今まで通ってきた分かれ道にも印が描かれていたのかもしれない。
「……っと!」
後ろから聞こえてきた音に我に返って振り返ると、追ってきた竜のオブジェとの距離がだいぶ詰まってしまっていた。
立ち止まって考えているうちに詰められてしまったようだ。
現在地は十字路の真ん中。
進むべき道は三方あり、どの通路に入るかだが、
(こっち!)
ボクは迷わず正面の通路を選択した。
理由は単純、矢印がそちらを示していたからだ。
少し小走りに十字路を通り過ぎる。
小走り程度でも竜のオブジェを引き離すには充分な速度だ。
少しして、詰められた距離の分を離すことに成功し、ボクは再び歩調を緩める。
と、再度前方に現れた十字路を前に、ボクは再び足を止めた。
(何……この臭い……)
異臭がする。
十字路のどの通路からかは分からないが、じめっとした空気に混じったカビ臭さをかき消すように、何か生臭いような臭気が漂ってきた。
小走りに十字路に駆け寄ると、十字路の中央には先程同様の星夜苔による印が記されていた。
それを見止めながら、慎重に十字路から伸びる通路を調べる。
正面は異常なし。
右も異常なし。
そして左は、
「っ!」
ボクは思わず声を上げそうになった。
(ストマックだ!)
胃袋のような外見をしたマテリア、ストマックが、左の通路のほんの数m先で蠢いていた。
まだこちらに気付いてはいないようで、まっすぐ奥へと這いずっていく。
後ろを振り返れば、竜のオブジェはまだ少し先にいる。
今ストマックに気付かれてしまっては、相対させるにはタイミングが悪い。
ボクは『暁光』の封魔晶を消し、しばらく息をひそめる。
当然、竜のオブジェ、ストマックの双方に注意を向けながら。
そして、機を見て再び明かりを灯し、十字路に躍り出た。
ストマックはだいぶ先に行ってしまったが、今から引き返させれば、ちょうど十字路に差し掛かる辺りで竜のオブジェと接触するだろう。
ボクは十字路の中央に立ったまま、手を勢いよく叩き、大きな音を立てた。
音は通路に反響し、わずかな間のあと、ストマックが鎌首をもたげてこちらに向ける。
(よし!)
気付かせることに成功し、ボクは自分の存在をアピールするように明かりを高くかざす。
すると、ストマックはまんまと釣られ、十字路の方へと引き返してきた。
片や竜のオブジェはというと、こちらは一定のペースを守ったまま、こちらへと向かってくる。
当然、ここにとどまっていては、いつ竜のオブジェの『ブレス』が飛んでくるか分からないし、ストマックの攻撃射程にも入りかねないので、ボクは十字路から右に向かって伸びる通路に入った。
正面の通路に入らなかったわけは、ストマックの方が先に十字路に到着し、なおかつ竜のオブジェが放射系の『ブレス』を吐いた時に逃げ場がなくなるからだ。
通路の半ばまで進み、振り返って明かりをかざす。
竜のオブジェの姿は見えないが、ストマックは確実にこちらに這いずり寄ってきている。
(あと少し……)
ストマックの位置から判断するに、もう少しで竜のオブジェとストマックは出会い頭の対峙をすることになる。
そうして見守ることしばし。
ついに対峙の時が訪れた。
先に十字路の到達したのは竜のオブジェ。
達すると同時にこちらに向き直る。
その後方ではストマックが竜のオブジェを察知。
鎌首をもたげて天井を仰ぐ。
おくびのような声を上げるストマックに、竜のオブジェが反応し、振り返る。
が、竜のオブジェが臨戦態勢を整えるより先に、ストマックの攻撃が竜のオブジェを襲った。
振り下ろされたストマックの鎌首の先端にある口から、強酸の胃液が吐き出され、竜のオブジェの胸元に掛かる。
シューシューと、水が煮沸するような音が竜のオブジェから聞こえてくる。
それから遅れること一拍。
竜のオブジェの口元が、『ブレス』の予備動作としての白い輝き帯び始める。
それを視認すると、ボクは通路を素早く後退し始めた。
その1〜2秒後、ストマックに向けて竜のオブジェの放射系の『ブレス』が解き放たれる。
眼前が白くまばゆく輝き、ボクは反射的に目を閉じた。
強烈な閃光はそれでもまぶたを通して視神経を刺激し、目がくらむ。
後退を続けつつ、ゆっくりと目を開ければ、まだくらんでいる目にも、ストマックの存在が完全に消滅したことが分かった。
(やっぱりそうなんだ)
この結果から、先の予想である、竜のオブジェが生物と準生物とでは対処方法が違うという仮定が成立する可能性が非常に高くなったことが分かった。
となれば、マテリアを誘導した竜のオブジェ撃破は難しいということにもなる。
ただ、今回は先の2回とは違って、竜のオブジェにもダメージが入っている。
それは、ストマック撃破後、こちらを振り向いた竜のオブジェの胸元を見れば明らかだ。
胸部からはまだ若干の煙が上がり、その表面が溶けているのが確認できた。
少なくとも、マテリアの攻撃が直撃さえすれば、竜のオブジェにダメージは通る。
これを利用すれば、当初の目論見通りに事を運ぶことができるのだが、問題はそこに至るまでの過程だろう。
今回は運よくストマックが先制できたからよかったものの、普通に通路上で対峙させただけでは、確実に竜のオブジェの攻撃の方が早く決まってしまう。
次もまた同じような状況をうまく作り出せるとは思えないし、運の要素が大きく絡む以上、期待はしない方がいいだろう。
(そうなると……あとはもう……)
十字路の中央で立ち止まっている竜のオブジェに視線を向けたまま考える。
と、ボクの思案をさえぎるように、竜のオブジェから若い男の声が発せられた。
<損壊率30%超、右上肢・右下肢・右翼・胸部損壊、侵入者排除に支障あり>
その声に、ボクは思わず足を止めた。
<状況判定の為、階層内再探索開始>
しばしの間。
<階層内再探索完了、生体反応5、うち生物2、準生物3>
「!」
生物の反応が1つ減っている。
(まさか……)
<防衛機構10、うち起動中ブレイン1、リム4>
こちらの数は先程と同じ。
<マスターブレインに接続、状況判定要請>
聞き慣れない単語が出てくるが、ボクは静かに状況を見守る。
<排除継続命令確認、排除再開>
「っと!」
動き始めた竜のオブジェを見て、ボクも後退を再開した。
そうして通路を進みながら、今の竜のオブジェの発言について考えを巡らせる。
生物の反応が1つ減っていたということは、考えられることは2つ。
1つは別の階に移ったということ。
もう1つは死んでしまったということ。
前者ならばいいが、後者ならば困るというレベルではない。
だが、これに関しては想像するしかないので、どちらが事実なのかは知りようがない。
ただ前者であることを祈るばかりだ。
次に考えることは防衛機構の数。
たしか、最初に聞いた竜のオブジェの発言によれば、『リム8』と言っていたはずだ。
リムというのは、たぶんあの小型の竜のオブジェのことだろう。
実際、竜のオブジェの起動と共に襲ってきたのだから間違いないと思われる。
ボクを襲ってきたリムは4体。
これはすでに倒したので、残りは4体になっているはずで、数が合う
この4体は、まだこの階のどこかを徘徊しているに違いない。
(今見つかったら厄介だな……)
思いながら、ボクは後退を続ける。
すでに十字路を2度程曲がっていたが、前回・前々回の時のような星夜苔による矢印は記されていなかった。
印した人物は、きっとこの場所には来ていないのだろう。
何はともあれ、とにかく目の前の竜のオブジェを何とかしなくてはならない。
もうマテリア頼みの攻撃を続けることができないことは、これまで3度の経験から分かった。
そうなると、もう取るべき手段は1つしかない。
(ボクが……戦わなきゃ)
ボクは足を止める。
この階にいる誰かと再会する前に、この脅威を取り除いておくのはボクが自分に課した使命だ。
その使命を反故にしたとしても、勝手にボクが決めた使命だ、誰も何も言わないだろうし、きっと誰かと協力して事に当たった方が勝率も安全率も高まることだろう。
しかし、せめてその使命をまっとうしなければ、皆に申し訳が立たない。
ボクの不注意で皆がバラバラになってしまったのだから。
(だから、ボク1人で戦うんだ。
戦わなきゃ……だめだ!)
意を決し、ボクは竜のオブジェと対峙した。
竜のオブジェは25m程先にいる。
まだ『ブレス』は飛んでこない距離だ。
もう少し近くまで引き寄せ、効果のあった『土塊』の魔法で攻撃する。
(あっちが倒れるのが先か、ボクの魔法力が尽きるのが先か……)
見立てでは五分と五分。
だが、先のストマックとの戦闘で、竜のオブジェは胸部に強酸によるダメージを負っている。
うまくいけば、胸部が酸によって脆く変じ、ダメージの通りがよくなっているかもしれない。
そこを攻めれば、あるいは。
そんなことを思っているうちに、竜のオブジェが20m程先にまで接近してきていた。
『ブレス』を発射する距離まではあと5m程。
ボクは『土塊』の詠唱を開始する。
『散する黄土に我命ず! 凝集の果てに塊と成れ!』
詠唱を終えると、頭上のやや前方に、一抱え程の土塊が出現した。
狙うのは、前回同様に竜のオブジェが跳ねる瞬間。
その瞬間を視認し、
(行け!)
心の中で念じ、頭上の土塊を竜のオブジェ目掛けて飛ばす。
土塊は念じたまま真っ直ぐに竜のオブジェに向かって飛び、狙い通りに竜のオブジェが飛んだ瞬間に命中、砕ける。
竜のオブジェは後方に大きく弾き飛ばされ仰向けに倒れた。
しかし、何事もなかったかのようにむくりと起き上がると、再びこちらに向かって距離を詰め始めた。
ボクは後方に下がり、間合いをやや長く取る。
長めに間合いを取ったのは、手持ちの封魔晶の種類を確認する為だ。
総力戦になることは必至なので、自分の戦力を正確に把握しておかなければならない。
充分な間合いを取ると、ボクは視線は竜のオブジェに向けたまま、腰の革袋に手を差し入れる。
「ん?」
差し入れた手に封魔晶以外の手触りを感じ、腰袋に視線を落とす。
手触りの正体は、竜のオブジェがいた部屋の宝箱に入っていた3枚の紙だった。
ボクは3枚共取り出して、改めて紙を見る。
漫画本程の大きさで画用紙のような硬さ、それでいて絹のような手触りの不思議な紙は、さらに不思議なことに、革袋に丸めて入れたにも関わらず、折り目一つ付いていなかった。
3枚のうち2枚は白紙、1枚には何かが描かれている。
文字のようにも模様のようにも見えるそれをじっと見ると、何やら不思議な感覚が脳裏をよぎった。
何が描かれているのかは理解できない。
しかし、どこかで見たことがあるような、そんな不思議な感覚。
(これは……――!?)
紙に描かれた『もの』を眺めていると、突然頭の中に『音』が流れてきた。
耳を通してではなく頭に直接響いてくる『音』を感じる感覚は、魔法『伝心』を使った念話によく似ていた。
だが、念話と明確に違ったことは、『音』の正体だった。
『音』は声のようにも音のようにも、はたまた脳裏に描く文字のようにも色のようにも感じられた。
『音』が文字のようにだとか色のようにだとかは、非常に奇妙な表現だがそれはそうとしか言い表せない感覚だった。
さらに『音』は、それ以外にも何とも表現のしようのない感覚をいくつも伴って頭の中で響き続けた。
しかし、それは不思議と不快な物ではなかった。
例えるなら、転寝に浸っている時に聞こえてくる潮騒の音のような、そんな感覚。
そして、『音』が唐突に消えた。
その瞬間、何の脈絡もなく、1つの単語と紋様が頭に浮かんだ。
同時に、その単語と紋様が意味する事象も。
驚いて目をしばたき、目の前の紙に目をやる。
すると、不思議なことに、それまで文字のようにも模様のようにも見える『もの』が描かれていた紙が一転、裏表共に黒色に変じていた。
「……!」
紙に起きた異変を見て、ボクは今起きた不思議な『音』が、この紙に描かれた『もの』によって引き起こされたものだと理解した。
ボクは2枚の白紙と1枚の黒紙を革袋に丸めて戻し、迫ってくる竜のオブジェに向かって片手を掲げた。
竜のオブジェを瞬き一つせずに見据え、深呼吸をする。
そして、『音』が消えた瞬間に頭に浮かんだ紋様、すなわち魔陣を指先で中空に描く。
魔法力を帯びた指先は、何もない中空に1つの白い光の魔陣を描き出す。
つい先程までは知りもしなかった魔陣が、自分でも驚くほどするすると描けた。
魔陣を描き終えると、同様に頭に浮かんだ言葉、詠唱の句を紡ぐ。
『赤火、青水、緑風、黄土。 四元の欠片は、其の身を抱く』
詠唱を終えると同時に、中空に描かれた魔陣が、赤・青・緑・黄に明滅し始め、パキンという甲高い音を残して粉々に砕け散った。
砕け、4色に明滅する光の粒子となった魔陣は、吸い寄せられるかのようにボクの体に纏わり付き、やがて全身に付着すると溶け消えた。
魔術『四塵の抱擁』。
火・水・風・土の四元素を利用した魔法や技法の威力を上昇させる魔術だ。
どの程度の効果があるのかは分からない。
何しろ、ボクがこの魔術を見るのも、ましてや行使するのも初めてのことだからだ。
見たこともない魔術を行使できたのは、あの紙のおかげだろう。
紙を見てから頭に響いてきた『音』に、『四塵の抱擁』を行使するのに必要最低限な情報が詰まっていたに違いない。
ともあれ、これは僥倖だった。
ボクの手持ちの魔法の中でもっとも竜のオブジェに効果の高い『土塊』は土属性。
『四塵の抱擁』によって威力を高められる。
『散する黄土に我命ず! 凝集の果てに塊と成れ!』
すかさずボクは『土塊』を行使する。
「!」
『四塵の抱擁』の効果は明らかだった。
頭上前方に出現した土塊は、先のそれに比べると一回りは大きい。
そうなると、土塊の速度も速くなっているに違いない。
威力の上昇を視覚的にも確認し、ボクは迷うことなく土塊を竜のオブジェに向けて撃ち出した。
タイミングは同じ。
(……今だ!)
撃ち出された土塊は、予想通りに先程よりも速度を増して飛んだ。
土塊は盛大な音を立てて竜のオブジェに命中。
竜のオブジェは大きく吹き飛び、同時に直撃した胸部から欠片を飛び散らせる。
非常に効果的な一撃が決まった。
ボクは前進しつつ、すぐに『土塊』の詠唱を始める。
竜のオブジェに反撃の隙を与えてはならない。
ボクの『土塊』はたしかに効果的だが、一撃一撃が致命打になるものではない。
かたや竜のオブジェの『ブレス』は一撃が致命打だ。
それを受けないようにする為には、反撃をさせないのが一番だ。
竜のオブジェが起き上がるたびにボクは『土塊』を発動させ、命中させていく。
2度、3度と直撃させるごとに、目に見えて竜のオブジェの胸部の損壊は大きくなっていき、そして5度目。
あと2・3回『土塊』を使えば魔法力が尽きるだろうと思われる段になって、それまで倒れても即座に起き上がる様子を見せて立ち上がってきた竜のオブジェが、初めて倒れたまま動きを止めた。
その異変に気付き、ボクは前進をやめ、いつでも『土塊』の詠唱ができるようにしながら様子をうかがう。
5秒、10秒、ボクの見守る中、竜のオブジェは動かない。
(やった……かな?)
じりじりと竜のオブジェに近付きつつ、覗き込む。
明かりをかざしながら覗き込むと、仰向けに倒れた竜のオブジェの胸の部分は大きく壊れていた。
その中央部に、握り拳程の大きさの白い珠が埋まっているのが見えた。
土塊が直撃した影響だろう、白い珠には大きなヒビが入っていた。
ボクは竜のオブジェの脇まで近付くと、恐る恐る足の先で竜のオブジェの脇腹を突いてみる。
何の反応もない。
(……やった……)
「はぁ〜……」
安堵感に膝から力が抜け、その場に座り込みそうになるが、何とか気を張ってそれを避ける。
目的を達成することはできたが、達成感よりも安堵感の方が強い。
ボクは若干急ぎ足でその場を離れる。
十字路を曲がり、竜のオブジェの残骸が見えなくなると、ボクは移蔵石から丸薬の入った小瓶を取り出し、1粒取り出すと噛まずに飲み込んだ。
癒しの力を秘めた丸薬は、即座に胃で溶け、失われた魔法力をわずかなりとも回復してくれるはずだ。
念の為、もう1粒丸薬を飲み込み、小瓶をしまう。
(さてと、あとは……)
ボクは竜のオブジェから逃げてきた道を辿ってを戻る。
そして程なく、矢印の付いた十字路に着いた。
(これを追っていけば、これを付けた誰かに会えるはずだよね)
行くべき道を決め、ボクは矢印を追って先に進んだ。
分かれ道に矢印が記されていることを確認し、矢印が指し示す方へと進む。
時折、矢印の数が2つある場所もあったが、その時は勘を頼りに進んだ。
そうして進みながら、矢印を付けた者の足取りを追っていく。
やや足早に進むこと10分程。
矢印の付いたY字路を左に曲がって少し進むと、不意に後ろから音が響いてきた。
ペタリ、という素手で石壁を叩くような音だ。
それまで静寂だっただけに、ボクは驚いて後ろを振り向いた。
しかし、そこには何もない。
(気のせい……?)
振り向いた先に見えるのは薄緑に発光する暗い直線の通路と、その先に曲がってきたY字路の分岐点だけで、音を発するようなものは何一つ見当たらなかった。
不審に思いながらも、きっと気を張っているせいからくる勘違いだろうと思い、気を取り直して先に進むことにした。
だが、数歩進んだところで、またも、ペタリ、と後ろから音が聞こえてきた。
ボクは背筋に嫌なものを感じながらも振り向いた。
だが、やはりそこには何もなかった。
(気の…………ううん、これ……)
しばらく薄緑の暗闇を見つめていると、耳にペタリ、ペタリというかすかな音が聞こえてきた。
それは先に2度聞こえたそれよりもはるかに小さい音だったが、確実に聞こえる音だった。
音はだんだんこちらに近付いてきているような気がする。
ボクは射すくめられたようにその場に立ち尽くし、息を殺す。
念の為、『暁光』の明かりを消そうとしたその矢先、視界の先にそれは現れた。
「――っ!!!」
ボクは全身を寒気が貫くのを感じた。
それは間違いなく恐怖の念からくる寒気だった。
通路の先、Y字路の分岐点の右側、つまりはボクが進まなかった側の通路から現れたそれは一応の人の形をしていた。
たしかにシルエットは人と言ってもいい。
しかし、その手足と胴体は異様な程に細く、長く、異常なまでに白い。
反して、頭部は、白さこそ手足や胴体と同じものの、異様なまでに大きかった。
人の大人のそれと比べて倍以上はある。
あまりに不均整なその姿形は、たしかにある種のコミカルさはあったが、それを恐怖に変じさせているものはその者の顔にあった。
拳大をした目は縦に長く、大きく見開かれ、不自然なまでに大きな黒い虹彩はまっすぐにこちらを見据えている。
それだけでも異様極まるというのに、さらに恐怖を感じさせるのが口元だった。
顔の半分はあろうかという大きな口は、耳元まで裂けて歯を剥き出した笑みの形にゆがんでおり、その唇は不自然に赤い。
「あ……っ……!」
突然通路から現れた異形に、ボクが声にもならない悲鳴を上げて立ち尽くしていると、その異形は大きな頭を振り乱し、小刻みに手足を動かしてボクの方へと向かってきた。
「うっ……わあぁぁぁぁぁぁ!!」
あまりの異様さに、ボクは恐怖に駆られてその場から逃げだした。
追ってくる者の正体は知っていた。
マテリア、スマイル。
その名の由来は容貌を見ての通り。
実際に目にするのは初めてだが、以前に教科書で見たことがある。
教科書に載っているスマイルの写真を見た瞬間、その異形に恐怖し、即座に教科書を閉じてしまったのを覚えている。
同じ視覚的恐怖でも、ゾンビなどの死を連想させる恐怖とは違い、スマイルのそれは狂気を連想させた。
写真でさえそれ程の恐怖を覚えたというのに、実物を、しかもこんな状況で見てしまっては、恐慌状態に陥るのも、我ながら当然といえた。
おぞましい動きで接近してくるスマイルに背を向け、ボクは通路に罠があるかもしれないのにもかかわらず、全力で駆け出した。
恐慌状態の頭では、とても罠のことに気を回すことなどできず、逃げることだけで精一杯だった。
這う這うの体といった風に逃げ回り、息が上がってきたところでボクは振り返る。
スマイルは奇妙な動きは変えぬまま、確実にボクのあとを追ってきていた。
少し距離は離れたが、ボクの体力の点から、距離が詰められ、追いつかれるのは時間の問題だ。
だが、大声を上げて走り回ったおかげか、少し頭に冷静さが戻ってきた。
スマイルを見慣れたというわけではもちろんないが、出会い頭の時の恐怖も少し薄れてきている。
そしてよくよく考えてみると、スマイルは特段逃げるに値するマテリアではないことに気付いた。
スマイルには特別な能力があるわけではない。
先に出逢ったストマックのように胃液を吐き出したりするわけでもなければ、ミノタウロスのように怪力があるわけでもない。
ただその大口で噛み付く、それだけだ。
お互いのレベルが1にまで落ちている今ならば、それほど脅威になる相手ではないはずだ。
(戦えば倒せる……!)
視覚的なインパクトから怖気付いてしまいはしたが、気を取り直して、ボクは改めて振り返る。
と、その瞬間。
「うっあ!?」
足元に衝撃、直後に浮遊感、そして再度の衝撃。
「――っつ〜……!」
何かにつまづいたのか、ボクは大きく転んでしまった。
幸い打ち所が良かったのか、体の所々が痛みはするが、動けないような痛みではない。
問題は、迫ってくるスマイルの存在、そして
「……!!」
転んだ先で顔を上げて前方を見れば、20m程先の十字路の左側から現れる新たなスマイル。
(2体!?)
前後を2体のスマイルに囲まれてしまった。
追ってくるスマイルとの距離は30m程。
そのスマイルから20m程先、つまりはボクの後方10mの地点には十字路がある。
逃げ込むならここしかない。
前方のスマイルがボクの存在に気付いた。
体をこちらに向け、動き出す。
ボクは痛む体を急いで起こし、後方の通路へ逃げ込もうとする。
が、後方のスマイルの方が早い。
(くそっ!!)
十字路まであと5m程の所で、後方のスマイルが十字路に立ち塞がってしまった。
スマイルはその場で足を止め、ボクを大きな双眸で見下ろして不気味な笑みを浮かべている。
前方にいたスマイルは、ボクの後ろ10m程の位置で立ち止まり、こちらもボクを見つめて不気味に笑っていた。
こうなってしまっては、どちらかを排除するしかない。
スマイル達が飛び掛かってくるのが早いか、ボクの魔法の詠唱が早いか。
(まずは詠唱の早いので牽制して、それから脱出して攻撃)
すべきことを整理し、ボクは『赤火』の詠唱を始める。
詠唱の為に口を開いた瞬間、十字路にいる方のスマイルが動きを見せた。
しかし、その動きがおかしい。
「……?」
ボクは詠唱することを忘れて、その光景に目を見張る。
スマイルは表情はそのまま、両手を首に添えた。
添えた、というより、首元を押さえるような感じだ。
それから一拍置いて、スマイルの頭がゆっくりと上に引っ張られるように持ち上がっていった。
それと同時に、全身も上へ引っ張られ、ついにはスマイルの足が床から離れる。
首元を押さえたまま、足をばたつかせるスマイル。
もうスマイルの大きな双眸はボクを捉えてはいなかった。
表情は笑みのままだが、目は大きく宙を泳いでいる。
今のスマイルの状態は、まるで首吊りをしているようだった。
突然起きた異変に、ボクが呆然とその様子を眺めていると、不意に目の前が暗く陰った。
薄く透けた黒い幕を掛けられた、そんな感じだ。
「なっ――っ!?」
驚きの声を上げようとした途端、背後からビシィという衝撃音が響いてきた。
慌てて後ろを振り返れば、2体目のスマイルがすぐそばまで近寄ってきて、ボクに細い腕を振り下ろしているところだった。
だが、その腕はボクの50cm程先で止まっている。
目を凝らせば、薄い半透明の黒い膜が、ボクの周囲にドーム状に張られているのが見て取れた。
技術『ドーム』。
対象部を名の通りドーム状の防御膜で包む技術。
目の前が暗く陰ったのはこのせいだ。
当然、ボクが行使した技術ではない。
(誰が――)
ボクのそんな思いをよそに、目の前のスマイルは手を振り上げ、ボクに向かって振り下ろす。
しかし、その攻撃は黒い防御膜に遮られ、止まる。
その様子を見て我に返り、ボクは魔法の詠唱を始めた。
『四元の一角、火よ! 灯れ!』
『赤火』の詠唱が完了し、発動。
生まれた赤火は、再度手を振り上げたスマイルの大きな顔を包み込む。
両手で顔を覆うスマイル。
最低位の攻撃魔法だが、スマイルを後退させるには充分な効果があった。
そこへ、ボクは別の魔法『切気』を放つ。
『孤描く一重の風、奔れ! 百禍を切り裂き、尚、奔れ!!』
ボクの前方に、緑色をして弧状の風の刃が生まれた。
狙いはスマイルの首。
緑風刃は、ボクの意思に呼応して、宙を走る。
ゴゥと音を立て、緑風刃は狙い通り、スマイルの首に命中。
顔を押さえていた両手ごと、見事スマイルの首を刎ね飛ばした。
鮮血を噴き出し、ドサリと崩れ落ちるスマイルの体。
噴き出した鮮血は黒い防御膜に遮られ、ボクの体に掛かることはなかった。
鮮血が黒い防御膜を滴り落ちると、膜が消え、正常な視界が戻ってくる。
「はぁ……」
スマイルを打倒し、ボクは大きく一息吐いた。
そこへ、後方から声が響いた。
「そっちは済んだみたいだね」
「!!」
聞こえた声に、慌てて後ろを振り返る。
そこには、天井の辺りまで体を吊り上げられ、もはや身動き一つしなくなったスマイルと、その後方で鞭を構えるハーゲンの姿があった。
「ハーゲン!?」
ボクの呼び掛けに、ハーゲンは相変わらずの無表情でうなずいて応えた。
ハーゲン以外に誰も見当たらないことから、『ドーム』でボクを守ってくれたのはハーゲンらしい。
「待ってて、こっちもすぐに済むから」
言うと、ハーゲンは手元の鞭に力を込める風を見せた。
ボクは目を凝らす。
どうやら、ハーゲンの鞭が黒い光を帯び、そこから伸びた黒い光が天井に向かって伸びているようだった。
黒い光の先を追うと、天井付近に黒い滑車らしき物が見える。
鞭から伸びた黒い光はそこを一周し、スマイルの首に絡み付いていた。
先程ボクが感じた通り、スマイルは首を吊られていたのだ。
ハーゲンの鞭と、天井にある黒い滑車によって。
鞭が黒い光を帯びていることとそれが伸びていること、天井の場違いな滑車から察するに、ハーゲンは何らかの技法を行使しているのだろう。
「っ!!」
ハーゲンが鞭に力を込め、息を吐く。
すると、ブツンという音が聞こえそうな光景が目の前で起きた。
ドサ、ゴト、という音が連続で通路に響き、スマイルは床に落ちた。
首と胴が離れた状態で。
「無事だったんだね」
何事もなかったかのように語り掛けてくるハーゲン。
見れば、鞭の黒い光も、天井の黒い滑車も消えていた。
「一応、無事だよ。
そっちも……無事みたいだね」
スマイルの死骸をまたいでこちらに向かってくるハーゲンに向かってボクは言う。
「悲鳴が聞こえたから追ってきたんだ。
そうしたら君がいた。
危ないところだったみたいだね」
「うん……あ、助けてくれてありがとう」
『ドーム』で守ってくれたことと追ってきていたスマイルを仕留めてくれたことの礼を言うと、ハーゲンは後ろの床に転がっているスマイルの死骸に目を向けて、
「目障りだったからね。
僕はこいつ等嫌いなんだよ。
見た目に気持ち悪いから」
そう言って、手にしていた鞭を丸め、腰に吊るした。
そして、腰の革袋から白い封魔晶を取り出すと、一拍のち、その直上に白い光球が生まれた。
そういえば、スマイルと戦っている最中も、ハーゲンは光源を持っていなかった。
「……今までずっと真っ暗で行動してたの?」
問い掛けるとハーゲンは首を横に振り、
「封魔晶持ってると片手が不自由になるからね、今までは『心眼』の魔法を使ってた。
どのみち1人だったから、それで不便があるわけでもなかったし」
そう答えた。
『心眼』は、簡単に言えば、どんなに視界が効かない状況でも通常通りの視界を保持できる魔法だ。
言われれば、たしかにこの状況で1人で行動するなら、『暁光』以上にうってつけの魔法と言える。
と、半ば感心したところで、ボクは2人分の光源で照らし出されたハーゲンの体に異常を見止めた。
身に付けているクロースアーマーの脇腹の辺りが破れており、そこからハーゲンの銀色の体毛が覗いていた。
クロースアーマーの破れた部分の周りは、まだ乾ききっていない血で汚れている。
「ハーゲン、それ!?」
驚きに声をあげ、ボクがその部分を指さすと、ハーゲンはそちらに目をやり、
「ああ、これ?
ガーディアンと戦った時にね」
とだけ答えた。
「大丈夫なの?」
「もう治したから」
ハーゲンの答えを聞いて思わず顔を近づけて見ると、たしかにクロースアーマーの破れ目から覗くハーゲンの体には傷はなく、銀色の体毛も血糊で汚れてはいない。
「とりあえずここから離れない?」
傷のあった場所をまじまじと見ていると、ハーゲンがそう提案してきた。
「あ、うん」
ボクは顔をあげ、少し気の抜けた声で答える。
ハーゲンはそれを聞くと、踵を返して歩き出し、ボクもそのあとをついていった。
追いついても横に並ばず、少し後ろに控えるようにしてあとをついていくと、ハーゲンはこちらを見ずに話し始めた。
「この階はだいたい探索したと思う。
一応、宝も見つけたし、開いてたゲートも閉じた」
「ゲート? やっぱり開いてたの?」
「うん。 宝を見つけた部屋でね。
この階を探索してる時に、今のスマイル2体の他にミノタウロスにしか遭ってないから、開いてまだ2・3ヶ月くらいしかたってないんじゃないかな?」
「あ、ボクもこの階で遭ったよ。
ミノタウロスが2体にケンタウロスにストマック」
「……よく切り抜けられたね」
ハーゲンが足を止め、振り向いて少し目を見開いて言った。
「うん、けどボクが戦って倒したわけじゃなくて、ボクを追ってきてた竜のオブジェが倒したんだけどね。
ボクはその竜のオブジェを倒しただけ」
それを言うと、さらにハーゲンは目を見開いた。
「竜のオブジェ?
それは2mくらいある奴?」
「そう、2mくらいの。
1mくらいのも4体いたけど、そっちは倒したよ」
「1mくらいの……ああ、あの脇の部屋にあったオブジェがそうか。
それを倒した? 君が?」
「うん、封魔晶の力でだけど。
1mのはそれで全滅できたし、2mのにもダメージを与えてたから、ボクはとどめだけ刺した感じかな?」
「……追ってきたってことは、遺跡内で戦ったってこと?」
「そう。 『ブレス』とか吐かれてすごい危なかったけどね」
「……よく遺跡が無事だったね」
「あ、けど、竜のオブジェは力を抑えるみたいなこと言ってたよ」
「力を? ……ああ、遺跡を壊さないようにする為か。
なるほど、納得。
さすがに、今の君のレベルであのガーディアンとまともに戦って倒すのは無理だからね。
言ってなかったけど、君が戦った竜のオブジェはこの遺跡のガーディアンだよ」
「うん、そうだと思ってたけど……あのガーディアンって、そんなに強かったの?」
「そこまで強くはなかったけど、少し油断して様子を見てたらこうなった。
僕が戦ったのも2mくらいの竜のオブジェだったね。
たぶん、君が戦ったのと同じ物だと思う。
僕は遺跡内じゃなくて、遺跡の罠で別の場所に飛ばされて戦ったんだけど、ガーディアンの強さはレベルにすれば80以上はあったと思う」
「80!?」
驚いて声を上げるボクに、ハーゲンはうなずいて答えた。
それはたしかにボクでは勝てるはずもない。
ボクの前にガーディアンのいる部屋に入ったミノタウロスは、ハーゲン同様に別の場所に飛ばされて、そこでガーディアンに倒されたのだろう。
部屋の罠――床に描かれていた魔陣――を『積雨』で壊しておいたのは大正解だったというわけか。
(もし、ボクも罠に掛かってたら……)
そう考えると、身も竦む思いだった。
ボクの想像をよそに、ハーゲンが言葉を続ける。
「けど、驚いた。
いくらガーディアンが力を抑えていたにしても、すごいことだよ。
封魔晶の力を借りたことを差し引いても、ね
無事なのが不思議なくらいだ」
「そう……かな?」
「うん」
ボクの確認するような問い掛けに、ハーゲンはうなずいて答える。
過大評価な気がしなくもないが、ボクはハーゲンからの評価が素直に嬉しかった。
話は続く。
「あのさ、ガーディアンと最初に遭った時、ガーディアンが言ったんだ。
この階には生物が3体いるって」
「3体? ということは、僕達の他にもう1人いるってことかい?」
「そうだと思う。
でも、さっきガーディアンが改めて言った時には2体に減ってた……」
ボクの言わんとしていることを察したのか、ハーゲンが考え込むように沈黙する。
「…………僕がこの階を探索している間は、誰にも会わなかった。
ミノタウロスが1体と2mのガーディアンが1体だけ」
「……じゃあ、もしかしたら……」
ボクが言いさして沈黙すると、ハーゲンは少し首を傾げて考え、
「それはないと思う」
と、答えた。
逆に首を傾げ、ボクは問い返す。
「……どうして?」
「この遺跡で危ないのはガーディアンとマテリア、あと罠の3つだけど、ルータスとモルドは、ガーディアンならともかく、この階を徘徊してる程度のマテリアにやられる程やわじゃないよ。
そのガーディアンもたぶんもうこの階にはいないと思う。
僕と君が倒したからね。
ガーディアンっていうのは、もともとそんなに数がいるものじゃないし。
罠は、僕がこの階を探索した限りだと宝の部屋にあっただけで、通路には見当たらなかった。
だから、罠に掛かる可能性もほとんどない。
そうなると、危険なのはマテリアだけになるけど、アーサーはレベルから考えると、マテリアに倒されるとは思えない。
問題はシーザーだけど……彼、どの程度戦えるの?」
「レベルは――」
「言い方が悪かったね。
レベルじゃなくて、どれくらいマテリアと戦ってきた?」
「……それなりに戦ってるんじゃないかな?
基準が分からないから何とも言えないけど、少なくともボクよりは戦い方がうまいと思うよ。
ボクが一対一で戦ったら、まず勝てないんじゃないかな」
「うん、なら平気だと思う。
彼より戦い慣れてない君が、今こうして無事なんだから」
「それは……そうかもしれないけど……」
ハーゲンの言いたいことは伝わってきたが、それでも不安が残り言いよどむボク。
すると、ハーゲンは重ねて尋ねてくる。
「彼、封魔晶はどれくらい持ってる?
特に、魔法力型の」
「結構持たせたよ。
シーザー、魔法が使えないから。
攻撃用に回復、防御も。
魔法力型のも結構持ってるはず」
「その魔法力型の物は、威力とか高い?」
「うん、クーアが入れてくれた物だから。
ボクがガーディアンに使ったのもクーアが入れてくれた『焼切』ので、直撃させてれば一撃で倒せてたと思う」
「なら、なおさら大丈夫だと思うよ。
力を抑えてたとはいっても、あのガーディアンの装甲を一撃で壊せるだけの威力がある封魔晶があるなら、この階のマテリアごときに負けるはずがない。
……出会い頭で襲われた、とかないかぎりはね」
最後に嫌な言葉を付け加えて、ハーゲンは言葉を切った。
「…………」
ボクが何とも言えずに沈黙していると、ハーゲンは小さく息を吐き、
「そんなに心配なら、少しこの階を回ってみる?」
そう提案した。
「……うん」
少し間を置き、ボクはうなずいた。
ハーゲンの付けた矢印をあえて避けながら、探索することおよそ20分。
階層内すべてを探索したわけではないが、探索した場所にボクの危惧していたような状況には遭遇しなかった。
すなわち、誰かの血痕や、遺体。
まだ完全に安堵できるわけではないが、それでもこれだけ探して何の痕跡も見当たらないということは、その可能性は低いと言えるだろう。
「まだ探すかい?」
ボクが少し安心した風に息をつくと、それを見てとったハーゲンが立ち止まり、尋ねてきた。
ボクも立ち止まり、首を横に振って答える。
「ううん、いい。
これだけ探しても何もなかったし、たぶん大丈夫だと思う」
「そう。 ならそろそろ下に行こうか」
「下に? 上に戻るんじゃなくて?
ボク、下から上がってきたんだけど」
ボクはいぶかしんで聞き返す。
それは、てっきり上に戻っていくものだとばかり思っていたからだ。
実際、ボクは落とし穴で落ちた階からこの階に上がってきた。
ボクが上を目指した理由は、全員バラバラになったのだから、どこが最深部か分からない下を目指すよりも、出入り口が1つしかない上を目指す方が、皆と合流できる確率が高いと踏んだ為だ。
しかし、ハーゲンは首を横に振った。
「全員が地上を目指してれば、それでいいと思う。
出入り口は1つだけだったから、そこで全員合流できる。
だけど、ルータスとモルドは下を目指してると思う」
「何で分かるの?」
「ルータスはあの性格だから分かるだろう?」
「……ああ、うん、何となく」
言われて妙に納得してしまった。
たしかにルータスなら1人でも遺跡の最深部を目指しそうだ。
シーザーもそんな感じがする。
ボクが1人納得しているのに構わず、ハーゲンは言葉を続ける。
「モルドもルータスの性格をよく知ってるから、間違いなくそう思ってる。
ルータスがいなければ地上を目指してるだろうけどね。
それに、モルドは落とし穴に落ちてない。
アーサーもね」
「あ、やっぱりそう思う?」
言われて、ボクは聞き返した。
これはボクも思ったことだったが、ハーゲンも同様の意見らしい。
ハーゲンは1つうなずくと、
「落ちる時に姿が確認できなかったし、声も聞こえなかったからね。
まず間違いなくあの場所に残ってる。
だとしたら、あのままあの場所にいるとは思えない。
僕達を探しに遺跡を下りてきてるはずだ。
今言ったように、ルータスが落とし穴に落ちたし、おまけに君もシーザーも落ちたから、モルドの性格から考えてそのまま地上に戻るってことはないよ」
「たぶん、アーサーもそう考えると思う」
「ならなおさらだ。
あの場所に残ったモルドとアーサーは揃って下に向かってくる。
ルータスも当然そうする。
シーザーは分からないけど、何となく彼からはルータスと同じ匂いがするから、彼も下に向かうんじゃないかな?」
「……うん、たぶん」
「だったら、僕達が地上を目指すわけにはいかないよ。
地上からここまでの道が一本道ならいいけど、ここはそうじゃない、迷路だ。
途中ですれ違ったら、いつまで経っても会えないし、その可能性が高い。
階段の所で待ってれば、誰かと合流できるかもしれないけど、ルータスやシーザーが僕達より上の階にいるとは限らないし、1つの階に下りる階段が1つだけとは限らないしね。
けど、最深部に向かえば、そこで会える可能性は高い。
『古竜種』の宝物殿の最深部は1つだけっていうのが定石だから、下を目指せば最終的には皆そこに辿り着く。
問題はそこまで辿り着けるかだけど、こればかりは僕達にはどうしようもないから、個人の能力を当てにするしかないね」
「そう……だね」
言われて、ボクはあいまいに答えを返す。
アーサーはともかく、シーザーは心配だ。
マテリアならまだしも、罠関連が特に。
そんなボクの心配を見透かしたかのように、ハーゲンが言葉を継ぐ。
「僕達が心配しても仕方がないってことだよ。
それでどうにかなるわけでもないんだから。
それなら僕達はさっさと最深部を目指して、そこで待つべきだと思う」
「……うん」
ハーゲンの言葉で心配が消えたわけではないが、実際問題、ボクが心配したところで事態が好転するわけでもない。
加えて、最深部を目指す理由を説いたハーゲンの言葉を否定して、地上を目指すという理由も見当たらない。
ボクは小さく深呼吸をすると、いなおるように姿勢を正し、
「それなら……下に行こう」
そうハーゲンに告げた。
ハーゲンはうなずいて応える。
「下から来たって言ってたけど、階段の場所は覚えてる?」
「あ……ゴメン、覚えてない……」
ハーゲンの問い掛けに、ボクは声小さく答えた。
ボクの恥じ入るような声を聞き、ハーゲンは首を横に振る。
「気にしなくていいよ。
覚えてたら探す手間が省けると思っただけだから。
そういう僕も下に行く階段は見つけてたんだけどね、マッピングしながら歩いてたわけじゃないから、具体的な場所は忘れてしまったんだ。
だから似たようなものさ。
マッピングツールを持ってこなかったのは失敗だったな。
まさかここまで面倒な造りの遺跡だとは思ってなかったから。
でも、印を辿ればそのうち着くし、危険もない。
少し時間を掛ければ辿り着くはずさ」
歩みを再開させながらハーゲンは言った。
遺跡探索に関しては、ボクは門外漢に近いので口は挟まない。
ただハーゲンの後ろをついていくだけだ。
そうしてハーゲンの後ろを歩きながら、ボクはふと思い出した、手に入れた宝のことを尋ねてみる。
「そういえばさ、ガーディアンがいた部屋に宝があったんだけど……」
言いながら、ボクは封魔晶の入った革袋から丸めた3枚の紙を取り出した。
肩越しにこちらを見ていたハーゲンが、ボクが取り出した紙を見て足を止める。
「……グリモアだね」
「グリモア?」
おうむ返しに問い返すボクにハーゲンはうなずいて見せた。
「魔法や魔術の『知識』が封じられてる特殊な紙のことだよ。
グリモアに封じられた魔法・魔術の資質がある者、そのうえでそれを行使できるだけの力量があれば、そこに描かれた『もの』を見ることができる。
言い換えれば使うことができるってことだね。
で、使えば労力なしに魔法・魔術を覚えることができるんだ。
……このグリモアは使われた後だね」
言いながら、ハーゲンはボクが手にしている3枚の紙の内、黒紙の1枚を指さした。
「……ああ、たぶん、ボクがさっき使っちゃったんだと思う。
色んな『音』が頭に流れてきたから」
「なるほどね。 どんな魔法が入ってた?」
「魔術だけど、『四塵の抱擁』」
「ふ〜ん……」
ボクの答えを聞くと、ハーゲンは視線を白紙の2枚に移した。
「…………残りの2枚も魔術だね」
しばらくして、品定めするように2枚の白紙を見つめていたハーゲンが呟いた。
「『燔滅の小径』と『死水の隘路』、そういう名前の魔術だよ。
攻撃用の魔術としては中の中くらいのものかな」
「へぇ〜……あ、そういえばハーゲンも宝を見つけたんだよね?」
思い出してボクが尋ねると、ハーゲンは答える代りに腰の革袋から移蔵石を取り出し、中身を出した。
出てきたのは1袋の革袋で、中に入っていたのは3枚のグリモアだった。
2枚は白紙、1枚は何かが描かれていた。
その何かがいったい何を示しているのか、ボクにはすぐに分かった。
それは先程ボクが使ったグリモアに描かれていたものと同じ、『四塵の抱擁』だった。
あの時はすぐに分からなかった描かれている『もの』の正体が今はすぐに分かるということは、おそらく『四塵の抱擁』を行使できるようになったということが関係しているのだろう。
そう考えると、
「思ったんだけどさ、ひょっとしてハーゲン、ボクが見つけたグリモアに封じられた魔術、使えるの?」
ということに思い至る。
ボクの問い掛けに、ハーゲンはうなずき、グリモアをしまいながら答える。
「使えるよ、一応ね。
僕が見つけた、この『四塵の抱擁』も『風食の大路』も『埋骨の坑道』も、ね。
でも、あまり使わないね、魔術は。
どちらかというとこっちの方がメインだから」
と、腰に掛けた鞭に手をやった。
そして、歩みを再開させながらボクに向かって尋ねてくる。
「君は武器は持ってないのかい?」
「うん、ボクは魔法ばっかり……かな」
咎めているような言葉でも口調でもなかったが、何とはなしにそれに近いものを感じてしまい、言葉を濁すボク。
すると、案の定、
「武器は何かしら持っておいた方がいいよ。
いくら魔法が得意でも、使う間もなくやられてしまったらそれまでだからね。
護身用にでも持っておけば、咄嗟の時に役に立つ」
やはり咎めるような類のものではなかったが、アドバイスを受けてしまった。
ミノタウロスと対峙した時にそれを痛感させられたボクは、
「うん、今度からそうするよ」
と、自分に言い聞かせるように答えた。
ボクの自戒気味の返事を最後に、沈黙が降りる。
それからしばらくの間、沈黙したままハーゲンとボクは前後に連なって歩いた。
5分程歩いた頃だろうか、比較的長い直線の通路の途中で、不意にハーゲンが立ち止まった。
目の前で足を止めたハーゲンにぶつからないよう、ボクも立ち止まる。
『どうしたの』、そう聞こうとした時、ハーゲンが左手を上げてボクを制した。
耳がピクリと動き、右手は腰の鞭に伸びていた。
(マテリア……!)
ハーゲンの動きから、即座にボクはそう判断した。
ガーディアンの分析が正しければ、まだこの階層には1体のマテリアがいるはずだ。
油断なく腰に掛けた鞭を取ったハーゲンの動きを見て、ボクも身構える。
「マテリア……じゃないね」
「え?」
ハーゲンの発した言葉に、ボクは眉根をひそめた。
(マテリアじゃない? じゃあ何が…………っ!)
「あっ!」
思い当たる節があって、思わずボクは声を上げていた。
ハーゲンがこちらを振り向く。
「リムだよ、きっと!
ガーディアンが言ってたんだ。
『起動中のリム4』って。
たぶんそれだよ!」
「リム……あの1mくらいのオブジェか」
「うん。 あれもガーディアンなの?」
尋ねるとハーゲンは首を横に振る。
「あれはただの防衛機構のはずだよ。
ガーディアンっていうのは、その遺跡のマスターブレインと直接つながってる奴だけで――!」
「っ!」
ハーゲンが説明をしている途中で、通路の前方に20m程の所にリムが現れた。
ホバリングしているリムの数は4体。
リムはボク達を見止めると編隊を組み、こちらに向かって飛んでくる気配を見せる。
と、同時に、
「下がって」
ハーゲンがボクに指示を出した。
ハーゲンにしては強い口調のその指示に、ボクは気圧されるようにして1歩下がる。
そのボクの動きを合図にするかのように、リムがこちらに向かって飛来した。
それと同じくして、右手に鞭を下げたハーゲンは、鞭を床に垂らすと、手首のスナップを利かせて鞭を前後に振り始めた。
直後、するすると揺れる鞭身に黒い光が灯ったかと思うと、ハーゲンは勢いよく鞭を前方に向かって振るった。
風切り音が聞こえると思いきや、聞こえてきたのはブゥンという蜂の羽音のような低い音。
それは鞭身に灯った黒い光の帯が放たれ、宙を走る音だった。
黒い光帯は5〜6m先にまで迫ったリムの編隊に向かってうねりながら進み、一番近くのリムの広げた翼を貫いた。
貫かれたリムの翼は砕け、散らばる。
リムの翼を貫いた黒い光帯は消えることも衰えることもなく、そのまま後ろのリムの翼に向かって走る。
黒い光帯は後方にいたリム達の翼をうねりながら次々に貫き砕き、また幾度も翼のみを執拗に攻撃し続けた。
そして、ついにはリム達の翼は粉々に打ち砕かれ、リム達はこぞって床に落ちることとなった。
すべてのリムが床に落ちると、黒い光帯はとどめを刺すようにリムの1体に衝突し、パンという小気味良い音を残して破裂、消滅した。
衝突されたリムは、それきり動かなくなる。
次いで、残り3体のリム達を追撃しようとハーゲンが動きを見せるが、リム達も動きを見せた。
3体共に、こちらに向かって口を開き、その内部に光が灯る。
(『ブレス』!?)
これまでに幾度も目にしてきたブレスの脅威の再来に、ボクは身を硬くする。
しかし、目の前に立つハーゲンは動揺する風もなく、鞭を前方に差し出し、クルクルと回し始めた。
「ハーゲン、『ブレス』がっ!」
ボクは悲鳴に近い声でハーゲンに危険を知らせるが、ハーゲンは左手を上げてボクを制しただけだった。
だが、ふと前方に目を向けると、ハーゲンの回す鞭の動きに合わせ、その同心円上に薄く黒い半透明の膜が生まれていることに気付いた。
何らかの防御技法かと思うや否や、リム達の口が一際強く輝く。
刹那ののち、3体のリムの口から『ブレス』が放たれた。
「!!」
反射的に顔を両腕で覆うボク。
しかし、『ブレス』の衝撃は微塵も襲ってはこなかった。
顔を上げて見れば、ハーゲンの鞭が生み出した黒い円形の半透明の膜に3つの白い光弾がぶつかり、止まっていた。
やはりハーゲンの生み出した円形の膜は、防御技法の一種だったらしい。
見事に『ブレス』を防いだハーゲンは、回していた鞭を引き寄せて1歩後退すると、光弾を遮っている円形の膜の中心部を鞭の先端で打ち据える。
すると、銅鑼を打つような反響音が通路に響くと共に円形の膜が振動し、同時に膜で止まっていた光弾がすべて、リム達に向かって跳ね返された。
跳ね返された光弾は、一分の狂いもなくリム達の口目掛けて飛び戻り、リム達の頭を粉々に撃ち砕いた。
そのまま動かなくなる3体のリム。
そのことを確認し、さらに円形の膜が消えたことを見届けると、
「終わりだね」
何の労苦も感じさせない、いつも通りの平坦な口調でハーゲンが戦いの終わりを告げた。
「…………」
リム達との遭遇からまだ1分と経っていない。
余裕があったのかどうかは分からないが、まったくの無傷の、それも短時間での勝利に、ボクは口を半開きにして呆気にとられていた。
「じゃあ、先に進もうか」
鞭を丸めて腰に収めてハーゲンがうながす。
「う、うん」
先を歩き始めたハーゲンの背に、ボクは気の抜けた返事をした。
10分後、ボク達は下へと伸びる階段へと辿り着いた。
先にハーゲンが言った通り、ハーゲンも階段の前までは来ていたようで、ボクがこの階段を上がってきた時には気付かなかったが、証拠となる星夜苔による矢印が階段前の床に記されていた。
もしかしたらボクが上がってきたあとにハーゲンがここに来たのかもしれないが。
ともあれ、無事に目的地に辿り着いた。
あとはここを下り、さらに最深部を目指すだけだ。
階段は長く、薄暗い。
ボク達の持つ明かりでも、階段内部にむした星夜苔の明かりでも、下の階の様子はうかがえない。
この階段を上がってくる時にもそうだったし、これまで歩いてきた通路もそうだったが、先の見通せない暗闇の道というのは不安を掻き立てる。
まして、それが1人きりという状況ならばなおさらだ。
しかし、今は隣にハーゲンがいる。
これは非常に心強かった。
目の前に広がる薄暗闇の階段にも、さほどの不安は感じないし、それは再会してからここに至るまでに歩いてきた通路も同様だった。
「行こう」
並んで階段を覗き込んでいたハーゲンがうながす。
「うん、行こう」
ボクは力強くうなずいて答えた。