「本当にごめんな」

リビングの入り口に立って、クーアが謝る。

謝られているのは、ボクとシーザーとアーサーの3人。

とりわけ、謝罪の言葉はシーザーに向けられていた。

「…………」

シーザーはソファに不機嫌に体を沈ませ、クーアの方を見ようともしない。

クーアは困惑したように苦笑いしながら、壁の時計をチラリと確認すると、

「それじゃ、行ってくる」

とだけ告げ、リビングから出ていってしまった。

始原祭最終日の3日目。

本来なら今日はクーアは休みのはずなのだが、今日警備にあたるはずのZクラスのレンジャーが2人、急遽他世界の大事の解決に赴くことになってしまい、その穴埋めとしてクーアが招集されることになってしまった。

それだけならまだクーアは断るつもりでいたのだが、昨日の夜、クォント内部で不審者が捕えられ、それがカオス側の人間だったせいもあり、警備をより厳重にという元老院と各国代表からの強い要請があった為に断ることができなくなってしまった。

そのうえ、カオス側の勢力と小競り合いを続けていた紛争地帯の戦闘が2ヶ所で激化し、Mクラスを数人含む上位レンジャーが数十人規模で出向かなくてはならなくなってしまい、その中には警備を担当していた者が多数含まれていた為、断ることなどできようはずもなかった。

そう説明され、ボクとアーサーは仕方がないと納得したのだが、シーザーだけは納得できなかったようで、

「……ねぇ、仕方ないじゃん」

ボクの呼び掛けにもまったく無反応で、すっかりふてくされてしまったようだ。

「紅茶、入れますね」

重苦しい空気から逃げるように、アーサーが紅茶を入れにキッチンに向かった。

それを見送りながら、ボクはシーザーを見やって、聞えよがしに大きくため息をついた。

当然のことながら、大人陣は全員警備の仕事に出向いていて誰もいない。

的確なフォローや場を和ませてくれる人物がいないので、場の空気は重くなる一方だ。

所在のないボクは、とりあえずテレビのリモコンを手に取ってテレビをつける。

放送しているのは、始原祭に合わせた特番で、番組内では出演者達が盛り上がっていた。

特に気を引くような番組でもなく、チャンネルを変え、そうして次の番組でも気を引かれないと、さらにチャンネルを変える。

そんなことを何度も繰り返し、気が付けばすべての局を一周していた。

仕方なく最初の番組に戻った所でリモコンを放って、ソファに深く座り込んだ。

ちょうどその時、アーサーが紅茶をトレイに乗せて運んできた。

数は3つ。

シーザーの分もしっかり用意している。

アーサーは3人分の紅茶をそれぞれの前に置き、ソファに腰掛け、テレビを見始めた。

シーザーは置かれた紅茶に目もくれず、ふてくされたまま動こうともしない。

ちょっかいを掛けて気を引いてもいいのだが、たぶん今それをすると後々まで後を引きそうな気がするのでやめておくことにした。

しかし、機嫌の悪い人間がすぐ真横にいると、こちらまで気分が悪くなってくる。

そういった腹立だしさを視線に込めてシーザーを見ていると、アーサーがこっそりと耳打ちしてきた。

「そっとしておいた方がいいですよ」

ボクにようやく聞こえるくらいの小さな声で言って、アーサーは紅茶の味を整え始める。

たしかにその通りだと思い、ボクもアーサー同様にシュガーポットに手を伸ばした。

 

 

時間は12時を過ぎた頃。

ボクは外出用の服に着替え、玄関で靴を履いていた。

「よし、じゃあ、行ってくるね」

立ち上がって振り返り、後ろに立っていたアーサーに向かってボクが言う。

「いってらっしゃい。

 気を付けてくださいね」

アーサーは手を振りながら答えた。

シーザーは未だにふてくされたままでリビングにいるので姿は見えない。

いい加減しつこいので、クーアが帰ってくるまでそのままにしておくことにした。

「うん。 あ〜、シーザーのこと、ちょっとよろしくね」

一応、アーサーにそう言って、ボクは玄関から外に出た。

玄関内と外の気温にさほど差はないが、開けた場所に出たせいもあって、印象的に寒く感じる。

ボクは肩をすぼめてジャケットの襟を首元まで上げ、歩き出す。

向かう先はクォントの街。

行き先は特に決まっていないが、とりあえず適当に歩いてみようかなどと思っている。

アーサーも誘ったのだが、今日は部屋でゆっくりしているとのことで、やんわりと断られてしまった。

シーザーはあの調子なので誘ってもいない。

(ま、1人なら迷子になることもないよね)

心の中でひとりごちて、街へと向かう。

実際、トランスポーターさえ見つけられればここへと戻ってくることは容易だ。

よほどの僻地へと行かなければ問題はないだろう。

そんなことを考えつつ、あっという間にクォント門前の大広場に着き、人混みに流されながら街の中心部へと向かって進んでいく。

露店で買い食いをしながら街をあてどなく散策することしばし。

街路の時計を見れば、時間は2時を過ぎていた。

あれこれと見て回っているうちにかなりの時間が過ぎてしまっていたようだ。

程良く疲れてきたところで、近くの露店でジュースを買い、少し離れた場所にあった通り脇の小さな公園のベンチで一休み。

座っているベンチは通りから程近く、人の行き交う様がよく見える。

ジュースを飲みながらくつろぎ、人混みから離れた場所から人の流れを観察していると、見知った顔が横切った。

「! ハーゲン!」

ボクが思わず声を上げて呼び掛けると、呼び掛けられた人物が立ち止まってこちらを見た。

「やあ」

相変わらず無表情のまま、声を掛けながらハーゲンがこちらに近づいてくる。

「1人かい?

 それともまたはぐれた?」

間近に立ち、ハーゲンが尋ねてくる。

ボクは苦笑いを浮かべながら、

「今日は1人だよ」

と、答え、腰を少し浮かせて、ベンチにハーゲンの座れるスペースを作った。

ハーゲンが空いたスペースに腰掛けると、今度はボクが尋ねた。

「そっちこそ今日は1人?

 ルータスとモルドは?」

「2人はどこかに出掛けたよ。

 僕は1人で散歩ってところかな。

 宿で1人でいても仕方ないし」

「そうなんだ…………あ、ねぇ――」

ボクがあることを思いついて告げようとしたのを、

「一緒に散歩するかい?」

ハーゲンは先読みしたように提案してきた。

「うん!」

もちろんそう提案するつもりだったので、ボクに断る理由は何もなかった。

 

 

「ああ! 入らなかった……」

結果を見てボクは落胆した。

ハーゲンと一緒に立ち寄った露店の輪投げ屋。

床に突き立った棒に輪を投げて通すという文字通りの遊びで、1ゲームにつき3回まで輪を投げられたのだが、そのすべてが失敗してしまった。

「残念だったな、坊主」

言って、残念賞の飴玉をくれたのは人族の露店の店主。

受け取ったボクは、飴玉を包み紙から出して口に放り込んだ。

「じゃあ、次は僕がやるよ」

落胆するボクの肩に手を置き、横で見物していたハーゲンが進み出た。

店主に料金を渡し、3つの輪を受け取る。

「どれが欲しい?」

輪を構えてハーゲンがボクに尋ねる。

離れた場所に突き立った的となる棒の本数は18。

それぞれに数字が割り振られ、景品は輪の入った数字に対応した景品群から1つを選べる仕組みになっている。

ボクが狙っていたのは15番の棒で、1番手前の真ん中付近の棒だ。

狙った理由は、入りやすそうで、景品の中に近くの露店で売っている物よりも大きな袋入り綿菓子が含まれていたから。

ハーゲンと2人で食べようと思っていたのだが、それはかなわなかった。

なので、

「15番がいいな」

と、ボクはハーゲンに告げた。

「15番だね」

輪を構えたまま、ハーゲンは返し、一呼吸置いて輪を放った。

輪は回転しながら放物線を描き、吸い込まれるように15番の棒を通って床に落ちた。

「入った!」

1投目での成功に、ボクは驚きの声を上げる。

対して、ハーゲンはいたって平静に、

「次はどれ?」

と、次の目標をボクに促した。

その様子は、まるで取ることを当然としているかのようだった。

「え〜と、それじゃあ……」

頼もしいその様に、ボクは遠慮なく景品を物色し始めた。

 

 

「ありがとうね」

公園のベンチで、輪投げで手に入れた綿菓子をつまみながら、隣に座ったハーゲンに言う。

「どういたしまして」

ボクの抱える綿菓子を横から手を出してつまみ、ハーゲンが答えた。

そうして少し沈黙して、ふと思い出したようにハーゲンが口を開いた。

「そういえば、謝らなきゃいけないね」

「?」

突然そう言われ、ボクは謝られる理由を思い出そうとする。

しかし、謝られる理由が思いつかない。

「何のこと?」

理由が分からないので、ボクは素直にハーゲンに尋ねた。

「一昨日のこと。

 ルータスが狐君、泣かせただろ?」

「ああ……」

ハーゲンの説明に、思い出して声を上げるボク。

正確にはシーザーは涙目止まりだったと思うが、たしかに一悶着があった。

「ルータスの代わりに謝っておくよ。

 狐君に伝えておいて。

 あのあと、大変だったんじゃない?」

「うん、まぁちょっとね。

 でも、今はケロッとしてるし…………」

言って、ボクは今日のシーザーの様子を思い出した。

今頃もきっとブスッとしているだろう。

とはいえ、それはこの件とは関係ないのだが。

「どうかした?」

「あ、ううん、何でもないよ」

いぶかしんで尋ねてくるハーゲンに、慌てて言い訳しながらボクは続ける。

「仕方ないよ、ボクとシーザーが皆に比べて弱いのは事実だからね。

 シーザーもその辺りはちゃんと理解してるし。

 ただ、ああいう性格だから、ああやって言われるとどうしても頭にきちゃうみたい。

 だから、何て言うかな……『古竜種』の遺跡を探検する時はさ、あんまりルータスにそういうことを言わせないで欲しいんだ。

 そうすると、結構ギクシャクしちゃうだろうし、シーザー、暴走しちゃうからもしれないからさ」

それとなく忠告を含んだ提案に、ハーゲンは首を縦に振る。

「それはあるかもしれないね。

 ただ、僕からもよく言い聞かせておくけど、あいつはああいう性格だから聞くかどうかは微妙なところだね。

 でも、あれでもあいつは君達のことをそれなりに気に入ってるんだよ」

「え、そうなの?」

「うん。 気にもしない人間だったら端から視界に入れないから、あいつは。

 からかったりするってことは、それなりに気になってるからなんだ」

「へぇ〜」

相槌を打って綿菓子をつまむボク。

ルータスに気に入られているということが、にわかには信じられなかったが、毎日顔を突き合わせているハーゲンがそう言っているのだから間違いはないのだろう。

そう思って、ふと尋ねたい事柄が頭に浮かんだ。

「ねぇ、ハーゲンはルータスとモルドとはどれくらい前に知り合ったの?

 3人共、同じ孤児院で暮らしてるんでしょ?」

ボクが問うと、ハーゲンは少し考える風に遠くを見て、

「モルドが2年くらい、ルータスは1年半くらい前かな、孤児院に来たのは。

 僕の方が早くに孤児院にいたからね。

 もう、3年くらい前になるかな」

と、思い出しながら答えた。

「ふ〜ん、結構長いんだ」

「そう? そういう君達は?」

「ボク達?」

逆に尋ねられてボクは思い出す。

「え〜と、たしかボクが半年とちょっと前にクーアに会ったから…………シーザーは4ヶ月くらいで、アーサーは3ヶ月しないくらい前、だったかな?」

答えてボクは、ボク達3人が一緒になってからまだそれほど時間が経っていないのだと思った。

少なくともハーゲン達ほどには。

「そう、結構短いんだね」

ハーゲンもそう思ったらしく、率直に感想を口にした。

「うん、そうみたい」

素直に答えると、ハーゲンはボクの顔を覗き込むように見る。

「どうしたの?」

「まるで他人事みたいに言うんだね」

「……そう、かな?」

「……やっぱり君は面白い」

言って、ハーゲンはボクの抱える綿菓子の袋から綿菓子をつまんだ。

「…………」

ハーゲンの感想に、ボクはどういう反応をしていいのか分からず、ハーゲンが綿菓子を食べるのを黙って見ていた。

 

 

「もう夕方だね」

茜色に染まり始めた空を見上げてボクが呟いた。

隣では同様にハーゲンが空を見上げている。

ハーゲンと一緒に遊び始めてから2時間と少し。

トランスポーターを渡り歩き、共に街を見て回っているうちに、人通りも少ない通りに辿り着いていた。

周囲を見回してみれば、この辺りは住宅地になっているらしく、とても静かだった。

前方にはクォントの町の外周を取り囲む城壁が見え、振り返ればクォントそのものがかなり小さく見えたので、ここが中心街からはかなり離れた、町の郊外に当たる場所なのだと分かる。

とはいえ、トランスポーターの場所さえ覚えていれば、そのほとんどはクォントへ通じているので比較的楽に帰れる。

もう少し遊んでいても問題はないだろうか。

そんなことを思いつつ辺りを見回していると、不意にハーゲンの肩がピクリと動いた。

同時に、頭を動かさず、視線と耳が周囲を探るように動く。

表情はいつも通りだったが、その仕種や雰囲気から、周囲を警戒していることがありありとうかがわれた。

いつかどこかで見たハーゲンの様子に、ボクは緊張する。

「どうしたの?」

「見られてる」

ボクの問いに、ハーゲンは小さな声で簡潔に答えた。

そうしてボクは、数日前、ハーゲンと街を歩いていた時に数人の男に襲われたことが脳裏をよぎった。

あの時は事なきを得たのだが、

「逃げた方がよさそうだ。

 かなわない」

そう言ったハーゲンの言葉に、ボクは不安を煽られた。

「できれば人が多い場所の方がいい。

 トランスポーターでクォントまで戻った方がもっといいけど、難しいかな」

言うが早いか、ハーゲンはボクの手をつつき、来た道を戻り始めた。

慌ててボクはあとを追う。

横に並ぶと、ハーゲンは小さく言う。

「気付かないふりをした方がいい」

「うん……」

答えたものの、そう言われて自然体でいることは難しく、ボクは身を強張らせてハーゲンに寄り添うように歩く。

やがて、比較的人の往来のある通りまで辿り着いたのだが、ハーゲンはまだ警戒を緩める様子がない。

無言無表情で、しきりに周囲の様子を探っている。

それを受けて、ボクの不安感も薄れるどころか逆に高まっていった。

「もう少し人が多い場所に……」

呟いて、ハーゲンが周囲を軽く見回し、それにならってボクも不自然にならないように努めながら、周囲を見回す。

クルリと周囲の様子を見回し、元の位置に視線が戻った、その瞬間。

『!?』

突然、視界が揺れた。

同時に、腕と胴を力強く押さえ付けられる感触。

定まらない視界と痛みすら覚える感触に頭が混乱していると、唐突にそれらから解放された。

そして、刹那遅れて硬い物に当たる衝撃と痛み。

数拍おいて、硬い物が土の地面だと気付いた。

「っつ〜……」

肩と肘と尻を地面にしこたま打ちつけ、ボクが呻く。

視線を上げると、ハーゲンが目の前で片膝を地面について正面を見据えていた。

その視線の先を追うと、そこに2人の男が立っていた。

2人共に30代後半と思しき人族の男。

一方は髭をたくわえ、一方は髭がない。

どちらにも見覚えはない。

髭ありの男が口を開く。

「何だ、そっちの子供も連れてきたのか」

髭なしの男が答える。

「一応な。 万一目撃されてたら困るだろ」

何やら不穏な会話だ。

少なくとも2人の男は友好的には見えない。

「あんた達は?」

立ち上がったハーゲンが男達に尋ねる。

「レンジャーだ」

簡潔に答えたのは髭なしの男だった。

それきり男達は何も言わない。

ボクは立ち上がり、ハーゲンのそばに近寄った。

そして周囲を見回す。

周囲は木が点在しており、あまり密度の高くない林といった様子だった。

少し遠くに目をやると、東屋らしき建造物が見え、そうしてここがどこかの公園の林の中なのだろうと判断できた。

人の姿は見えない。

時間帯のせいかもしれないし、場所のせいなのかもしれない。

ここがどの辺りに位置しているのか分からないボクには判断のしようがなかった。

隣のハーゲンは男達を見据えて不動、男達は特にボク達を注視するわけでもなく、ただ佇んでいた。

そうして、しばらくの静寂。

「……そろそろか」

髭ありの男が呟いた。

何が、とボクが思うより早く、髭なしの男がボク達の後ろに視線を向けた。

「来たぞ」

その言葉に、ボクとハーゲンが振り返る。

髭なしの男の言葉通り、何者かがボク達の背後からやってくる。

どうやら複数人のようだ。

薄暗さと木立ちに阻まれて分かりづらかったが、近付いてくるにつれ、その姿が見覚えのある者達だと分かった。

それを察し、ハーゲンがため息をついた。

「二度ある事は三度ある、だね」

背後からやってきたのは、以前にハーゲンを襲った人族と馬獣人の男、彼等の用心棒としてボク達を襲ってきた虎獣人のレンジャーの男、そしてその取り巻きの男3人の計6人だった。

「いい加減しつこいね、あんた達も。

 そんなに僕を犯したいのかい?」

ハーゲンがうんざりした口調で言うと、人族の男が首を横に振った。

「そいつぁはもういい……今はただ、てめぇをぶっ殺してぇだけさ」

言った人族の男の顔には狂気じみた笑みが浮かび、とても正気とは思えなかった。

隣の馬獣人の男も同様らしく、目を見開いて首を縦に振っている。

虎獣人のレンジャーとその取り巻き2人は冷静そうに見えたが、この場に居合わせているということは、内心穏やかではないのだろう。

「ヒッヒヒッ、てめぇはもう終いだよ……」

馬獣人が笑みに顔をひきつらせ、血走った目を大きく開いて呟いた。

「狂気の沙汰、だな」

そう言ったのは、髭なしの男。

「ま、こっちとしては依頼料をもらえりゃ文句はねぇがな」

これは髭ありの男。

2人共、ボク達の後ろの男達の状態をさして気にしている様子はない。

しかし、こちらにとってはかなり危険な状態だ。

特にハーゲンを最初に襲った人族と馬獣人の男は、ハーゲンに対して明確な殺意を持っている。

話し合いが通じるような相手ではない。

「ハーゲン……」

ボクは囁くようにハーゲンに呼び掛けた。

ボクの囁きに、我知らずのうちに期待の色がこもる。

背後からやってきた5人は、以前にハーゲンが1人で撃退している。

前の髭ありの男と髭なしの男の実力が未知数の為、突破するなら背後だ。

「…………」

ボクの期待の囁きに、しかしハーゲンは前の2人を見据えたまま答えない。

ややあって、

「無理だね」

ボクの期待を裏切るように、ハーゲンは素っ気なく言い切った。

「何で!?」

「あんた達、Aクラス?」

ハーゲンは抗議するようなボクの言葉には反応せず、ハーゲンは前の2人に問い掛けた。

「よく分かったな。

 ま、実力的にはそろそろSクラスかな」

と、感心したように髭なしの男。

Aクラスレンジャー、つまりはレベルにして101以上。

Sクラスに近いということは、それよりさらに上の131に迫っているということだ。

「ハーゲンより上……」

呟き、ボクは背筋に冷たいものが走るのを感じた。

通常、一対一での戦いの場合、10のレベル差で勝率は1割となり、20の差でほぼ0になると言われている。

相性や双方の心身の状態、使用する武具や魔法や技法、戦闘経験の多少やその場の状況によって一概には言いきれないが、そう言われている。

おそらく、髭なしの男とハーゲンとのレベル差は20以上は離れているだろう。

髭ありの男も同等だとすれば、勝ち目は0に等しい。

よくよく考えてみれば、ハーゲンが抵抗もせずにここに拉致されたことも、その結果の一端を示していた。

つまり、抵抗は無駄、そして、逃走もまず不可能。

導き出された答えに、ボクは心臓が早鐘を打つのを感じていた。

極めて危機的状況だ。

ジリッと一歩、男達がこちらににじり寄る。

ボク達は前にも後ろにも動けず、ただ立ち尽くすのみ。

進退窮まり、ボクは助けを求めるように周囲を見回す。

助かる見込みがあるとすれば、それは外部からの助けだ。

しかし、離れた所に建っている東屋には人影はなく、その少し先の道にもない。

誰かが通ってくれれば、あるいはこちらに気付いてもらえ、何らかの突破口になるかもしれないが、今すぐに誰かが通るなどということは期待できそうもなかった。

だが、今できることといえば、何とかして外部に助けを求めることだけ。

「何で……何でこんなことを!?」

咄嗟に、ボクは前の2人の男達に向かって言葉を発していた。

それには理由があった。

すなわち、時間稼ぎ。

今、近くを誰も通っていなくとも、少し待てば誰かが通るかもしれない。

そうなれば、事態が変化する可能性がある。

ボクの発した言葉は、それらを期待しての言葉だった。

本当にわずかな可能性ではあるが、何もせずにただ立って怯えているよりもずっといい。

だが、ただ一方的に喚いていても効果はない。

何とかして会話に持ち込まなければならない。

「あなた達はレンジャーなんでしょ!?

 何でこんなバカな真似を!?」

頭に浮かんだことを、そのまま言葉にする。

すると、男達が足を止めた。

髭ありの男が小首を傾げて口を開く。

「そりゃ、仕事だからな。

 正式な手続きは踏んじゃいないが」

男が反応したのを見て、ボクは内心でほんのわずかに良しと思った。

そのままボクは、先と同じように頭に浮かんだことを言葉にし、続ける。

「仕事って、レンジャーが誘拐なんて……!」

「だから、正式な手続きを踏んでないって言ったろ?

 こいつぁ、お前等の後ろの奴等からの直の依頼だよ。

 正式な仕事と一緒で、依頼料もしっかり頂いてる」

と、髭ありの男。

「子供さらって金をもらうなんて簡単な仕事、断る理由がねぇだろ。

 聞けばその子供は相当のレベルだって話だったが、見たところ俺達にとっちゃその辺の子供と大差ねぇ。

 楽な仕事して楽に稼ぐ。

 こんなに美味い話は逃す手はねぇよ」

と、髭なしの男。

それに同意するように、髭ありの男がうなずき、口を開いた。

「何せ、レンジャーの仕事ってのは、結構危ねぇのも多いからなぁ。

 クラスが上がれば特に、だ。

 いくら金を稼いだところで、死んじまっちゃあそれでお終い。

 たとえ小金だろうと、楽して手に入るってんならその方がいい。

 そろそろ俺達も引退して悠々自適な暮らしがしてぇし、その為の資金も集まってきた。

 ここまで来りゃ、わざわざに実力に見合った危険な仕事を選んで、みすみす命を危険にさらす必要もねぇ。

 こうして楽な仕事をちょこちょここなして小金を稼いでいった方が利口ってもんだ」

「ってなわけで、断る理由がねぇのさ。

 レンジャーだからって、バカ正直にレンジャーの仕事ばっかりするわけじゃねぇんだよ。

 分かったか、坊主?」

ニヤリと笑って髭なしの男。

あくまで時間稼ぎの為の問い掛けだったのだが、これを聞いてボクは愕然とした。

この男達がレンジャーのすべてを体現しているわけではないが、それでも一部であることには違いない。

たとえ一部といえど、レンジャーの中にこういう人物がいることは、ボクには改めてショックだった。

「何だ坊主、お前ひょっとしてレンジャーがもっと高潔な仕事だとでも思ってたのか?」

落胆した風を見せたボクを見て、髭ありの男が小馬鹿にしたように聞いてきた。

「だとしたらそいつは大間違いだ。

 俺達みたいに考えてるレンジャーは結構いるぜ?

 ただ、世間や上層部が把握しきれてないってだけでな。

 ま、レンジャーの数はバカみてぇに多いから、仕方がねぇっちゃ仕方がねぇが。

 現にほれ、お前の後ろの虎。

 そいつだって、お前達を襲ったらしいじゃねぇか、なぁ?」

髭ありの男は、ボクの頭越しに後ろの虎獣人のレンジャーに問い掛ける。

振り返れば、虎獣人は見下すような表情でこちらを見て、うなずいた。

「まあ、そんなことはどうでもいいや。

 人が来ないうちにさっさと済ませようか」

髭なしの男が言って、こちらに1歩進み出る。

他の男達も、合わせるように動き出した。

何とか多少の時間は稼いだものの、人の来る様子は微塵もない。

(ダメか……)

ボクは心の中で諦めの言葉を呟く。

と、それまで黙っていたハーゲンが口を開く。

「楽して小金を稼ぐって言ったよね?」

ハーゲンの質問に、男達が再び足を止める。

「言ったが、それがどうした?」

髭なしの男が聞き返すと、ハーゲンは後ろを振り返り、以前に襲ってきた男達を見て答える。

「僕をどうこうするより、そっちの連中を誘拐犯に仕立てて突き出す方が楽だと思わない?」

ハーゲンの言葉に、ハーゲン以外の全員が目を見開く。

ほんのわずかの沈黙。

その沈黙を破ったのは、前の男2人の笑い声だった。

「こりゃいいや。

 子供のくせに俺達を抱き込もうとしてやがる」

「なるほど、こりゃ大の大人が手を焼くわけだぜ。

 力だけじゃなくて頭も回りやがるか」

髭ありと髭なしの男がハーゲンを褒める。

ハーゲンの発言にはボクも驚いた。

戦うでも逃げるでも、外部からの助けを求めるでもなく、敵対している者を味方に引き入れようとするなんて。

そして何より驚いたのは後ろの男達だろう。

沈黙したまま事の成り行きを見守っているが、緊張と驚きの色を隠し切れない様子だ。

そんな後ろの男たちをよそに、髭ありの男が言う。

「たしかに、その方が楽かもしれねぇな。

 だがな、坊主、こいつはビジネスだ。

 そっちの連中からは前金で依頼料をもらってる。

 お前が俺達を抱き込もうってんなら、依頼料よりも多い額を払ってもらわなくちゃ割に合わねぇ。

 そうだろ?」

「……そうだね」

「ちなみに、依頼料は300万クリスタだ。

 俺達にとっちゃ小金だが、子供のお前にそんな額が用意できるか?」

「…………」

髭ありの男の言葉に、ハーゲンは沈黙する。

もっともな言葉だ。

ボクはもちろんそんな金は持ち合わせてはいない。

ハーゲンはよくボクに奢ってくれたりはしたが、それでも300万などという額を持っているとは思えない。

ハーゲンの沈黙に、後ろの男達は安堵の息を吐き、前の2人は苦笑いを浮かべた。

「ま、そりゃそうだろうな。

 ってわけで、観念しな、坊主」

そう言って、髭なしの男が足を踏み出そうとした時、ハーゲンが再び問い掛けた。

「この子はどうするつもり?」

ハーゲンの視線はボクを差していた。

「依頼の対象は僕だけなんじゃないの?

 この子は関係がない」

続けて言ったハーゲンの言葉に、前の2人が顔を見合わせる。

そして、ボク達の後ろの男達に視線を送った。

それを受け、後ろの虎獣人が答える。

「たしかにそうだ。

 が、見られた以上――」

「この子を死なせたくない」

虎獣人の言葉を最後まで待たず、ハッキリとした声でハーゲンが言った。

虎獣人が口を開けたまま言葉を切った。

ハーゲンが続ける。

「僕はこの子を死なせたくない。

 そして、僕も死にたくない」

突然のハーゲンの言葉に、その場の全員が沈黙した。

「どうすればいい?

 どうすれば見逃してもらえる?」

沈黙を破って言ったハーゲンの言葉は、紛れもなく命乞いだった。

とても懇願しているような風ではなかったが、内容は命乞いそのものだった。

ハーゲンの言葉が終わると、一拍置いて背後で怒気が沸き起こった。

「このガキ……ふざけたこといいやがって……!」

「今更、何様のつもりだ!」

「調子いいこと抜かしてんじゃねぇぞ!」

男達が口々に罵る。

状況と場所の為に、怒鳴り散らしているわけではなかったが、それでも声に込められた怒りは察するに難くない。

続く男達の罵倒の声に、ハーゲンは沈黙したまま。

そうしてしばらく罵倒が続いたのち、髭ありの男が罵倒の合間に割って入った。

「まあ、落ち着けよ、大人げねぇ。

 少しは聞く耳持ってやれよ」

髭ありの男の言葉に、後ろの男達の罵倒がやむ。

続けて、髭なしの男が後ろの男達に向かって言う。

「可愛い、っつうか、かわいそうにも、子供が命乞いしてんだぜ。

 俺達としちゃどっちでもいいんだけどよ、ちょっと殺すのは考え直してみちゃどうだ?」

『…………』

髭ありと髭なしの男達に諭され、後ろの男達は相談するように顔を見合わせる。

しばらくの間、男達はこちらに聞き取れないほどの小声で囁き、相談し合う。

やがて、男達は1つうなずき合い、こちらを見た。

そして、ハーゲンを最初に襲っていた人族の男が口を開く。

「いいぜ、命は助けてやっても。

 そっちのガキも、お前も。

 ただし、条件がある」

言った人族の男の口が醜く歪んだ。

人族の男の言葉を継ぐように、馬獣人が言う。

「レンジャーの旦那達にはもう前金で依頼料を払っちまってる。

 だから、それに見合ったことはさせてもらわねぇとな……」

「へ、へへ……たっぷり楽しませてもらおうじゃねぇか……」

「てめぇがぶっ壊れるまで犯させてもらうぜぇ……」

「ひひ、ひひひ!」

交互に人族の男と馬獣人が言い、下品な笑みを浮かべた。

その横で虎獣人が2人に向かって言う。

「オレ達にはガキを犯す趣味はねぇが、そもそもはお前等からの依頼だったし、今回のもお前等が言いだしっぺだ。

 手打ち金さえもらえりゃ文句は言わねぇ。

 100万クリスタ、忘れんなよ?」

「ひへ! 分かってますよぉ」

馬獣人が答え、ハーゲンの体を舐めるように見回した。

「話はまとまったみてぇだな。

 まあ、一応俺達も見届けなきゃいけねぇだろうなぁ」

「ここで帰ったらこいつが暴れ出しそうだしな。

 もらった金額分は働かにゃあな」

髭ありと髭なしの男が交互に言う。

とりあえず命の危機は去ったと見ていいだろうが、それとはまた別の問題が発生してしまった。

最初にハーゲンと出会った時と同じ状況だ。

いや、今はその時とは比べるべくもなく酷い。

逃げることも抵抗することもできない。

ボクは無意識にハーゲンを見た。

ハーゲンは相変わらずの無表情で、いやらしい目付きで自分の体を舐めるように見る人族の男と馬獣人を見ていた。

と、不意にハーゲンがボクの体を押した。

「!?」

突然のことに、ボクは数歩下がりながらも体勢を立て直す。

ハーゲンを見ると、ハーゲンは無表情のまま、ボクに一瞥もくれなかった。

「へっ、覚悟はできてるってか?」

馬獣人がハーゲンに向かって言う。

「気に入らねぇじゃねぇか……その澄ましたツラぁ……」

と、イラついたように人族の男。

「…………」

ハーゲンは何も言わず、男達を見返した。

その様子が癇に障ったのか、人族の男が眉間にしわを寄せて言った。

「ガキ、てめぇ、そこでストリップしろ。

 素っ裸になれ」

「…………」

人族の男の命令に、ハーゲンはやはり何も言わず、それに従う。

日もだいぶ暮れ、辺りはすっかり薄暗く、寒い。

寒空の下、ハーゲンは何事でもないように身に付けた衣服を脱ぎ始めた。

上着を脱ぎ、ブーツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、肌着を脱ぎ、下着を脱ぐ。

そうして、薄暗い夕暮れの木立ちの中で、ハーゲンは裸身をさらけ出した。

『おお……』

人族の男と馬獣人の口から感嘆ともとれる声が漏れた。

他の男達も感心したようにハーゲンの裸身を見つめる。

さらけ出されたハーゲンの裸身は、彫像のように均整の取れた見事な体付きだった。

もしこのままの姿の石像でもできれば、美術館の一角に置かれても不自然ではない。

それほど見事な体付きだった。

少年にしては立派な骨格に、鍛え上げられた格闘家のような引き締まった筋肉。

顔立ちはもとより、頭の先から足の先まで、非の打ちどころがない。

それに比して、股間にぶら下がった性器は少年のそれらしく、中身を申し訳程度に覗かせて包皮を被っていた。

大きすぎず小さすぎずの性器は、この寒さでも、この状況でも、まったく縮こまってはいないようだった。

「こいつぁ、ホントに上物だぜ……」

「ああ……見てるだけで勃ってきちまった」

人族の男と馬獣人が、ハーゲンの裸身を見て、いやらしく顔をほころばせた。

その様子はまるで、先程までのハーゲンへの殺意など霧散してしまったかのように見えた

2人は裸のハーゲンに素早く近寄ると、じっくりと観察を始めた。

それこそ頭の先から足の先まで、1cmの見落としもなく。

「理解できねぇな」

「まったく」

呆れたように呟いたのは髭ありと髭なしの男。

虎獣人達も、やはり同様に、呆れたように2人の行動を見ていた。

それを見て、命の危険は去ったものと、ようやく判断しきれた。

だが、ハーゲンの危機は去っていない。

「クソ生意気なガキだが、やっぱりガキだな。

 皮被りのチンポがぶら下がってやがる」

「……匂いもガキの匂いだ。

 たまんねぇな」

人族の男がハーゲンの股間をしげしげと眺めて言い、馬獣人がハーゲンの首筋に鼻を近付けて匂いを嗅いで言う。

ハーゲンは表情一つ変えず、ただされるがまま、言われるがままにされていた。

その様子を見て、ボクの中で何かがざわつき始めた。

「おうおう、柔らけぇなぁ……」

「こりゃいい触り心地だ」

人族の男がハーゲンの性器を指先で弄り回し、馬獣人が尻の毛並みを確かめるように撫で回す。

いやらしい手付きでハーゲンを嬲る2人を見ているうち、ボクは我知らずのうちに拳を握り締めていた。

「剥けるのか? …………おぅ、しっかり剥けやがる」

「ケツの穴もいい締まり具合だ。

 こいつぁ期待できそうだぜ」

ハーゲンの包皮を剥いて中身をあらわにする人族の男。

ハーゲンの尻を押し開き、その中央のすぼまりを凝視する馬獣人。

次第にエスカレートしていく2人の行動に、ボクは心臓の脈打ちが速まり、頭の芯が冷え冷えとしてくのを感じた。

そして、

「そいじゃあ、まずは一口……」

言って、人族の男がハーゲンの性器に口を近付けた瞬間、

「やめろぉ!!!」

ボクは叫んでいた。

「!?」

驚いた表情を浮かべ、人族の男が吹き飛ぶ。

人族の男に体がぶつかったその瞬間、初めてボクは自分が無意識のうちに男に突進していたのだと気付いた。

誰もが、ハーゲンさえもが驚いたようにボクの行動に目を見開いた。

その刹那あと、強烈な力で両腕が閉め上げられる。

痛みに歪む視界の端で、ハーゲンが馬獣人を突き飛ばし、ボクに向かって手を伸ばすのが見えた。

しかし、ボクとハーゲンの間に誰かが割って入る。

視界内でそこまで認識できると、ボクは後ろに向かって放り投げられた。

背中と尻が地面にぶつかり、全身に衝撃が走って鼻の奥が熱くなる。

一瞬呼吸が止まるも、ハッとして目を見開けば、すぐ斜め前に髭なしの男が立ってボクを見下しており、その先ではハーゲンが髭ありの男に羽交い締めにされていた。

「ハーゲン!!!」

ボクは叫び、立ち上がってハーゲンに向かって走ろうとしたが、襟首を何者かに掴まれてしまい、その衝撃で首が締まった。

「げっ!?」

悶え、チラリと後ろを見れば、虎獣人がボクの襟首を掴み、次にはボクをハーゲンがされているのと同様に羽交い締めにした。

「放せ!!!」

「ガキィ!!!」

叫ぶボクと、怒声を上げ、髭なしの男の後ろからこちらに向かってくる人族の男の声が交錯する。

憤怒の形相で人族の男が拳を握り締め、ボクに向かって突き出した。

直後に走る、腹部への衝撃。

そして痛み。

「げっえっ!!」

えづき、反射的に身を折ろうとするが、羽交い締めにされている為にそれもできない。

「ジーク!!!」

ハーゲンの叫びが聞こえる。

「このガキ! ふざけた真似しやがって!!!」

人族の男が怒声を上げ、再び拳を握り、構える。

直後に来るだろう衝撃に、ボクは腹に力を込めて目を堅く閉じる。

が、衝撃が来ない。

代わりに、閉じた瞼の向こうで、白い光が見えた。

ボクはおそるおそる目を開く。

そして、飛び込んできた光景に目を見開いた。

ボクを殴り付けようと構えた人族の男の腕を、1人の男が止めていた。

その男の姿を見るなり、ボクは涙すら溢れそうになって叫んだ。

「クーア!!!」

ボクの叫びを受け、クーアがボクを見る。

わずかに微笑みを浮かべている。

途端に、ボクは安堵が全身に広がるのを感じた。

と同時に、虎獣人からの拘束が解け、体も楽になる。

ボクは即座にクーアの後ろに回り、その体に抱き付いた。

「大丈夫か?」

ボクに聞こえる程度の小さな声で、優しい調子で問うクーア。

ボクはうなずいて応えたが、しかし、クーアは人族の男と虎獣人から視線を外さない。

そのことから、まだ場は緊張状態であるのだと察し、ボクはクーアから少し離れた。

そこで改めて辺りを見回す。

すると、状況が正確に把握できた。

クーアは人族の男の手を左手で止め、右手に握った剣をボクを羽交い締めにしていた虎獣人に向かって突き付けていた。

少し離れた場所では、2人の人物が、髭なしと髭ありの男の双方の首筋に剣を突き付けていた。

剣を突き付けている人物は、驚いたことに、スキルインペリアル皇帝シアーズと、その皇従ウィールだった。

「間一髪、か?」

「若干間に合わなかったようです」

シアーズとウィールが言葉を交わす。

「ですが、最悪の事態は回避できたようですね」

油断なく男達を見据えてウィールが言った。

「皇帝……シアーズ……!?」

ウィールに剣を突き付けられている髭ありの男が、シアーズを見て絞り出すような声で呟いた。

「何でここに……!?」

シアーズに剣を突き付けられたまま、髭なしの男が視線だけを動かしてシアーズを見、驚きの声をあげる。

「説明する必要はないな。

 お前達が知る必要も――」

「離せ!!!」

シアーズの言葉を遮り、クーアに腕を掴まれている人族の男が吠えた。

何とかもがいてクーアの手を外そうとしているが、クーアはまるで微動だにしていない。

「離しやが――ギャゥッ!!!」

抵抗する男が悲鳴を上げた。

見れば、クーアが、握った男の手を締め上げ、ひねり上げていた。

骨の軋む音すら聞こえそうなほどの力で腕を締め上げ、ひねり上げられている男は、身をよじって悶える。

「動くな」

悶える男を見下ろしながら、クーアは抑揚なく静かに言った。

次の瞬間、男達全員の頭上と足元から、光帯が1本ずつ現れた。

光帯は男達の体を中心に螺旋を描いて伸び、すぐさま男達を閉じ込める二重螺旋の檻が完成。

直後、二重螺旋の檻は中心に向かって収縮し、男達の体を締め付けた。

男達は驚きの声を上げる間もなく、光帯によって身動きの一切を封じられてしまった。

『束縛』という、対象の動きを封じる魔法を無詠唱で発動させたらしい。

Aクラスレンジャーの髭ありと髭なしの男の動きさえ完封してしまうほどの『束縛』を無詠唱で発動させたことに驚きを覚えるボク。

よく見ると、クーアは普段身に付けている封身石を、今日は1つも身に付けていなかった。

そうして、考えてみれば、警備――ここにシアーズがいるということは皇帝警護だろう――の仕事をしていたのだから、力を封じる物など身に付けていなくて当然だと、ボクは思い至った。

つまりは、これが本来のクーアの力なのだ。

Aクラスレンジャーすら、まるで苦もなく封じてしまうほどの圧倒的な力。

思い起こせば、クーアが本来の力を見せたことは1度もなかった。

何度も力を振るっているところは目にしてきたし、旅をしている間に何度も手合わせをしてきたが、それらは相手やボク達に合わせて加減をしているというのが見て、感じて分かった。

唯一本気を出したのが、アーサーと出会った時のゲートキーパーとの戦いだったと思うが、それでも封身石を身に付けたままの、それもボクとシーザーとアーサーを守りながらの戦いだったので、本来の力ではない。

ボクは初めて見るクーアの本来の力に、畏敬の念を抱いた。

「ひとまず、一件落着か」

シアーズが『名も無き剣』を鞘に納めつつ、誰にともなく言った。

そして、光帯に縛られた男達を見回す。

「さて、こいつ等をどうするか。

 近衛の誰かを呼んで連れて行かせるか?」

「いや、監督院に連絡は済ませた。

 もう来る頃だろう」

シアーズの提案にクーアが答えた。

そして、言葉通り、数秒とせずに3人の男が『転移』してきた。

3人の男達は、クーアとシアーズの姿を確認するや、敬礼の姿勢を取った。

同じ制服に身を包んだ彼等は、監督院に属する監督官達だ。

監督院とは、コスモスの機関の1つで、主にレンジャーの行動の監視と管理、そしてクォントの街の治安維持を行う機関だ。

一般でいうところの警察のような役割を担っていると言って差し支えない。

監督院の構成員である監督官はすべてSクラス以上のレンジャーだが、通常のレンジャーとは異なり、監督官としての特別な訓練を受け、さらに特別な権限を与えられていた。

その権限の1つに、規則に反した行動を取ったレンジャーの捕縛がある。

「この者達ですね?」

中央の竜人の監督官がクーアに尋ね、クーアがそれにうなずいて応えると、3人の監督官達は、光帯で縛られている男達に駆け寄り、その腕に封身石を複数個はめた。

封身石によって男達が力を完全に封じられたのを確認すると、クーアは『束縛』を解く。

光帯から解放された男達は、呆けたように無言で視線を宙に泳がせ、監督官達によって1ヶ所に集められた。

おそらく、短時間で起きた突然の事態の変化に、頭がついていっていないのだろう。

さすがにAクラスレンジャーの2人は事の大きさが分かっているようで、ガックリと肩を落として神妙にしていた。

そして、男達は全員、2人の監督官によって『転移』させられていった。

1人残った竜人の監督官は、クーアに歩み寄る。

「事の詳細をうかがいたいのですが……」

言いさして、監督官はシアーズを見た。

シアーズは軽く手を上げ、

「構わない、続けてくれ」

とだけ答えた。

返答を得、監督官はクーアに視線を戻す。

クーアは、後ろを指差し、

「向こうで」

と言い、監督官と共にこの場を離れていった。

その後ろ姿を見ながら、ボクが呟く。

「詳細だったら、ボクが話した方がいいんじゃ……」

「その必要はないでしょう」

呟いに返答したのは、いつの間にか近くに来ていたウィールだった。

「クーア殿は、ここに着いた瞬間に、君に拳を振り上げていた男の心を読んでいるでしょうから、事件の詳細を知っているはずです」

ウィールの説明を聞き、頭に『読心』の魔法の事が浮かんだ。

対象の心の声を強制的に読み取る魔法だが、成功率は低い。

対象の意志の力と魔力が弱ければ弱いほど、使用者の意志の力と魔力が強ければ強いほど成功率は上がると言われてはいるが。

「まあ、あの程度の相手ならば容易に心を読めるだろうな」

と、ボクの心を読んだようにシアーズ。

そして、ボクの頭の上に手を置き、

「何にせよ、お前達が無事でよかった」

と、太い笑みを浮かべた。

ボクをそんなシアーズを見上げ、疑問に思っていることを尋ねる。

「でも、どうしてここが……ボク達が危険だって分かったんですか?」

もっともだといえるボクの質問に、シアーズではなくウィールから返事があった。

「ということは、ジーク君は自分に『印章』の魔法が掛けられていることに気付いていなかったのですね?」

「ボクに『印章』の魔法が?」

「ええ。 クーア殿によれば、ジーク君だけでなく、シーザー君とアーサー君にも掛けられているそうです。

 自分の目の届かない場所でも居場所が把握できるように、と。

 言い換えれば、危険な場所に勝手に行かないように、ということでしょうね。

 監視といえば聞こえは悪いですが、少なくともクーア殿からしてみればジーク君達の行動は把握しておきたいと思うのは親心でしょう。

 あまり気を悪くしてクーア殿を責めたりしないでくださいね?」

ボクの顔を覗き込むようにしてウィールが言った。

ボクはうなずき、応える。

『印章』を掛けられ、居場所を把握されているということに関して、ボクは監視されているという気はしない。

むしろ、身守られているという感じを受けたというのが正直な気持ちだ。

しかし、それならそうと言って欲しいという気持ちも、一方ではあった。

そんなボクのわずかな不満に気付いたのか、シアーズがボクの頭に置いた手に、ボクの頭が痛まない程度に力を込める。

「そう嫌そうにするな。

 まあ、事前にそうと知らせなかったクーアにも問題はあるだろうが、今回はそのおかげで助かったのだからな。

 会談中にクーアの様子がおかしくなってな。

 どうしたのかと聞けば、『印象』を掛けてあるお前の反応がありえない速度で移動した、という。

 休憩に入って『景音』の魔法でお前の様子を覗いてみれば、お前が男に引き倒されるまさにその瞬間だった。

 そこで、すぐさまここに『転移』してきたわけだな」

「シアーズとウィールはオレに付き合ってくれたんだ」

言ったのは、こちらに向かって歩み寄ってきたクーアだった。

話していた監督官は、いつの間にか帰ったようだ。

「オレはシアーズの警護中だったから、そう簡単にそばを離れるわけにはいかない。

 だから、シアーズが気を利かせてくれてな、お前の姿を見るなり『行こう』と言ってくれた」

言って、クーアはシアーズを見る。

シアーズはボクの頭から手をどけ、腕を組んで悪戯っぽく笑いかけてくる。

シアーズがここに来れば、その警護に付いているクーアがここに来るのも道理、というわけか。

「ありがとうございました、シアーズ陛下、ウィールさん」

感謝を述べ、2人に向かって頭を下げるボク。

「なに、ちょうどあの場を離れるいい口実だ」

と、シアーズは言ってニヤリと笑う。

一方でウィールは、そんなシアーズに向かってため息を吐き、たしなめるように言う。

「陛下、それは少し不謹慎というものです。

 ジーク君は本当に危険な状態だったのですよ?

 照れ隠しをしたいのは分かりますが、こういう場合は素直に対応してください。

 だいたい何ですか、そのキザったらしい照れ隠しの台詞は。

 まったく似合っていませんよ」

「…………」

言われたシアーズの表情から笑みが消え、代わりに憮然とした表情になり、ウィールを睨み付けた。

しかし、ウィールも負けじと睨み返す。

それを見て、クーアが口を挟んだ。

「今回はウィールの意見の方がまともだな。

 あ、いや、今回も、か」

言い直したクーアを、これまたシアーズが不満そうに睨むが、クーアはまったく取り合わずに視線をそらした。

そして、そらした視線をボクの後方に向ける。

その先では、脱いだ衣服を着直し終えていたハーゲンが、こちらのやりとりを眺めていた。

まるで今さっきの出来事などなかったかのように無表情なハーゲンに向かって、クーアが歩み寄る。

「キミがハーゲン?」

「はい。 あなたがクーア?」

「うん。 ジークから話は聞いてるよ。

 相手をしてくれてるみたいでありがとう」

「いえ」

「怪我はないか?」

「ありません。 ……ジークは?」

クーアと言葉を交わしながら、ハーゲンがボクの方に視線を向けた。

「ボクも大丈夫。

 ちょっとお尻とか打ったくらいで、怪我はないよ」

視線と言葉の意味を察し、ボクが答える。

「そう、よかった」

ボクの答えに、短く呟くハーゲン。

そんなハーゲンに向かって、クーアが続ける。

「キミはマスター・ガロのところの子だって聞いたんだけど、マスターはどこに?」

「僕が宿を出る頃には、宿にはもういませんでした。

 どこに行ったのかは分かりません。

 あと、先生はもうレンジャーを引退してます。

 マスターではないです」

「そうか。 たしか、どこかの支部長だったと思ったんだけど、昔の話か」

「だと思います」

「1度お会いしたいな。

 そう先生に伝えてくれるか?」

「はい」

ハーゲンが答えて、会話が終わった。

それを確認し、ウィールが口を開く。

「それでは、そろそろ戻りましょう。

 もうじきに休憩が明けます。

 またいなくなったことが知れれば、今度はエゼット陛下やルシディア陛下からも大目玉を食ってしまいますよ」

「む……それはさすがに……」

シアーズが難しい顔をして口ごもった。

さすがの図太い神経の持ち主のシアーズも、他の2皇帝から叱られるのは嫌と見える。

ボクがクスリと笑うと、弱ったなという風にシアーズがタテガミをかいた。

クーアもフッと笑い、

「じゃあ、戻ろうか」

と、こちらに向かってきた。

「ジーク、お前も一緒に来い。

 それから、ハーゲン、キミもだ。

 本当は宿まで送ってあげたいんだけど、こっちも時間がなさそうだからな。

 クォントまでになるけど、それでいいか?」

「ありがとうございます」

クーアの提案に、ハーゲンが答えてこちらに歩いてきた。

全員が1ヶ所に集まったところで、クーアが『転移』の魔法を詠唱し、発動させた。

 

 

『転移』によって連れてこられたのは見知らぬ部屋だった。

かなり広めの正方形の部屋で、そこかしこに華やかな、あるいは煌びやかな調度品が、品よく据えられている。

部屋の様子からすると、ここはシアーズ達の貴賓控室のようだ。

「あと何分だ?」

シアーズがウィールに尋ねる。

ウィールは懐から懐中時計を取り出し、時間を確認。

「あと4分で再開します。

 急いだ方がよいでしょう」

「うむ。 ではクーア」

と、シアーズ。

声を掛けられたクーアはうなずき、ボクとハーゲンと向き合う。

「すぐに会談が再開するから、オレ達はもう行かなきゃならない。

 お前達はしばらくしてからここを出てくれ。

 そうだな……10分くらいしたらでいい。

 一応、外の警備に当たってる者には話を通しておくけど、できるだけ関係者に無関係の人間がこの場にいることを知られたくないからな。

 ここは3階の控室だ。

 トランスポーターはこの階にもあるけど、会談の最中は関係者以外は使えない。

 部屋を出て少し進むと階段があるから、そこを降りて2階のトランスポーターで帰ってくれ」

そう説明し、少し身をかがめてボクとハーゲンの肩に手を置くクーア。

「じゃあ、まっすぐ帰れよ?

 帰りは遅くなるから……まぁ、シーザーにはよろしく言っておいてくれ」

後半の言葉はボクに対して。

クーアは、少々罰が悪そうに苦笑いを浮かべている。

言いたいことを察し、ボクはうなずいて応えた。

それを見て、クーアも1つうなずくと、すでに部屋の出入口の前で待っているシアーズとウィールの方へと向かい、合流すると3人共部屋から出ていった。

残されたボクとハーゲンは、3人が出ていったドアを見つめてたたずむ。

静かな控室内の暖かな空気に包まれ、ボクはドアを見つめながら、少しの間、放心していた。

命の危機に瀕していた状況からの突然の解放、その結果、得られた大きな安心感と、それに伴った脱力感が、今頃になって襲ってきたのだと思った。

全身から力が抜け、その場に崩れ落ちこそしなかったものの、それに近い状況になる。

大きく深呼吸し、肺の中の空気を入れ替えると、膝がカクンと折れ、倒れそうになった。

かろうじて踏みとどまったが、横でハーゲンがそれを見ていたのが分かり、ボクは照れ隠しの苦笑いで取り繕った。

「あ、大丈夫大丈夫。

 ちょっと気が抜けて、力が抜けちゃっただけ」

と、ボクが言うと、ハーゲンは部屋を見回し、椅子に目を止め、

「少し時間あるし、座るかい?」

そう言うが早いか、自分は2脚ある椅子の片方に座ってしまった。

シアーズとウィール用に用意された椅子なのだろうが、特に座ってはいけないと言われているわけではないし、部屋にはボク達以外に誰もいない。

何より、もうすでにハーゲンが座ってしまっていることだし、ボクも心の中でシアーズとウィールに断って座らせてもらうことにした。

木製の、デザインからして高級さと品の良さを醸し出している肘掛椅子は、座面と背もたれ、肘掛けの部分に柔らかい素材の布のクッションが設えられていた。

子供のボクには少し座面が高いが、座るととても心地が良い。

ソファほどではないが、体がクッションに沈み込み、疲れた体にちょうど良かった。

このまま何もせずに目をつぶれば、そのまま眠ってしまいそうだ。

そんなことを思いつつ、体の位置を直そうと身じろぎした瞬間、尻尾の根元付近に痛みが走った。

「っつ!」

思わず顔をひきつらせるボク。

そこまでの強い痛みではなかったが、ヒリつくような鋭い痛みだった。

椅子から降り、振り返って尻尾を確認する。

すると、付け根からやや先の部分が少し擦り剥け、赤くなっていた。

血が出るというよりも、滲んでいて、それが乾いた、といった感じの傷だった。

先に転んだ時に付いた傷のようだ。

「怪我してるね」

傷を目ざとく見つけたハーゲンが、言いながら立ち上がり、こちらに向かってきた。

ボクから1歩離れ、少しかがんでボクの尻尾の傷に手をかざす。

途端、ボクの全身が黒いもやのようなものに包まれた。

と同時に、傷の痛みが消えていくのを感じ、ボクはそれが『回復』の魔法だと分かった。

傷が消えたのを確認し、少し尻尾を振ってみる。

痛みはない。

「ありがとう」

顔を上げ、ボクはハーゲンに礼を述べた。

ハーゲンは無表情に頭を横に振り、

「君には借りが1つできたからね。

 もちろん、これで返せたとは思えないけど」

と答えた。

「借り?」

と、首を傾げてボク。

ハーゲンはうなずいて、まっすぐにボクを見据えた。

「僕が犯されそうになった時、止めようとしてくれただろ?」

「ああ……」

言われて、脳裏にあの時の光景が浮かぶ。

あの時はとっさの行動で、自分でも何をしたのか分からなかった。

しかし、落ち着いた今なら、あの時の自分の気持ちが分かる。

犯されそうになったハーゲンの姿が、昔の自分と重なったからだ。

それがどれだけ恐ろしく、悔しく、おぞましいものかがフラッシュバックされた結果、考えるよりも早く行動してしまったのだ。

結果としてはいい方向に転んで良かったが、一歩間違えれば、ボクもハーゲンも即座に殺されていたかもしれない。

我ながら短慮だったと、今にして反省する。

「でも、ちょっと考えなしだったよね」

ボクは言って、苦笑いを浮かべてハーゲンを見ると、ハーゲンは小さくうなずいた。

「たしかにそうだね。

 せっかく僕が命乞いして2人共助かるように仕向けたのに、危うく無駄になるところだった。

 助けが来なければ2人共殺されていたかもしれない」

ボクの考えを見透かすようにハーゲンが言う。

苦笑いをひきつらせ、ボクは固まる。

すると、ハーゲンはフォローするように付け加えた。

「でも、結果的には僕も犯されずに済んだし、良かったんじゃないかな?」

「……うん、そう言ってもらえるとありがたい、かな」

慰めに、ボクは再び苦笑いを浮かべる。

「……まだ10分経ってないし、もう少しここにいた方がいいね」

言って、ハーゲンは椅子へと戻り、深く腰掛け、出入口の方を見たまま黙り込む。

そして、しばらくしてハーゲンが口を開いた。

「意外と勇気があるんだね、君は」

「え?」

何のことか分からずに、ボクはハーゲンを見て聞き返した。

ハーゲンは出入口の方を見たまま続ける。

「助けてくれた時のことだよ。

 どう見てもかないそうにない相手に向かって仕掛けるなんて、僕にはできないな」

「……あの時は、本当に何にも考えてなかったから。

 たしかに、相手が強いとか、怖いとかは分かってたし思ってたけど、ほとんど反射的に体が動いちゃったんだよ。

 だから、勇気とか、そういうのとはちょっと違うと思う」

ボクの答えに、ハーゲンはこちらに首を向ける。

「そうかな?

 本当に恐怖に取り憑かれてたら、何もできないと思うんだけど。

 反射的にでも動けたっていうことは、君の勇気が恐怖に打ち勝ったってことじゃないかな?」

「そう……なのかな?

 でも、それを言うなら、ハーゲンだって勇気があるじゃない。

 あの状況であんなに堂々としてるなんて、ボクには真似できないよ」

「…………」

ボクの言葉に、ハーゲンはボクから視線をそらして、少し考える風を見せた。

何か気に障ることを言ってしまっただろうかと思い、気遣わしげにハーゲンを見ていると、ハーゲンはボクから視線をそらしたまま言った。

「……僕の方こそ、勇気とは少し違うかな。

 あまり怖いって感情がないんだ。

 殺されそうになったり、死にそうになったり、そういうことは今までにも何度もあったけど、どれもあまり怖いとは思わなかった。

 さっきもそう。

 人間が一番恐怖を感じるのは死ぬことだから、それを怖いとはあまり思わない時点で、僕はそういう感情が元々少し乏しいのかもしれない。

 抵抗しなかったのだって、恐怖からじゃなく、純粋に勝ち目がないと判断したからだし、殺されたら殺されたで、ただそれだけって、いつも思ってるから。

 だから、勇気があるのとは少し違うと思う」

「……ボクは死ぬのが怖いと思うし、ハーゲンは勇気あると思うけど」

「死ぬのが怖いっていうのが普通なんだろうね。

 だから、僕はきっと変なんだ。

 でも、僕が勇気があるっていうのは違うと思うよ。

 ただ、怖いって感情が薄いから、勇気があるように見えるだけで」

「……よく、分かんないな」

「……僕もだよ」

それきり、ハーゲンは黙り込んでしまった。

彫像のように表情を変えないその顔からは、何を考えているのかは分からない。

今言ったことを考えているのか、それとも別のことを考えているのか。

そんなハーゲンを横目で何度も見ているうちに時間は過ぎていき。

「もうそろそろ出ても大丈夫そうかな?」

言いながら、ハーゲンは椅子から立ち上がり、出入口の方へと向かって歩いていく。

つられるようにボクも立ち上がり、それに続いた。

ハーゲンより先にドアに辿り着いたボクは、部屋の外を探るようにそっとドアノブをひねり、ほんの少しだけドアを開けて覗いてみる。

すると、ドアを開けてすぐの所に黒い人影が立っており、視線を上げていくとその人物と目があった。

「あ」

視線を交わした人物が見覚えのある人物だったので、ボクは小さく声を上げた。

「オッス」

その人物は、ボクを見ると小さく手を上げて挨拶した。

「ブラックさん」

ドアを開け、ボクは人物の名を呼ぶ。

部屋の外で警備に当たっていた人物は、誰あろう、先日出会ったばかりの皇室近衛の1人、狼獣人ブラックだった。

「話はクーアさんから聞いてるよ。

 何か大変だったみたいだね」

気遣わしげな表情で尋ねてくるブラックに、ボクは苦笑いを浮かべつつ、

「はい、まぁ……」

と、曖昧に返事をした。

こちらの心情を察してくれたのか、ブラックはそれ以上は何も聞かず、ボクの後ろにいたハーゲンをちらりと見てから、視線をボクに戻す。

「事情は他の警備に当たってる人達にも話してあるから、このまま戻るといい。

 この先を行くと階段があるから、そこを下って左に行けばトランスポーターに着く。

 あとは分かるよね?」

言いつつ、ブラックは部屋の外に伸びる廊下の先を指差した。

廊下は緩やかなカーブを描きながら左右に分かれており、ブラックはその一方を指差している。

「はい、ありがとうございます」

礼を言い、ボクは後ろにいたハーゲンに視線で『行こう』と投げ掛け、廊下に出て、指差された方向へと歩き出した。

少し行くと、クーアとブラックの言った通り階段が見えてきた。

階段のそばには2人の警備の人物が立っていたが、ブラックの言った通り事情を知っているらしく、ボク達を見ても不審がる様子もなく、ボク達が進むのを見守るように見ていた。

階段を降りた所にも、そしてその先のトランスポーターの所にも警備の人物は立っていたが、やはり同様の反応を見せ、ボク達を見送った。

そして、ボク達はトランスポーターを使って、クーアの部屋の階層にまで帰りついた。

「あっ、そういえばここに戻ってきちゃったけど、ハーゲンはホールに行った方が良かったよね?」

トランスポーターを出て、ボクはハーゲンまで連れてきてしまったことに気付いた。

「いや」

トランスポーターの中にいるハーゲンは、首を振ってボクの問いに答える。

「……せっかくここまで来たし、寄ってく?

 もしよかったら、晩御飯も一緒にさ」

通路の向こう、すっかる暗くなった雲海に目を向けつつ、ボクはハーゲンを部屋に誘ってみる。

シーザーはまだ荒れているかもしれないが、アーサーもいることだし大丈夫だろう。

シーザーのハーゲンへの心証も、前ほどは悪くないようだし、夕飯を共にするくらいなら問題ないと思う。

しかし、ハーゲンはこれにも首を振り、

「もう帰らないと。

 先生が心配してるかもしれないから」

と、答えた。

「そう……」

と、少し残念な気持ちでボク。

そんなボクを見ながら、ハーゲンが言う。

「今日は悪かったね。

 変なことに巻き込んで」

「……ううん、いいよそんなの。

 ボクもハーゲンも無事だったんだし」

今度はボクが首を振って答えた。

ハーゲンは、

「そう? でも、借りはいつか返すよ」

と言い、そしてふと思い出したように、言い添える。

「そうだ、今度の休みの日、憶えてるよね?」

「休み……ああ、『古竜種』の」

言われてボクは思い出した。

今日が3日だから、次の休みの日は3日後になる。

「誰にも言ってないだろ?」

「うん、言ってないよ。

 ボクもシーザーもアーサーも」

「ならいいよ。

 忘れずに準備、しておいて。

 当日になったら21番公園で」

「うん、分かった」

ボクがうなずいて答えると、ハーゲンもうなずき返し、

「じゃあ、またね」

という言葉を残し、トランスポーターを起動させて行ってしまった。

「うん、また」

誰もいなくなったトランスポーターに向かって、ボクは呟く。

そうして1人残されたボクは、しばらくの間その場にたたずみ、暮れた雲海を眺めながら、今日起きたことを思い出し、大きく息を吐いた。

 

 

「ただいま〜」

リビングのドアを開けると、ソファにアーサーが座ってテレビを見ていた。

「おかえりなさい。

 遅かったですね」

「うん、ちょっとね。

 ……あれ、シーザーは?」

リビング内を見回し、シーザーの姿がないことを確認すると、ボクはアーサーに尋ねた。

「今、お風呂に入ってますよ。

 もう出てくる頃だと思いますけど」

「そう。 …………どんな様子?」

尋ねると、アーサーは困ったような表情を見せ、

「ジークが出ていったあと、しばらくしてからシェイフが来て、ちょっと一悶着あったんです。

 クーアのことで……口喧嘩っていうわけじゃないんですけどね。

 まあ、言ってることはシェイフの方が正しかったので、シーザーも納得した様子でした。

 不機嫌なのは相変わらずですけど」

「そう、じゃあとりあえず納得はしてくれたんだ」

「はい。 と、思います」

アーサーの答えを聞き、少しだけ安心するボク。

とはいえ、まだ機嫌が悪いようだ。

「ご飯とか食べてきてないですよね?」

言いながら、アーサーは立ち上がり、キッチンへと向かう。

「うん、まだ」

答え、入れ替わるようにボクはソファへと向かう。

「シェイフがご飯作っていってくれました。

 ハヤシライスとかいう、どこかの国の料理らしいですよ」

「へぇ〜、シェイフ、料理なんてできるんだ」

「1人旅が長いようですから、必然的に覚えたんでしょうね。

 ジークも少し見習ったらどうですか?」

「……言いづらいこと、あっさり言うね」

鍋を火にかけながらのアーサーの皮肉を、ボクは睨んで返してテレビを見る。

テレビは見慣れない特番だった。

途中からの視聴なので内容がよく分からない。

しばらくテレビを眺めながらソファで体を休めていると、リビングのドアが開いた。

「お、帰ってきてたのか」

頭をタオルで拭きながら入ってきたのはシーザーだった。

「遅かったじゃん」

タオルを首に引っ掛け、こちらに向かってくる。

アーサーは不機嫌だと言っていたが、口調からはそうは感じられなかった。

シーザーはボクの隣に勢いよく座り込むと、キッチンにアーサーがいることを確認し、

「飯〜」

と、言い放った。

「はいはい。 今温めてますよ」

と、アーサー。

ボクは隣で頭を勢いよく拭いているシーザーに話し掛ける。

「シェイフ、来たんだってね」

「ん〜? ん〜、来たよ。

 飯作って帰ってった」

拭いてボサボサになった頭の毛を撫で付けながらシーザーが答えた。

思いのほか機嫌が悪くなさそうなので、ボクはもう少し突っ込んで聞いてみる。

「シェイフに何か言われたんでしょ?」

「……何でそれ知って……あ、アーサーから聞きやがったな?」

キッチンにいるアーサーを睨みながらシーザーが言う。

アーサーはシーザーの視線には気付いていないようで、鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜていた。

「ま、いいけどよ。

 ……シェイフにさ、『レンジャーの責任も分かろうとしねぇでレンジャーになろうとしてるんだったら、今すぐ目指すのやめちまえ』って言われちまった」

「…………」

足をテーブルの上に放り出して、独り言のように言うシーザー。

両手を頭の後ろに回し、天井を仰いで続ける。

「……オレだって分かってるよ、それくらい。

 でもさ……う〜ん、何つーかさ……なぁ?」

「うん、気持ちは分かるけどね……」

「だろ? ……ま、大変だよな、レンジャーも、それを目指すのも」

「うん」

ボクが答えて話が一段落する。

まだ少しばかりの不満はあるようだが、ボクにもないとは言い切れないから、ボクからは何とも言えない。

それはクーアも、シーザーを諭したシェイフも分かっているのだろう。

しかし、とりあえずクーアが帰ってきてシーザーが食って掛かるという展開はないようで一安心した。

「さあ、できましたよ」

いいタイミングでアーサーがキッチンからトレイを持って出てきた。

アーサーは、トレイに乗せられた3枚の皿と3個の水の入ったコップを、ダイニングのテーブルの上に敷かれた、スプーンとナイフの乗ったランチョンマットの上に置く。

「ん〜、いい匂い!」

言ってシーザーがダイニングへと向かう。

あとを追うようにボクも向かうと、並べられた皿には、茶色いシチューが白米の上にかけられていた。

しかし、その茶色いシチューにはどこか見覚えがある。

薄切りの肉とタマネギが入った茶色いシチュー。

「……これって、ハッシュドビーフをご飯の上にかけただけじゃない?」

「たしかに」

ボクの疑問に同意するシーザー。

アーサーは困ったように首を傾げる。

「それは僕も思いました。

 シェイフはハヤシライスだって言ってたんですが…………ご飯にかけると名前が変わるんですかね?」

「ま、いいや。 とりあえず食おうぜ!」

シーザーの言葉を合図に、全員が椅子に座り、

『いただきます』

合唱し、水で口を湿らせてから、シェイフ曰くハヤシライスを一口。

「…………う〜ん、やっぱりハッシュドビーフのような気がする」

『たしかに』

ボクの感想に、2人が同意した。

「でも美味いよ、コレ。 イケる」

言って、ハヤシライスをかき込むシーザー。

「本当ですねぇ」

アーサーも、時々大きな薄切り肉をナイフで切りながら、おいしそうに食べている。

たしかに味はすこぶる良く、店で出してもお金が取れそうなほどだった。

シーザーもそうだが、シェイフも見掛けによらずに料理の腕は高いようだ。

ボクとは雲泥の差だろう。

若干、自分の料理の腕のなさに落ち込んでいると、ふとあることが思い浮かんだ。

「タマネギがたっぷり入ってるから、ケルカに出したら怒り出しそうだね」

スプーンですくったタマネギを見ながらボクが言うと、それにアーサーが反応した。

「ああ、昔嫌がらせで出したら、実際すごく怒ったらしいですよ。

 『こんなもん食えるかー!』って、テーブルをひっくり返そうとしたらしいです」

アーサーの言葉に、その場面を想像してみる。

物の見事に、鮮明にその場面が頭に浮かんだ。

「……今度やってみようかな」

食事の手を止め、ハヤシライスをニヤニヤと見ながらシーザーが呟いた。

「やめなよ」

「やめてください」

直後に起こる惨状を思い浮かべ、ボクとアーサーが即座にそれを止めた。

しかし、シーザーはニヤニヤしたままハヤシライスを眺めていた。

(こりゃ、絶対やるな)

思い、ため息を1つ。

と同時に、いつものシーザーに戻ったことを確信し、ボクは安堵しながら食事を再開した。

 

 

星空を見上げながら、温かい湯が満杯に張られた湯船につかって1日の疲れを癒やす。

今日は特に疲れた。

理由はもちろん、夕方の一件だ。

もしかしたら、ここにきて一番疲れたのではないだろうか。

湯を両手ですくい、顔にかけて息をつく。

横手を見れば、アーサーがシャンプーで丁寧に翼を洗っているところだった。

「いつものことだけど、大変そうだね」

ボクは、アーサーの翼洗いの作業を眺めながら言った。

アーサーは手を休めることなく翼を撫で付けながら、首をこちらに向ける。

「しっかり洗わないとゴワゴワして気持ちが悪いんですよ。

 それに慣れてますから、そんなに大変でもないですよ」

「でも、全身羽毛でしょ?

 シーザーもそうだけど、何だか洗うのが面倒くさそう」

湯船の縁に両手を組んで置き、その上に顎を乗せてボクは言う。

実際、羽毛や毛皮のあるアーサーやシーザーは、体毛のないボクに比べて体を洗う時間が倍以上掛かっていたりする。

乾かす分には封魔晶を使うので大差はないが、それでも洗うところを見ていると面倒感は否めない。

「たしかに面倒といえば面倒ですけど、1日の汚れを落とすと思えば気にならないですね。

 シーザーはどうか知らないですけど、僕は結構きれい好きなんで」

片側の翼を洗い終え、今度は逆側の翼をシャンプーまみれにしながらアーサーが答えた。

「じゃあさ、旅してる時にお風呂とか入れなかった日は、嫌だったりした?」

「う〜ん……」

ボクの質問に首をひねって唸るアーサー。

「それは仕方がないって分かってましたから、そこまでは。

 もちろん、入れるに越したことはないですけどね。

 でも、これからレンジャーになろうっていうんですから、そうそう毎日きれいにしていられるとは思ってませんよ。

 それはさすがに贅沢ってものです」

「まぁ、そうだよね」

相槌を打って、アーサーが洗い終えた翼をシャワーで流しているのを見ながら、ボクはハーゲンの言葉を思い出した。

「あ、そうだ。

 今日、ハーゲンに会ったんだ」

「へぇ、よく会いますね」

「偶然なんだけどね」

「一緒に遊んだんですか?」

「……うん」

アーサーの質問に、一瞬夕方の出来事が頭に浮かんだが、済んだ話だし、話して気分のいい話でもなし、アーサーに無用の気遣いや心配をさせない為にも口には出さなかった。

気を取り直してボクは話を続ける。

「でさ、今度の休みの日、行くじゃない?」

「『古竜種』の遺跡ですか?」

「うん、そう。

 で、ハーゲンが忘れずに準備しておいてってさ」

「準備、ですか」

言って、小首を傾げるアーサー。

「と、言われても、よくよく考えたら、僕達、『古竜種』の遺跡に探険に行くってこと以外、何も知らないんですよね。

 どこにあるとか、何を用意すればいいとか」

言われて、たしかにそうだとボクも思った。

これでは準備のしようがない。

もう少し詳しく聞いておけばよかったと後悔しつつ、考えてみればハーゲンの連絡先すら知らないことに、今更ながら気付いた。

「ハーゲンから何か聞いてませんか?」

「ううん、ゴメン、聞くの忘れてた」

「そうですか……とりあえず、装備は今まで使っていた物でいいですよね。

 買ってもらった物はサイズ合わせしてないですし」

独り言のように言いながら、アーサーはシャワーを止めた。

そして、こちらに来て湯船に入り、夜空を見上げながら独り言を続けた。

「遺跡の探険ですから、日帰りで済むでしょうね。

 さすがに2日も3日も掛かったら、アルファス達に気付かれてしまいますし。

 それだったら食料とかの心配はあまりなさそうですか。

 携帯食を少し持っていけば足りますかね。

 あと、他に移蔵石や封魔晶は持っていった方がいいでしょうけど、僕達個人で持ってる物は少ないですから、そうなるとアルファス達に借りるしか――」

考え込みながら呟き続けるアーサー。

横で呟かれるアーサーの独り言を右から左に流しつつ、ボクが夜空を見上げてボーッとしていると、突然風呂場のドアが勢いよく開いた。

何事かとそちらを見てみれば、全裸のシーザーが入ってくるところだった。

風呂場に入ってきたシーザーは、仁王立ちでこちらを見下ろし、なぜかニヤニヤと笑っている。

「あれ? お風呂入ったんじゃないんですか?」

仁王立ちのシーザーを見て、独り言をやめたアーサーが尋ねると、シーザーは不敵な笑みを変えることなく、かつ何も答えずに、風呂場の出入口に顔ごと視線を向けた。

視線を追い、ボクもそちらに目をやると、出入口からクーアが顔を覗かせた。

「クーア!?」

意外な人物の登場に、ボクは声を上げる。

「ただいま」

シーザーと同じく、全裸のクーアは、風呂場に入ってきたボクとアーサーに声を掛けた。

「遅くなるって……」

ボクは呟いてクーアを見る。

貴賓控室で、別れ際にクーアがそう言っていたのを憶えている。

クーアの横で嬉しそうにしているシーザーによろしくと言っていたことも。

時刻はまだ8時を回った頃だろう。

とても遅いとは言えない時間帯だ。

クーアはドアを閉め、洗い場に置かれた椅子の上に座り、ボクと向かい合って答えた。

「シアーズが気を利かせてくれたらしい。

 あいつはオレが今日は非番で、明日はすぐに仕事に戻ることも、年末までお前達とずいぶんと会えてなかったことも知ってたからな。

 始原祭の締めの簡単な晩餐会が終わったら、すぐにオレに『戻ってやれ』って言ってきたよ」

「シアーズ陛下が……」

ボクは呟きながら、心の中で感謝する。

「閉会式なんてのがなくて助かったな。

 あいつ等がすぐに帰ったから、オレもすぐに帰ってこられた」

言って、クーアは笑みを浮かべた。

「始原祭って閉会式ってねぇの?

 開催式はあるのに?」

クーアの横に立って話を聞いていたシーザーが尋ねる。

クーアはうなずき、答える

「ないな。 強いて言えば、最終日の晩餐会がそれだな。

 けど、それも上の連中だけの話で、一般的には閉会式はない。

 始原祭開催期間中みたいに、明るく健やかで平和な状態がいつまでも続くようにってことを祈願して、閉会式みたいな締めの会は行われないんだ。

 だから、始原祭の最初の会も、開会式じゃなくて開催式って言われるんだよ。

 対になる閉会式がないからな」

「へぇ、そういう理由があるんですか」

納得したようにアーサー。

クーアは膝をパンと叩き、

「何にせよ早く帰ってこられて良かった。

 明日は朝早いからな」

そう言って、椅子の上で向きを変え、シャワーのコックをひねった。

「朝、早いの?」

シャワーを頭から浴びるクーアの背に向かってボクが尋ねる。

「早いって言っても、7時くらいかな」

クーアはこちらを向かずに答えた。

「もうちょっとゆっくり……ってわけにはいかねぇよな、仕事だし」

と言ったのはシーザー。

クーアのレンジャーとしての仕事に対する理解を示すその言葉からして、シェイフの助言、というか苦言が活きたようだ。

クーアはシャワーを止め、髪をかき上げて横のシーザーを見上げる。

「まぁ、こればっかりはな。

 でも、できるだけ早く帰れるようにするし、連絡もこまめに入れるようにするよ。

 今回は前回ほどは忙しくはないだろうからさ」

「……本当かよ」

「約束する」

「破ったら針千本飲む?」

「ああ」

「絶対だからな?」

「絶対」

「ならいいや」

クーアの口約束に納得したらしいシーザーは、おもむろにクーアの前にあるシャンプーのポンプを押し、中身を掌に乗せた。

両手を擦り付けて掌全面にまぶすと、そのままクーアの濡れた髪に塗り付ける。

「おっと! 何だ?」

クーアが笑い交じりに尋ねると、シーザーは、

「へへ〜、スキンシップ兼シャンプー。

 明日から会えなくなるからな」

と言いながら、クーアの髪を洗い始めた。

みるみるうちにシャンプーが泡立ち、クーアの白い髪をより一層白くしていく。

「気持ちいい?」

マッサージするような指つきでクーアの髪を洗い、シーザーが尋ねる。

「もう少し強めでもいいな」

まんざらでもない様子でクーアが答える。

「これくらい?」

「ん〜……」

気持ち良さそうにクーアが唸る。

こんな様子でしばらく。

すっかり泡まみれになったクーアの頭をシーザーがシャワーで洗い流す。

「じゃあ、お次は――」

「あ、次は僕が洗いますよ」

コンディショナーを取ろうとしていたシーザーを制し、湯船から上がったアーサーが代わりにコンディショナーを手に取る。

「じゃ、ボクは背中を流そうかな」

アーサーに便乗し、ボクも湯船から上がってボディソープのポンプを押した。

「何だ、お前等まで」

周囲に集まってきたボク達にクーアは言う。

「いいでしょ、たまには」

と、ボク。

その言葉を皮切りに、ボクもアーサーもクーアを洗い始めた。

「んなら、オレも体」

洗い始めたボクとアーサーを見て、シーザーもボディソープを手に、クーアの腕を洗い始める。

「おお〜、何か変な感じだな〜」

ボク達3人に洗われているクーアは、くすぐったそうにしながら感想を漏らす。

たしかに、6本の腕で体中を洗われるなどということは滅多にあるものではないだろう。

ボクが調子に乗って脇腹に手を伸ばすと、クーアは声を上げて笑いながら身をよじった。

それを見たシーザーが、さらに悪乗りをする。

「ここも洗ってやるよ」

言って手を伸ばした先は、クーアの股間。

「うぉっ!? ちょっ、バカやめろ!」

腰を引きながらクーアが抗議する。

が、当然ながら、その程度の抗議でシーザーがやめるはずもなく、

「へへ〜、気持ちいい?」

と、余計に調子づいて尋ねる始末だ。

「バカなこと言ってんじゃない」

クーアは一喝し、シーザーの腕を手で掴んでやめさせようとするが、目を閉じている為に目標が定まらない。

そのうえ、シーザーが、掴もうとするクーアの手をよけながら行動するので、なお悪い。

「アーサー、頭洗うのちょっと止めてくれ」

クーアがアーサーに頼むも、アーサーからはクーアの体が邪魔になってシーザーの行動が見えていないようで、

「え?」

と、疑問の表情を浮かべて聞き返した。

クーアとシーザーの手の追いかけっこを見かねて、代わりにボクが咎める。

「やめなよシーザー。

 クーアが嫌がってるじゃんか」

「え〜? でもちゃんとキレイにしないとだろ〜?」

ニヤニヤ笑いを浮かべ、楽しくて仕方がないという風に、シーザーはクーアの手をかいくぐりながら、その股間を触り続ける。

「シーザー!」

ついに、半ば怒ったようにクーアが声を張った。

そして一言。

「お前、そんなことばっかりやってると、ケルカみたいになるぞ?」

それを聞き、ピタリとシーザーの動きが止まる。

見れば、シーザーは耳を伏せ、

「それは…………嫌だ、なぁ……」

と、力なく呟いた。

 

 

「お〜い、シーザー!

 早くしねぇとクーアが行っちまうぞ〜!」

玄関で、2階にいるシーザーに向かってケルカが声を掛けた。

『今行く』と、2階からシーザーの返事が返ってくる。

ほどなく、ドタドタと慌ただしい音を立ててシーザーと、それを迎えに行ったアーサーが下りてきた。

「すみません、お待たせしました。

 シーザーがなかなか起きてくれなくて……」

下りてくるや、アーサーがクーアに向かって謝り、非難の目でシーザーを見た。

しかし、シーザーは自分に非難の目が向けられていることを棚に上げ、

「何で起こしてくれなかったんだよ!」

と、逆に非難の目でボクに向かって抗議してきた。

なので、すかさず反論してやる。

「起こそうとしたけど起きなかったじゃん。

 昨日、遅くまではしゃぎ過ぎたんじゃないの。

 だいたい、クーアは今日仕事だって分かってたんだから、少しくらい気を使ってクーアを休ませてあげたら?」

「そうですね。

 僕達、寝る前に同じようなこと言いましたよね、たしか。

 『早く寝かせてあげた方がいいんじゃないですか』って」

「うん、言った言った。

 『明日、見送りに起きられなくなるよ』とも言ったよね」

「言ってましたね」

昨日の夜、ボクとアーサーはクーアに気を使って普段どおりの時間に床に就いたのだが、シーザーはかなり遅くまでクーアと話していたと、当のクーア本人が言っていた。

「う……」

ボクとアーサーに指摘され、シーザーが呻いて言葉に詰まる。

「け、けど、それにしたってよぉ……」

モジモジと決まり悪そうに身じろぎし、言い訳がましく食い下がるシーザー。

そこへ、横からケルカがからかいの言葉を投げ掛けた。

「レンジャーになろうって奴が朝1人で起きられねぇんじゃ、レンジャーになるなんて夢のまた夢だな」

「うぐっ……」

返す言葉もないのか、シーザーは黙り込んでしまった。

しおれた耳と尻尾を見る限り、それなりにこたえたようで、反省の色がうかがえる。

たまにはこれくらいの仕置きもいいだろうとボクが思っていると、それまで黙っていたクーアがケルカの方に向かって口を開いた。

「お前が言えた立場かよ。

 昔、毎朝オレとアルファスに蹴り入れられて起こされてたのはどこの誰だったっけ?」

「……昔のことをいつまでも引きずってる男ってモテねぇぜ?」

半ば呆れ、半ばからかいの口調で言ったクーアの言葉に、ケルカは減らず口を叩いてそっぽを向いてしまった。

どうやらケルカの分が悪いようだ。

そんなケルカを横目で見て、それから視線をボク達に移し、

「じゃあ、行ってくる。

 約束通り、できるだけ早く帰ってこられるようにするし、こまめに連絡入れるよ」

そう言って玄関のドアを開け、仕事へと向かった。

その背に向かって、ボク達3人が声をかける。

『いってらっしゃい!』

対し、クーアは振り向くことなく左手を上げ、歩を進めた。

見送るボク達の視線を阻むように、玄関のドアが閉まる。

「……行っちゃったね」

誰にともなく、ボクが呟く。

「ですね」

ボクの言葉を拾ってアーサーが相槌を打った。

「いつぐらいに帰ってくんのかな?」

シーザーがケルカに向かって尋ねると、ケルカは腕組をしてしばらく瞑目して答えた。

「まぁ、仕事聞いた限りじゃ、そんなに時間が掛かりそうな内容じゃなかったな。

 長くて半月ちょいくらいじゃねぇか?」

「半月か〜……」

クーアの出ていった玄関のドアを見透かすようにして見ながらシーザーが呟く。

その声色には少々落胆の色が見える。

「けど、こっちに連絡よこすくらいの時間の余裕はあると思うぜ?」

「ん〜」

ケルカのフォローにもあまり気のない返事をするシーザー。

そんなシーザーを見咎めるように、シーザーの頭の上にケルカが手を置く。

「それより、お前等はやらなきゃいけねぇことがあるだろ?

 特にお前は2人と違ってバカなんだから、もっと気ぃ入れて頑張んねぇと試験落ちちまうぜ?」

「うるっさいな!

 そんなの分かってるよ!」

ケルカの言葉に気分を悪くしたのか、シーザーは乱暴にケルカの手を跳ね除けて大股でリビングへと向かっていってしまった。

ボクとアーサーに向かって肩をすくめてみせたケルカがそのあとに続く。

そんな2人の背を見送りながら、横でアーサーがぽつりと呟いた。

「もうあと1ヶ月もすれば試験なんですよね」

「そうだね」

相槌を打つボク。

もう試験まであまり日がない。

正直なところ、試験に受かる自信があるかと聞かれれば、ボクは首を傾げるだろう。

もちろん、色々と教えてくれるミラ達を信頼してはいる。

アルファスなどは、今教えていることの半分も身に付いていれば大丈夫と太鼓判を押してくれた。

しかし、いくら太鼓判を押してもらったところで、当のアルファスやミラやフレイクが試験の合否を決められる立場にいるわけではない。

当たり前のことだが、仮にその立場にいたとしたら、以前かけられたギーズの疑いそのままになってしまう。

それに何より、教えられたことを活かし、発揮するのは他ならぬボク自身だ。

いざ試験となった時、教わったことすべてを活かし、余すことなく発揮できるかどうか、その自信がボクにはなかった。

要するに、ボクは自分自身に自信が持てないのだろう。

すぐそばに自分よりはるかに優れたアーサーがいるうえに、知り合ったばかりのハーゲン達はさらにその上だ。

シーザーにしたところで、身体能力はボク以上であることは否定の余地がない。

ボクがシーザーに勝っているのは、せいぜい魔力くらいだろうか。

そう考えると、あらゆることに気後れしてしまう。

「どうしました?」

思わずついたため息が聞こえたのか、アーサーが気遣わしげにボクの顔を覗き込んできた。

「え? え〜と……」

ボクは、今考えていたことを正直に言おうかと思ったが、それを言葉にするのは恥ずかしい気がしてきて、何か誤魔化す話題はないかと考えを巡らせた。

そして、ふと、というよりも自然と話題が1つ浮かんできた。

「試験もそうだけど、週末はハーゲン達と探険だよね」

試験よりも前にハーゲン達との『古竜種』の遺跡探検というイベントが控えていることを思い出した。

アーサーはボクの話題転換に気付いた様子もなく、

「ああ、そうでしたね」

と、相槌を打った。

「もう準備し始めた方がいいですよね」

「うん。 でも、大人達にはバレないようにね」

ボクが言うと、アーサーは少し考えるような表情を見せ、

「シーザーにはもう1度口止めしておかないと、うっかり口を滑らせそうですね」

と、なかなか手厳しい指摘をした。

シーザー本人が聴いていたら、二言三言文句が返ってきていただろう。

もっとも、すぐにアーサーに反論されて黙ってしまっていただろうが。

「何かボク、ドキドキしてきたよ」

ボクが胸を押さえて言うと、

「そうですか? 僕はどちらかというとワクワクしてますけど」

アーサーは小さく笑って小首を傾げてみせた。

(そりゃ、アーサーは地力が違うからね)

ボクは言葉に出さずに心の中で呟いた。

皮肉でも何でもない、素直な感想だ。

アーサーくらいのレベルになれば多少のことは乗り切れるだろうが、ボクとシーザーのレベルではそうはいかないだろう。

おそらく、アーサーやハーゲン達の足手まといにならないようにするのが精一杯だと思う。

しかし、探険する『古竜種』の遺跡に関する事前情報から察するに、それですらできるかどうかは微妙だ。

それが心配の種となって、ボクは緊張している。

当然、未知の物に対する好奇心もあるから、アーサーのように胸を躍らせもしているのだが、どちらの感情が勝っているかと言われれば、比べるべくもなく緊張の方だ。

何より、今回はクーアがいない。

正確に言えば、保護者として足る人物が同行しない。

行動の安心を保障をしてくれる人物である保護者がいるのといないのとでは、安心感がまるで違う。

それがボクの緊張に拍車をかけているのは間違いないだろう。

とはいえ、レンジャーになればそれが普通になる時がくる。

クーアの後ろ盾を当てにするわけにはいかなくなる時がくる。

これはその良い前哨戦だろうか。

「リビングに行きましょうか?

 そろそろ朝食の準備をしないと」

横から掛けられたアーサーの言葉に、ボクは我に返った。

「あ……うん、そうだね」

ボクの答えを待たずに、アーサーはリビングへと向かって歩いていった。

それを見送りながら、ボクはまた1人思案に暮れた。

(そうだ……いつまでもクーアと一緒にいられるわけじゃないんだ。

 シェイフは15歳で独り立ちしたって言ってたっけ。

 15……あと5年ないくらい。

 それくらいしか、クーアと一緒にいられないんだ)

15歳になったら独り立ちしなければならないわけではないのだが、その年齢が1つの目安となるのは間違いない。

(いつまでもクーアを頼っちゃダメなんだ。

 ……頑張らなくちゃ!)

そう自分に言い聞かせ、ボクは自分の頬を両手で挟むように叩いた。

パンッと乾いた音が玄関に響く。

「よし!」

掛け声を発し、アーサー達のいるリビングへと向かう。

少しだけ、緊張が和らいだ気がした。